18枚目 恩返しが終わらなければいいのに
「すごい…」
両手で口元を覆いながら言葉を失っている彼女を横目で見ながら、目の前でダイナミックに水面から飛び出したシャチたちは、トレーナーの元に戻り頭を撫でられながら餌を口に放り込まれている様子を眺める。
他人と出掛けるなんて苦痛だとしか思えなかった俺が、誰かと水族館なんてものに来ていることが少し信じられなくて胸のあたりがそわそわする。
「ではこれから、シャチたちが元気よくみなさんにご挨拶に伺います!前の方にお座りのみなさん、ポンチョの準備はいいですかー?」
ショーのアナウンスをしている女性の声が会場に響く。ショーが始まる前にポンチョを買っていたユリはニコニコしながらそれを身に着けて、備え付けのフードを深めにかぶって目をキラキラとさせている。
最前列ならまだしも、ここは前から三段目だし、そこまで注意しなくてもいいのに…とユリのことを微笑ましい気持ちで見ながら、ショーへと目を戻した。
ザバーンと勢いよくシャチが水面から飛び出して水しぶきを上げる。そして、トレーナーと一緒に水槽の外周を回り始めた。
トレーナーが手をあげると、シャチが水槽の中で逆さになり、大きな尾だけを水面から持ち上げる。
「え…」
トレーナーが手を下げると、勢いよくシャチの尾も下がり、水面を叩く。ものすごい量の水が客席の方へ撒き散らされる。
続けてトレーナーが笛を吹くと、水槽の縁近くで大ジャンプをしたシャチが水を撒き散らし、顔を水槽から覗かせる。
よく見ると水槽から顔を出したシャチは口元からも水を少し吐き出している。
「ポンチョ…直久さんも買えばよかったですね?」
「…言うな」
三段目だからって油断した。髪の毛も服も予想以上にびしょびしょになった俺の顔を覗き込みながらそういったユリに何も言い返せず、俺は肩を落とす。
「次に来る時は直久さんもお揃いのポンチョ買いましょうね」
「そう、だな」
無邪気にそう言われて、少しだけ胸が締め付けられた。
次が来るまで恩返しが終わらなければいいのに…なんてことはさすがに口に出せないまま、軽快なテンポの音楽に合わせて水面を縦横無尽に動き回るシャチたちのショーへ目を戻す。
「シャチ、可愛かったですね」
「ぬいぐるみとかも、欲しいなら買っていいんだぞ?」
ショーの余韻を楽しむように、席に座ったままシャチの水槽を見ているユリに声を掛け、手を取った。
一瞬、ユリの目が見開いて、俺の顔を見つめる。
みるみるうちに桜色に染まる彼女の頬を見て、自分がしたことに気が付いて慌ててユリの手を離す。
「…恩なんて返し終わらないくらい色々してくれるんでしたよね?」
目を泳がせながらそういって俺の手を再び取った彼女に返事ができないまま、立ち上がって少しぎこちなく出口へと向かった。
目的の店は、一度屋内に入った先のエスカレーターの先にあるらしい。
人混みではぐれないように彼女の肩を支えながらエスカレーターに乗ると、彼女の身体が後ろにグイっと引っ張られるのが見えた。
小さな悲鳴をあげたユリは、俺が肩を支えていたお陰でなんともなかったが、彼女の肩に掛かっていた小さな鞄は見事に人の間をすり抜けてエスカレーターの下に落ちていく。
「すみませーん!すぐ取りに行きます」
エスカレーターの乗り口に散らばった鞄の中身を覗いて小さく身を竦ませたユリの頭を軽く撫でて、大きな声で一言だけ謝り、早足でエスカレーターを登って下りのエスカレーターを探す。
早足で鞄を落とした場所まで来ると、親切な人たちの手で散らばっていたカバンの中身はまとめられていた。
「あ、ありがとうございます…」
「い、いえ…他にも手伝ってくれていた女の人がいたんですけど…全然、気にしなくていいですよほんとに」
頭を下げる俺たちに、笑顔でそう言いながら辺りを見回した女性につられて俺も辺りを見回してみる。
猫背の女性が見えた気がして一瞬身を竦ませたが、さすがにこんなところに永本がいるはずがないと思い直して、もう一度目を向けた。が、休日で賑わっている人混みの中に消えてしまったのか、見覚えのある猫背の女性の姿はもうなかった。
背の高い女性は、ユリに鞄を手渡すと、一緒に来ているらしい男性の元へと駆け足で戻っていく。
さっきまで泣きそうな顔で歩いていたユリは、鞄を胸に抱いて小さく息を吐くと、やっといつもの笑顔に戻って俺の顔を見上げてきた。
「行こうか」
差し出した手をユリが握り返してくる。他人の体温は苦手なはずなのに、彼女から伝わってくる手のひらの熱さや、鼓動は心地よく感じる。
出掛けることも、こうして人混みの中で一緒に歩くことも苦にならない。
今にも鼻歌を歌いだしそうなくらい上機嫌なユリの横顔を見ながら、エスカレーターを登りきったあとに広がる熱帯魚たちが動き回る水槽の間を通り抜け目的のおみやげコーナーに辿り着いた。
店内は家族連れだけでなくカップルで賑わっている。
「あ!ホントだ!シャチのぬいぐるみ!マグカップもあるー」
以前までは「うっ」と尻込みしていたはずの場所も、彼女が手を引いてくれるお陰か拒絶感を覚える間もないまま足を踏み入れた。
しばらくあれでもない、これでもないと物色をしているユリを後ろから見守っていると、彼女はなにか思いついたような顔をして俺の手を引っ張ってキーホルダーコーナーへと連れてきた。
「これ、キーケースに合うと思うんですよ」
そう言って雪の結晶の下にシャチが着いている小さなキーホルダーを指さしてから、鞄の中をゴソゴソと探り始めたユリの眉が徐々に八の字に近付いていく。
小さな声で「あれ?」と言いながら鞄の中を見ているユリがとうとう泣きそうな顔で俺の顔を見上げた。
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