17枚目 「私、パンツですよ?」

「直久さん…直久さん…?」


 手に指を絡められて、腕が柔らかいものに包まれる感覚がする。

 今にも泣き出しそうな声が聞こえて、目を開くと眩しい光と共に目を潤ませたユリの顔が視界に飛び込んできて我に返った。


「急に倒れて…通りすがりの人に車を呼んでもらって…とりあえずホテルまで戻ってきたんです」


 俺の腕を自分の胸元で抱きしめるようにして握ったままのユリに言われて、周りを見渡す。

 どうやらあのまま倒れたらしい。「ごめん」と言う前に、 俺の手を開放したユリが寝汗でびっしょり濡れた俺の胸元に顔をうずめるように倒れ込んできて口を噤む。


「直久さん…ずっとうなされてたから…」


 震える声でそういったユリが顔をあげると、大きな目から涙の粒が溢れ出して頬をみるみるうちに濡らしていく。


「ごめん」


 それだけ言ってユリの目元の涙を指で拭ってやると、彼女は「ううん」と小さな声で言いながら首を横に振った。


「最近体調も悪そうだったのに…気がつけなくて…無理させちゃってたなって…恩返しをすべきなのに…どんどん迷惑をかけて…」


「ちがう。無理していたわけじゃない…」


「でも…倒れたのは…私のせいで…」


 大粒の涙を零しながら子供のようになくユリに対して、何か答えようとして言葉に詰まる。

 再び俺の胸に顔を伏せて泣きはじめた彼女の背中を、子供をあやすようなゆっくりとしたリズムで軽く叩きながら、もう片方の手で真っ黒な髪を撫でる。


 勝手に面影を重ねていた相手のことを話すべきだろうか。

 ユリと接していたら、忘れていた女のことを思い出したなんて言えば、彼女はさらに自分を責めるんじゃないか?

 色々考えて、肝心な時に気の利いたことの一つも言えない自分に腹が立ってくる。


「早く元の姿に戻らないといけないのに…つい、直久さんといるのが楽しくて…戻りたくなくて甘えちゃって…」


 しゃくりをあげながら顔をあげたユリの言葉が信じられずに、俺は彼女の顔を見つめながら眉を寄せる。聞き間違いか?と悩んでいると、彼女は俺の気持ちを誤解したのか再び声を上げて泣き始めた。

 ごめんなさいを繰り返しながら、かぶりをふるユリの頬を両手で挟んで止めて、しっかりと目を合わせる。


「ちがう。責めたいわけじゃないし、怒ってもいない」


 取り乱しているユリは、いやいやと首を横に振って俺の手を振りほどこうとしていたが、俺の一言を聞いた途端、目を丸くして動きを止めた。

 涙が筋を幾つも作っている彼女の頬を撫でるようにして手を離し、俺は上半身をベッドから起こす。


「でも…」


 眉尻を下げて悲しそうな顔をしたまま俺と向き合っているユリは、不安そうに目を泳がせる。


「俺も…戻らないで欲しいと思ってる。…だから」


 まだ涙の筋が残っている彼女の頬に再び手を伸ばす。

 そっと柔らかい頬に触れると、彼女は俺の手に自分の手を重ねるように置いた。


「恩返しが終わらなければいいって…俺も思ってた。ごめん」


 じぃっと丸くて大きな目で見つめられながら、慎重に言葉を選ぶ。

 俺が頭を軽く下げながら謝ると、やっとユリの表情が少し和らいだ気がしてホッとする。


「あと…その…ユリの喜ぶ顔が見たいからって無理はしないようにするし…その…倒れた理由も…聞きたいなら話すから」


「戻ってほしくないって…パンツが好きじゃなくなったってことですか?」


「いや、パンツは好きだし…パンツに戻ってもめちゃくちゃ大切にするけど、そうじゃなくて…」


 急にハッとした顔をして真剣な顔をしてそんなことを言うユリに思わず少し慌てて答えながら、身体を勢いよく起こした彼女を再び抱き寄せた。

 胸にポスンと顔を埋めたかと思うと、すぐに顔をあげたユリがいたずらっぽく笑て俺の目を見つめてくる。


「一緒にいたいんだ。ユリと」


「そ…それってどういう?え?私、パンツですよ?」


「知ってるよ」


 少し厚みのある唇の両端を持ち上げて、小さな歯をのぞかせて笑う彼女の天真爛漫な笑顔を浮かべるユリの目を真っ直ぐに見つめると、彼女の頬はポッと一瞬で桜色に染まった。


「ふぇ…その…え…あわ…」


 垂れ目の中で薄茶色の瞳がキョロキョロとせわしなく動く。その様子すら可愛らしいと感じてしまってつい口元が緩む。

 

「恩なんて返し終わらないくらい色々してやるから覚悟しておけよ」


 ユリの頬を軽くつねって笑うと、彼女は一瞬頬を膨らませてむくれた顔をした。しかし、言った言葉の意味をワンテンポ遅れて理解したのか、すぐに吊り上げた眉毛は八の字に下がっていく。


「…はい」


 小さい声でそう返事をして、耳まで赤くしたユリは俺の胸元に額を勢いよくぶつけるように埋めるとジタバタと足をぱたつかせる。

 彼女が彼女でなくなるときが、少しでも先でありますように…。そんなことを考えながら、胸の上で顔を伏せたままの彼女を抱きしめる手に力を少し込めた。

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