16枚目 「ゆーちゃん」
小さな頃、仲良くしていた女の子のことを思い出した。
なんで忘れていたのかわからないくらい、今ならはっきりと思い出せる。
肩で切りそろえた黒髪を揺らして元気に走り回っている子犬みたいな女の子のゆーちゃんは、家から抜け出して公園まで来ていたのか、よく一人で遊んでいた。
「なんであなたはそういうことをするの!そんなにお母さんを困らせたい?頭おかしいんじゃないの?」
母に平手打ちをされて吹き飛んだ俺の手には、母のものである真紅のレース付きパンツが握られている。
その頃の俺には、不安になると母の引き出しからパンツを取ってポケットにしまい込むという困った癖があったのだ。
公園で遊んでいた俺のズボンのポケットから落ちたパンツを見て激昂した母が、駆け寄ってきて勢いよく俺の頬を叩いたとき、遠巻きにしている他の子を余所にそこで駆け寄ってきたのが、ゆーちゃんだった。
クリクリとした柴犬の子犬のような丸い目に、アイラインでも引いているのかと誤解しそうなくらい濃くて長い睫毛を持った彼女は不思議そうに首を傾げてこういった。
「なーくんは変じゃないよ!好きなものを集めるのはふつうでしょ?わたしもダンゴムシとか…あとシールとかいっぱいあつめるよ」
言葉を詰まらせて、気まずい顔をしている母に背を向けたゆーちゃんが、俺に駆け寄ってきて手を差し伸べる。
涙を腕で拭って、彼女の手を取って立ち上がると、ゆーちゃんはニコッと眉尻を下げて笑いかけてくれる。
蝉の声がうっとうしいくらい降り注いでくる公園での思い出…。
それからも俺の困った癖は治ることなく何度も母に怒られる日々が続いた。
数ヶ月してから、困りきった母はとうとうタンスに南京錠が付けることで俺の問題行動を強制的にやめさせるようとした。
子供の俺は、困った癖をやめるためにすべきことも、なんでそんなことをするのかもわからないまま、ただ不安な時に握りしめる何かが手に入れられないことを涙ながらにゆーちゃんに話したのだった。
それから少し経った日。風が強く吹いていたのを覚えている。
親の目を盗んで公園から抜け出した俺とゆーちゃんは人通りの少ない海への道を冒険していた。
海際の土手の上で両手を広げてバランスを取りながら歩く彼女は、急に立ち止まってあたりを見回したあと、さっきまで見えていた花柄の綿パンツをスカートで隠してしゃがみこんだ。
「なーくん、ゆーちゃんが使ってないパンツ…ほしい?」
唐突にそんなことを聞いてきたゆーちゃんは、下の遊歩道を歩いている俺の顔を見つめながら首を傾げた。
ゆーちゃんのパンツなら、母のパンツほどではないけど不安な時に安心できる。そんな気がした。
俺がうなずくと、ゆーちゃんは首からぶら下げていた猫の顔をしたかわいらしいポーチの口を中が見えるように開いてみせる。
ポーチの中に、女児向けの可愛らしいうさぎやねこの描かれた綿パンツが何枚か入っているのが見えて、思わず生唾を飲み込んでしまったのを覚えている。
「あ…ありが…とう」
やっとのことで声を絞り出してゆーちゃんを見上げる。
「お母さんのパンツがだめなら、ゆーちゃんのパンツをもてばいいんだよ!ゆーちゃんもこわいときタオルケットないとむりだもん」
ポーチを閉めてニコっと笑ったゆーちゃんは、ポーチの首紐に俺の頭をくぐらせた。
※※※
「ね、なーくん、まだあのときのこと怒ってるの?」
「当たり前だろ。
閉じていた目を開くと、紺のブレザーを着た少女が、俺の机に頬杖をつきながら唇を前に突き出して拗ねた顔をしてみせる。
そんな百合江の顔を見ながら、懐かしいことを思い出していたな…とぼやけた頭で考える。何か忘れている気もするけれど…寝起きだからか頭が回らない。
「なーくんはさ、もう、パンツに興味はないのかなー?」
「当たり前だろ。あんなのガキの頃の気の迷いだ」
西日が差し込む誰もいない教室で、挑発するように顔を近づけてくる百合江の頭を軽く叩いて席を立った。
子供の頃故の無知さと不安の解消法がわからなかった混乱で、俺は母のパンツを集めていた。そう理屈をつけて割り切った。パンツが好きな人間なんて犯罪者予備軍でろくなものではない。だから母に認められるためにも俺はそういう趣味をやめなければならないし、パンツなんて興味が無いと言わなければならない。
そう考えた瞬間、胃から不快感がこみ上げてきた。吐き気を気のせいだと思って平静を装いながら、教室のドアを開こうとする俺の腕に百合江が手を絡めてくる。
「そうだよね。そんな趣味、気持ち悪いもん。早く一緒にかえろー?」
百合江はそう言いながら俺に体を押し付けた。他人の体温が服越しに伝わってきて鳥肌が立つ。
薄桜色の唇の両端を持ち上げて、微笑みながら俺の顔を見上げてくる百合江を見て強烈な頭痛と吐き気に襲われる。
頭の中に「気持ち悪くなんてないですよ」という百合江ととても良く似た声が響く。
「好きなものを大切にすることの何が気持ち悪いんですか?」
頭の中に浮かんだ百合江と瓜二つの女性の言葉でぼんやりしていた頭の中の霧が晴れていくような感覚が広がっていって気がつく。
ゆーちゃんは制服なんて着なかった。
だって俺にポーチを渡したあと、彼女は落ちたんだから。
勢いよく俺の腕に手を絡めたゆーちゃんの顔をした女を振りほどくと、そいつは薄笑いを浮かべて消えていった。
俺が口元を抑えながらうずくまると、教室だった場所はあのとき、ゆーちゃんと二人で歩いた遊歩道に変わっていく。
ポーチを受け取って、どうしていいかわからず駆け出す小さな頃の俺と、俺の名前を呼んで急に立ち上がったゆーちゃんの姿が見えた。
名前を呼ばれた小さな頃の俺がゆーちゃんの方を振り向くと、ゴウっという音と共に突風が吹いて、急に立ち上がったゆーちゃんがよろける。
そうだ。これが本当の記憶だ…とうずくまったままうっすらと考える。
手足をばたつかせたゆーちゃんの大きく見開いた目と口が見えて、声もないままゆーちゃんは視界から消えた。
「ゆーちゃん」
無駄だとわかっているのに、咄嗟に伸ばした手。
その手を誰かに優しく包まれた感覚に襲われ、俺の目の前はまるで光でも直接当てられているかのように急激に明るくなっていく。
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