14枚目 「次こそデートですね?」
「おかえりなさい」
「ただいま」
あれから結局、永本に会わないまま3日が過ぎた。というか意識していないだけで先週もあの目立つ猫背で眼鏡をかけた女性は同フロアにいなかった気がしてくる。
そんなどうでもいいことを考えながら、シャワーを浴びて汗を流した。
それから彼女が脱衣所に用意してくれた部屋着に着替えて、ユリが食事の用意をしているキッチンへと向かう。
「今日は昨日のクリームシチューの余りを使ってドリアを作ろうと思ってるんですけど…」
データを初期化してユリ用に設定し直したタブレットをタップしながら、彼女は何かを思い出したかのように手を止めた。
厚手の鍋からは、温め直しているのであろう昨日の残り物のシチューから良い香りが漂ってきている。
「あ!そうそう。今日の買い物で永本さん…でしたっけ?あのメガネの方と会いました」
「…昼間に?」
なんとなく情報に違和感を感じて聞き直す。
「そうです。直接お話はしなかったんですけど、遠くからお辞儀をされて…」
「そうか…昼間に、ねぇ」
特に接触がなかったのなら、過度に心配する必要はないか…。俺は、拭いきれないなんとなく嫌な気持ちを流すように冷蔵庫から出したペットボトルの炭酸水を喉に流し込む。
「ま、大丈夫だろ。ところで、ドリアを作るのならオーブンの予熱をしたほうがいいんじゃないか?」
俺に言われてハッとした顔をしたユリは、鍋の火を止めてコンロの横にあるオーブンレンジの前に移動した。
初日に比べれば驚くほど料理の腕が上達したユリは、ここ数日朝食と昼食用の弁当、夕食を作ってくれている。
まだたまに失敗もするようだが、タブレットを与えたからか、料理のレパートリーも増えたし、買い物にも独りで出掛けて日用品を含めた買い出しもしてくれるようになっていた。
自分のものを他人に管理されるのは気持ち悪いと思っていた上に、昔の恋人とは共働きだったのでお互い自分のことは自分でしようという暗黙の了解が合った。
しかし、ユリと暮らすようになってからは、いつの間にか世の中の専業主婦に家事を任せたいという人間の気持ちもわからなくないな…なんてらしくないことまで考えてしまう。
「あ!直久さん!お弁当箱出してないですよ」
オーブンレンジの予熱の設定を出来たらしいユリは、両手を腰に当てて得意げな顔をしながら、くつろいで本を読む俺の顔を覗き込んできた。
その様子がなんだか微笑ましくて、口元を緩ませながら俺は席を立つ。
「ありがとう、今日も美味しかったよ」
そういって鞄から出した弁当箱を、笑顔で両手を揃えて前に出しているユリにわたす。
家事を一手に引き受けてくれているお陰で、時間に余裕ができたからか食事を楽しんだり、ユリに付き合って一緒に映画を見る時間が増えた。
元々
「最初は、恩返しなんてどうなることかと思ってたけどな」
つい、そんな言葉が口から出てきてハッとする。
そういえば、恩返しを終えたら、この生活は終わってしまうのだろうか。
「この調子なら、早くパンツに戻って、直久さんにもっと喜んでもらるかもですね」
そうだ。
恩返しが終わったら、ユリは
「そう…だな」
いつのまにか忘れていた当たり前のことを思い出して、頭の片隅が鉛でも入ったように重く感じる。
レンジの予熱が終わった音がして背を向けて料理に戻ったユリには顔を見られずに済んだことにホッとした自分がいた。
取り乱している自分を見られないように、ペットボトルに残った炭酸水を一気に飲み干して意識を切り替える。
―いつ恩返しが終わるんだろう
―さよならとありがとうを言うくらいの時間はあるのだろうか
―パンツに戻ったら話を出来なくなるのか
そんなことが頭から離れなくて、額に手を当てたまま上を見た。
天井から吊り下がる暖色のランプを見て、急に昔を思い出す。
夏の太陽と海。
海沿いの土手…。
関係のない小さな頃の記憶を思い出して、急に心細くなる。
そういえば、写真にユリは写るんだろうか。
彼女が消えたあとも、ちゃんと残っていてくれるだろうか。
そんなこと消えてしまったあとじゃないとわからない…か。
ここまで考えて、自分がやっとユリが元の姿に戻らないことを望んでいることに気が付いた。
でも、彼女は…恩返しをして、元の姿に戻ることを望んでいるんだろう。俺が最初にそう願ったから。
小さく息を吐き出して俯いた。
暗い声が出ないように、険しい表情にならないように意識を集中して顔をゆっくりと上げる。
「なぁ…急なんだが今度の休みも出掛けないか?」
「え?わーい!いいんですか?次こそデートですね?」
ユリはシチューの上にチーズを盛り付けた大きな皿を両手で持って振り向いた。彼女の顔には、満面の笑みが浮かんでいる。
よかった。不安にさせるような顔も声もしないですんでいるようだ…と内心ホッとしながら話を続けた。
「ちがう。料理も買い物もしてくれてるご褒美ってやつだ」
「やったー!って、私いつまでたっても恩を返し終わらないですよ?」
持っていた皿をオーブンレンジに入れて、スイッチを押したユリは両手を上げて大げさに喜んだあと、座っている俺と目を合わせると首を傾げた。
「そうなったらその時は…」
首を傾げているユリの頬にそっと触れる。
「一生、面倒を見てやるから心配するな」
「…え?ええ?」
耳を真っ赤にしたユリが、桜色に染まった頬に両手を当ててうつむいた。
それになんだか耐えきれなくて立ち上がった俺は、まるで逃げるように趣味部屋へ続く廊下へ足を進める。
「なんてな。早く恩返しを終わらせて元の姿に戻ってくれよ?」
彼女のことを見ないまま冗談めかしてそう言い残した俺は趣味部屋へ飛び込んだ。料理から手が離せない彼女はしばらくこの部屋には入ってこないだろう。
俯いてくれたお陰で彼女に顔は見られていない…と思う。
普段冷静ぶっている年上の俺が、こんな顔をしているなんて知られてたまるかという僅かなプライドが素直になることを邪魔にする。
素直になったところで、彼女が恩を返し終えたらパンツに戻るしかないんだ。結局離れ離れになったり、人としてこれからの時間を共に過ごせない結末が決まっているのなら変に期待をもたせないで、俺の気持ちなんて伝わらないほうがいいし、深すぎる関係性にならないほうが良い。そう頭ではわかっている…けど。
胸が締め付けられるように痛む中、部屋を取り囲んでいるトルソーに飾られているパンツを見ながら深呼吸を繰り返す。
サイドに透ける素材を持ってきたお陰で全体的に透け感がありつつも、丈を長くすることで下品にならずに上品さを醸し出すことに成功した美しいデザインの水色のパンツ…ラメと刺繍のお陰でどことなくラグジュアリー感を出せる完璧なデザインの
あのパンツを見た時に「運命だ」そう思った。けれど…それは、本当に好みのデザインだったからだけなのか?
ソファーに寝転びながら天井を見上げる。
頭の中をいくつもの疑問が駆け巡る。
「ああ…あと…ユリと週末どうするかも考えないとな」
あとで彼女に行きたい場所を聞こう。それに、寝具も買ってしまおうか…ソファーで寝させているのはそろそろ可哀想になってきた。
「直久さん!ごはんできましたよ」
ドアが開く音がして、ユリが笑顔のまま部屋へと入ってくる。
ソファーの横に立っているユリと目が合うと、彼女は首を傾げながら不思議そうに瞬きをした。
さっきまであんなに顔を赤くして照れていたのに、いつもの調子を取り戻すのも早くてホッとしたような残念なような気持ちになる。
「今いくよ」
子犬のような目で俺をいつまでも見ているユリが心配そうな顔をする前に、俺は彼女に笑いかけながらそう応えると上半身を起こした。
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