11枚目 「今日だけ…このまま眠らせてくれないか?」

「なーくんは変じゃないよ!好きなものを集めるのはふつうでしょ?わたしもダンゴムシとか…あとシールとかいっぱいあつめるよ」


 俺を叱りつけていた母の顔を、見上げたゆーちゃんは首を傾げてそう言った。

 蝉の声が降り注いでいる。太陽の光が眩しくてゆーちゃんの顔は見えない。

 母に背を向けたゆーちゃんが振り向いてこちらに歩いてくる。

 怒った母に突き飛ばされて転んだ俺を起こすために、ゆーちゃんが手を差し伸べてきた。

 ここなら眩しくない。やっと顔が見られる。

 俺は涙をグイと腕で拭って顔をあげた。



※※※


「あ。直久さん、おはようございます。もう気持ち悪くないですか?お水、飲みます?」


 目を開くと、俺の顔を覗き込みながら優しく微笑んでいるユリの顔が見えた。

 その光景があまりにも絵になるので、夢の続きなのか?と一瞬不安になる。


 寝転がったまま視線を動かして、自宅のリビングで、自分がユリの太腿に頭を乗せていることを把握する。

 スウェットに身を包んでいるユリを見て自分の失態を思い出した俺は、少し気まずくなりながら、乾いてうまく動かない口を開いた。


「…母さんは?」


「ノロウイルスに感染するのが嫌だって、あれからすぐに帰っちゃいました」


 眉尻を下げて、困ったように笑ったユリは、俺の額をそっと撫でた。

 いつもは気持ち悪いと感じている人肌も、俺を撫でる手も、今は少しだけ心地よく感じて、目をゆっくりと閉じる。

 

「そっか…」


「嘘ついたの…余計なお世話でしたか?」


「…いや。別に怒ってるわけじゃない。でも、今後のためにも教えておくが、ノロウイルスは別に予防接種で予防できないからな」


「は、はわ…恥ずかしいです…そうなんですね…」


 母に咄嗟に言った雑な嘘を思い出して思わず吹き出す俺を見て、ユリは頬に両手を当てて顔を赤らめた。

 一人だったら、多分、母の態度に傷ついて、いつも母が来た後と同じように独りきりでトイレにこもっていたのかもしれない。

 でも、今はなんとかこうして笑っていられる。他人と共に過ごすことも、笑うことも煩わしいと思っていたけれど、ほんの少しだけ他人と過ごすということの良さがわかった気がした。


「まぁ…いいんだけどさ。水、ほしい。喉がかわいた」


「はい。今持ってきますね」


 ユリが立とうとしたので、俺は少しぼうっとしたまま頭を持ち上げる。

 さっきまで後頭部を包んでいたやわらかさと温かさが急になくなって、なんとなく寒い。特に部屋が寒いわけでもユリが特別熱いわけでもないのに。


「…どうしました?」


 気が付くと、俺は立ち上がった彼女へ手を伸ばしてスウェットの裾を掴んでいた。

 不思議そうな顔で俺を見るユリに、キッチンへ行く彼女を止めた理由が説明できずに首をかしげる。


「…わからない。すまん…」


 自分でもわからなくて、半分残した身体をソファーに預けて目を閉じた。

 まだ立ち止まっているユリに何も言わないのはなんとなく居心地が悪くて、ソファーの背もたれに顔を埋めるように向きを変えた。

 

「急に首元が寒くなったから、つい」


「嫌じゃなければ、戻ってきたらまた膝枕しましょうか?」


「…嫌では、ない」


「じゃあ、少し待っててくださいね」


 ふふっと声を上げて笑ったユリは、そのままパタパタと足音を立ててキッチンへと水を取りに行った。

 自分から出てきた言葉が信じられなくて、落ち着かない。

 ゴロゴロと寝返りを打ったり、ソファーを抱いたりして落ち着く格好を模索しているうちにガラスのコップの半分くらいに水を入れたユリが戻ってきて、目が合う。


「どうぞ」


 屈み込みながらグラスを差し出してきたユリから、グラスを受け取るために身体を起こす。

 倦怠感が肩に伸し掛かってきているみたいにダルい。


「ありがとう」


 それだけ言って水を一気に飲んでグラスをテーブルに置いた俺を、見つめながらユリは横に腰を下ろす。

 母親に怯えて、何も言い返せずにいるばかりか、ストレスに耐えられずに嘔吐したダメな男に幻滅などしていないのだろうかと、急に不安が襲ってきて、俺は思わずユリの視線から逃げるように顔を背けた。


「あ!もしかして、恥ずかしがってます?いいんですよ。恩返しに来たんですし、膝枕の一つや二つ!そのためにこの姿で現れたんですから」


「…ばか。ちがう」


 急に明るい声でそんなことを言い出すのだから思わず笑ってしまう。彼女には、人を落ち込ませない才能があるらしい。

 それなら…もう少しこのまま一緒にいてもいいのかもしれない。


 振り向いて彼女とまた目が合う。するとユリはパァッと顔をほころばせた。それから「しまった」とでも言いたげな表情を浮かべた後、わざとらしく頬を膨らませて唇を尖らせる。


「いや、ちがわないか…」


 その様子を見ていたら、さっきまで感じていたよくわからない寒さが溶けるように消えていく気がして、彼女の頬に手が伸びる。


「今日だけ…このまま眠らせてくれないか?」


 頬をそっと撫でると、へらっと力が抜けるようにユリが笑った。

 そのまま彼女に体重を少し預けるように近付いて、額をコツンとぶつけて静止した俺は、彼女に聞こえるか聞こえないかわからない大きさでそう呟いた。

 コクリとうなずく彼女の膝に頭をあずけて横になると、ユリは鼻歌を歌いながら俺の髪の毛を優しく撫でる。


 彼女の温かさと柔らかさがなんだか心地よくてうとうとしながら、まだ彼女の恩返しが終わっていませんように…そんなことを思った。

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