10枚目 「直久さんの趣味は、私を助けてくれたんです」
「今日は突然お邪魔してしまって、ごめんなさいね」
「いえいえ、こちらこそご挨拶をする前にこんな形でお会いすることになってしまって…。すみません…」
緊張で変な汗をかいている俺を余所に、隣り合って座っている母とユリは朗らかに社交辞令を交わし合う。
ユリがこういった会話を出来るのが少し意外といえば意外だった。
「ユリさん…でいいのかしら?以前に会ったことがある気がするのだけど…」
「ぴえ?そ、そうなんですか?」
以前に会ったことがある。
その言葉を聞いて、頭の奥底がズキッと傷んだ気がしたが、すぐに頭痛は消えた。
それよりも、胃の不快感のほうが深刻だ。
母は、穏やかな笑みを浮かべたまま、目を丸くして驚いているユリを見つめる。
「でも…これだけ美人な
顔を伏せて、自嘲的に笑った母にユリは首を傾げた。
「直久さんは、すごくいい人ですよ」
「そう言ってもらえて嬉しいわ。でもね、直久には困った趣味があるじゃない?」
キョトンとしているユリの顔へと、母は伏せていた視線を戻す。それから、困ったような、怒ったような顔をして笑ってみせる。
何度も、何度も見た顔だ。この顔を母がする時、決まって嫌なことが起こる。
ひたすら黙って、この嫌な時間が過ぎるのを待つしかない。
自分の体が冷えていくのがわかる。俺は、自分の体が足の先まで冷たい石のようになった気がした。
「わたしも、直久のことはちゃんと育てたつもりなのだけれど…いつのまにか女性用の下着なんかを集めるようになってしまって…。そんな趣味はやめなさいって何度も言っても聞かなかったのよ…困った子よね」
「あの…」
ユリが身を乗り出して口を挟もうとするのが見えた。
無駄なんだ。こうなるとしばらく母は止まらない。
母を挟んで対角にいる彼女に、そのことを伝えられないまま、母は更に言葉を重ねていく。
「それが原因で、せっかくわたしが頼み込んで婚約までしてくれた彼女に振られてね。それでも全然懲りないから、この前来た時は少しきつめに怒ったのよね。異常な趣味なんてやめてまっとうに生きなさいって…。こんなダメな子でも家庭を持てばそんなくだらないことやめると思ったのだけれど…。おかしな子を好きになってくれる人なんていなくて」
耳をふさぐことも出来ず、怒って暴れることも出来ない俺は、心配そうな顔をして俺と母の顔を交互に見るユリに、しずかに首を横に振ることしか出来ないでいた。
「だって実の息子でも気持ち悪いじゃない?女性のパンツを集めるなんていつか犯罪を起こしそうで…だから、貴女みたいな美人の子が出来て、そういう趣味を止められてうれしいのよ?」
「あの!そ、そんなことないです!」
大きな声を出して、ユリが立ち上がった。
さすがの母も話すことをやめて、目を丸くしながら立ち上がったユリを見上げている。
「わ、私なんかが差し出がましいかもしれないんですけど…直久さんは…すごくいい人です」
言葉が出ない。似たことが昔も遭った気がする。
目眩がしてそっとこめかみを抑える。
ユリは、言葉に詰まりながらも懸命に何かを伝えようとしているようだった。
彼女の頬は少し赤らんでいて、胸の前に握られた両手に力が入っているのがわかる。
「確かに少し異常に見えたり、変だと思う人もいるかもしれないですけど…それでも、私は直久さんのお陰で助かったことがあるんです。直久さんの趣味は、私を助けてくれたんです。だから…その…」
視線を泳がせるユリを、母は相変わらず驚いたような顔をして見つめている。
俺がなにか話そうものなら、激昂して時には平手打ちをしてきた母も、他人の声には耳を貸す時もあるんだな…そんなことを考えていると、ユリが再び口を開く。
「あんまり…直久さんを傷つけないであげてください」
目に涙を湛えながら、絞り出すように言ったユリの言葉で母はやっと我に返ったのか、口を数回パクパクさせた。
「あ、あら…わたしは、そんなつもりは…。だって変でしょう?着もしない下着を集めて飾るなんて…おかしいでしょう?」
心が軋むような感覚がした。
そうか。母は…俺を傷つけている自覚もなければ、俺を傷つけても「ごめんなさい」の一言すら言えない人だったんだ。
わかっていたけど、わからないふりをしていた。
でも、勇気を出して、初対面の母に懸命に立ち向かってくれたユリが引き出してくれた事実を、さすがに無視する訳にはいかない。
「もう…もういいから。ユリ、大丈夫。母さんも」
立ち上がって、二人が言い争いにならないように…ユリが母の言葉に傷つかないように仲裁をしようと思った時だった。
強い立ちくらみに襲われた俺は、よろけそうになって咄嗟にコーヒーテーブルの上に手をついた。
「直久さん?」
「直久…」
すぐに駆け寄ってきたユリが、俺の背中に手を当てた。
大丈夫、そう言おうとして顔を上げた時に、座ったまま一歩も動かない母が目に入って急に身体が重くなる。
「―――っ」
急にこみ上げてきた吐き気に耐えられず、液体が食堂を逆流してくる。
口を抑えても間に合わない。母にかけたら怒られる…。咄嗟に顔をそむけようとした時、顔が柔らかい何かに包まれた。
そして、俺の吐瀉物が柔らかいなにかにかかったのか嫌な体液の臭いと熱がじわじわと広がってくる。
「大丈夫ですよ。大丈夫」
頭を撫でられて、やけに優しい声がした。少しして、自分がユリに抱きしめられていることに気がつく。
顔をあげられない。力が入らない。
彼女の柔らかな胸に顔を埋めたままでいると、背後で小さな悲鳴があがった。
俺がこうして吐くと、母は吐瀉物を見て掃除するようによく怒っていたな…と思い出して、頭の先が冷たくなる。
「直久っ…貴方はまた…」
母の声がするのと同時に、身体が強張り、再び吐き気が襲ってきた。俺は、ユリの背中に手を回して服を握りしめる。息が少し荒くなった俺の頭をユリは優しく撫で付けた。
「お母様…そういえば、直久さん、昨日牡蠣を食べたんですよ!」
食べてない。そう口に出して言う気力もなく、胃から逆流してきそうな吐き気を我慢するのでいっぱいいっぱいの俺は、無言でユリに抱かれたままでいる。
「お母さま、大丈夫ですか?今流行ってるってニュースでやってましたし、その…私は予防接種をしたので大丈夫ですし、直久さんの看病は私がします。今日のところは健康のためにも…」
ノロウイルスは予防接種で防げるわけ無いだろ…。言い訳が雑すぎる。さすがの母も怪しむよな…。
折角のユリの気遣いらしいが、声に出せないのをいいことに心の中でついツッコんでしまう。
嘘には厳しい母だ。流石にこんな嘘を信じて帰るはずはない。そう思って少し顔をあげた俺は、ソファーから立ち上がって後ずさりをしている母を横目で見る。
「あ、あら、大変ね。じゃあ、今日は帰ろうかしら」
あっさりと雑な嘘を信じた母に少しだけ絶望して、自分の心の底にあった欲求がわかった気がしてほんの少しだけスッキリした気がする。
いい年をして、母から看病をされたいなんて思っていない。でも、少しだけ心配してくれたり、駆け寄って身体をさすってくれるんじゃないかと思っている自分がいた。
そんなことされた記憶すらないのに…と気がついて、惨めに親にすがっていた自分が馬鹿らしく思えた。
「はい。お気をつけて…」
そそくさと荷物をまとめた母が、玄関へ続く廊下の方へと移動すると、ユリは俺をソファーへ連れて行って横たわらせる。
小さな声で「大丈夫ですから」と言ったユリが、立ち上がって玄関口へ向かった母を追うように部屋を出ていく。
「見送りは大丈夫よ。ユリさん、今日は急にごめんなさいね。でも、貴女みたいな美人な恋人がいて安心したわ。直久をよろしくね」
母の声が聞こえるのと同時に、どっと疲れが襲ってきた俺は、そのまま目を閉じて深呼吸をした。
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