9枚目 「貴方もやっと大人になってくれてお母さんは安心したわ」

 普段から明朗快活な方ではないと自負しているが、本当に今の俺は目が死んでいる。そう自覚できる程度には冷静なつもりだ。


 服の裾を掴んでいるユリの手を一度振り払って、歩き出す。趣味部屋のトルソーをとりあえずパントリーに持っていって…間に合うか?


「ど、どうしたんですか?」


 声をかけてきたユリを無視するわけにはいかないと、うしろをついてくる彼女の顔を見るために立ち止まる。

 肩あたりで切りそろえられた黒い髪、ナチュラルメイク…ではなく化粧をしていなくてもアイラインを引いているような濃いまつげに彩られた目元。

 口紅をしていなくても鮮やかな艶のある薄桃色の唇に、弓なりの形に整っている眉毛。

 清楚といっても差し支えのない女性の形をしたなにかと、俺は一緒に暮らしているという事実に気がつく。

 ユリが人間と違うのは、下半身の構造と排泄をしないという二点だ。

 立ち止まった俺が、自分の頭から足先までを舐めるように見ていることが不安になったのかユリは上目遣いをしたまま小首を傾げた。

 

「今から、俺の恋人のフリをしてくれないか?」


 目の前で手をパチンと合わせて、拝むようにして頼む。

 キョトンとした顔だったユリは、俺の言葉の意味がわかるなり晴れやかな表情に変わっていく。

 薄桃色の厚い唇の両端を持ち上げて微笑んだユリは大きく頷いて、胸元を細くてか弱そうな手で叩いて胸を張ってみせた。


「まかせてください!」


「待て待て。事情も聞け…」


「あ。そうでした」


 事情もよく聞かないまま、俺の手を引きながら玄関に向かおうとするユリを嗜めて止める。

 ユリはハッとしたように手を打つと、ニコニコしたまま顔だけをこちらに向けた。

 一抹どころではない不安が頭をよぎる。


「今から来るのは俺の母親なんだ。とにかく、なんとか話を合わせてくれればそれでいい」


「困ってるところを助けるなんて恩返しみたいですね。しかも恋人のふりですって!」


「恩返しみたいというか、いやいや…君は確か恩返しをしに来たんだよな…?」


 細かい打ち合わせでもできればと思ったけれど、マンションのエントランスから部屋まではそこまで遠くはない。

 スリッパをシューズボックスから出して、玄関口に配置する。

 それからテレビ横からスツールを引っ張り出してリビングのコーヒーテーブルの横に置いた。ホッと一息を着く間もないままチャイムが再び鳴り響く。


「あとは…ブランケット…とりあえず趣味部屋に置いてきてくれ」


 普段はユリが寝起きをしているリビングのソファー。そこに無造作に置かれていたダークブラウンのブランケットを彼女に手渡してから、玄関に向かう。

 心臓がドキドキして、胃の奥からさっき飲んだコーヒーが逆流してきそうな気持ちになる。

 母のことは嫌いではない。でも、得意というわけではない。むしろ苦手だった。

 深呼吸をして、息を整えてドアノブに手をかける。


「久しぶりね」


「あ、ああ。久しぶり」


 無表情な母と目が合って、動機が激しくなる。なるべく平静を装いながら母を迎え入れた。


「あ…、直久さんのお母さん…、ですよね?こんにちは」


 ちょうど奥の部屋からユリが出てきた。脱いだ靴を揃えて、腰を上げた母と目が合う。

 丁寧にゆっくりと頭を下げるユリを見て、少し驚いた顔をした母も頭を下げた。


「あら…。こんにちは」


 これで俺の趣味をよく思っていない母に、趣味部屋はユリが使ってるから見せられないと言い訳ができそうだ。

 …あ。同棲してるって設定でいいのか?どう辻褄を合わせよう。


「来客がいるとは聞いていたけど…あらあら」


 無表情だった母が表情を和らげたのを見て、一先ず胸をなでおろす。

 三人でリビングに向かうと、母とユリが隣り合って座り、俺は先程ひっぱり出してきたスツールに腰を下ろした。


「コーヒー、お出ししますね」


「あ、いいのよ。貴女もお客様なんだし」


「ユリ、頼んでいいか?コップはいつものところにあるのを使っていい」


「はーい」


 ハッと気がついたように席を立つユリを止める母を、笑顔で制してユリにコーヒーを頼む。同棲しているということをそれとなく察してもらう小細工だ。

 コップを取ってくるためにキッチンへ向かったユリの背中を見送った母だったが、彼女の姿が見えなくなると無遠慮に俺の顔を見つめてきた。

 母は、無表情で冷たい人という印象が強いが、今日は何故か少し穏やかな表情のような気がする。


「あの子と…一緒に暮らしているの?佳奈かなさんでも無理だったのに…」


「ええと、その…。黙っていてごめん」


 母が話しているのは、白いエンブレース生地に薄紫のチュールアップリケがついていたパンツの女性のことだと気がついて話を合わせる。

 名前を忘れたと正直に言えば、小言の一言や二言は言われるだろう。それは避けたい。


 それはそうとして、彼女かなが好んでいたレースアージュシリーズの下着は幅広い年齢層からも支持をされている上に、ブランドコンセプトとしても質の良い生地やゴージャスに見える装飾が上品にあしらわれているものだった。

 佳奈の名前は忘れていたけれど、レースアージュシリーズの新作は今でも定期的にチェックしているくらいだ。


「貴方があの子に電話をするように頼んだのだと思っていのだけれど?」


 パンツのことを考えて現実逃避をしている俺を、母の一言が現実に呼び戻す。


「いや…。そのうち連絡しようとは思っていたけど、俺は何も」


 ユリもスマホを持っていないので、連絡をするはずがない。一体何のことか聞こうとしたが、身を乗り出してきた母は口を再び開いた。

 母が、俺の言葉を最後まで聞くことなんて滅多にない。俺は質問を諦めて、口を噤むことにした。


「あら…そうなの?まぁそんなことより…。貴方もやっと大人になってくれてお母さんは安心したわ」


 やっぱりこの話になるのか…とうんざりする。心なしか胃がキリキリと痛みだした気がする。

 俺は、反射的に眉間にシワを寄せた。そんな不快感を露骨に顔に出してしまった俺に対して、穏やかな微笑みを湛えていた母の顔が一瞬で険しくなる。

 もう一つ余計にお説教されるらしい。そう覚悟を決めた。

 しかし、母は不意に俺と目を合わせるのをやめて、再び少し穏やかな顔つきになった。

 何かと思って母の視線の先を追うと、いつのまにかコーヒーを持ってきたユリが戻ってきたところだった。


「ありがとう」


「いえ」


 ニコニコとした二人のやり取りを見ても、俺の気持ちは晴れやかになるわけではない。

 むしろ今からが本番だと腹をくくる。

 付けっぱなしのままにしていたテレビがノロウイルスの流行を告げている。

 テレビから流れる音声が沈黙を際立たせている気がして、俺は緊張のあまり膝に置いた手を握りしめた。

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