8枚目 「次はブラジャーの恩返しとか言わないだろうな」

「なーくん、これが好きなの?使ってないパンツ…ほしい?」


 逆光で顔が見えない。でも、この子が誰なのかはわかる。

 ゆーちゃんだ。


 海沿いの土手の上に立つ彼女は、さっきまで見えていた花柄の綿パンツをスカートで隠して、俺に手を差し出した。

 ゆーちゃんの手を取って、土手の上によじ登ったところで場面が急に切り替わる。

 

「気持ち悪い!お前は将来犯罪者にでもなるつもりか!今すぐ捨てなさい!」


 平手打ちをされて、俺の身体がやけに簡単に吹き飛んだ。叩かれた頬は火が付いたみたいに熱くなる。

 じわじわと目の奥から涙が溢れてくるのを止められないまま、嫌悪の表情で俺を見下ろす母親の顔を見る。

 いつのまにかゆーちゃんはいなくなっていて、俺はなにもない部屋の中心に据えられた椅子に座っていた。

 嫌悪感に満ちた顔で俺を睨みつける母の他に、見覚えのある女が二人立っていて、とても嫌な気持ちになる。

 今すぐに理由をつけて逃げ出したいけれど、まるで金縛りにあったように身体も口も動かない。


「んーとさぁ…ぶっちゃけ顔もいいし、金も持ってるしいいかなーって思ってたんだけど、これはキモいわ。無理。下着ドロにパンツ取られたの思い出したし。別れてもわたしの家に侵入だけはしないでよね」


 金髪のマッシュボブが似合う赤いレザージャケットの女性。

 確かこの女性ひとは、濃いピンクの蝶をあしらったレースの下着がとても似合っていて、なんとなく押しに負けて付き合った相手だ。

 名前も覚えていないのに、好きだった下着と別れ際に言われた言葉だけはやけに鮮明だ。

 赤いレザージャケットの女性は、軽蔑的な視線で俺を見て、真っ赤な口紅を塗って毒々しく見える唇を歪めた。


「えーっとね…貴方を否定するつもりはないの。理解したいと思ってるわ。でも…やっぱりニュースとかになるわけですし…コレクションを処分してくれないのなら…その」


 手触りの良さそうなキャメルブラウンのシャギーニットを着た黒髪の女性も、苦笑いをしながら座ってる俺を気持ち悪い虫でも見るかのような目で見つめてくる。

 白いエンブレース生地に薄紫のチュールアップリケがアシンメトリーにあしらわれている、脇上辺にストレッチレースを組み合わせた下着がとても似合っていた。

 母親の勧めで結婚を前提に…と半年ほど付き合った。しかし彼女も、趣味を知って俺の元から離れていった一人だ。


「犯罪者予備軍の異常者なんて誰にも愛されないわよ。いい加減、意地を張るのはやめなさい」


 女性を左右に侍らせた母親が、腕組みをして俺を見下ろす。

 身動きが出来ず、椅子にしばりつけられたように動けない俺は、かろうじて頭を動かした。

 俺に出来るのは、彼女たちと目が遭わないように顔をうつむかせることだけだった。


※※※


「おきてください!直久さん」


 ユリの声で目を開く。

 こんな季節にもかかわらず、スウェットの下に着てる下着は上も下も汗でぐっしょりと濡れている。

 カーテンから薄っすらと差し込んでる光と、俺の顔を覗き込むユリの心配そうな顔をぼうっと見つめて、今まで見ていたものが夢だったとやっと気がついた。


「水…」


「持ってきますね」


 パタパタとスリッパの音を立てて部屋を出ていくユリの背中を見送った。

 彼女の足音が聞こえなくなったのを確認して大きくため息を漏らす。

 名前も思い出せない女から言われたことをまだ気にしているのか俺は。

 大きくかぶりを振って、嫌な夢の残滓を少しでも振り払おうとした。そんなことは気休めでしかないとわかっているのだが…。


 ユリが持ってきた水を飲んでやっと起き上がって脱衣所へと向かった。

 彼女が来て一週間、なんとなく他人がいる生活にも慣れてきた気がする。ユリも洗濯と掃除、そしてパンツの手入れくらいはこなせるようになった。

 シャワーを浴びて、彼女が用意した朝食を口にする。


「やっと焦がさないトーストを食べられたな。あと、潰れてない目玉焼きも」


「私だってやれば出来るんですよ」


「…そっちの目玉焼きは個性的な出来だけど?」


 得意げな顔がみるみるうちに赤くなるのにも慣れた。調理台の上に乗ったままの潰れて黄身がはみ出している目玉焼きを、ユリは背中で隠すようにした。

 もう手遅れすぎるその行動に思わず吹き出してしまう。


「ああ…そうだ。最近、ポストの物が盗まれる嫌がらせが増えてるらしいが…家にいる時なにかあったか?」


 昨日の夜、ポストの中に入っていた管理会社からの手紙を思い出して、ユリに話を振る。

 平日、俺がいない間は訪者にも一切応答しないように言っているが…。

 ユリは、腕組みをして考える素振りを見せるが、すぐにいつもの脳天気な顔に戻って首を傾げてみせた。


 オートロックの物件でこんな悪戯があるのは困る。

 しかし、そもそもオートロックなのに恩返しに来たパンツとやらが、俺の家に訪ねてきたのだからセキュリティを信用しすぎないほうがいいだろう…と考え直した。

 ポストと宅配ボックスの番号くらいは変えておくか…。

 バターのたっぷり塗られたトーストを齧りながらそんなことを考えていると、ユリに後ろから羽交い締めにされて少し驚く。

 肩にやわらかい感触が当たって煩わしい。彼女を振りほどいて顔をしかめてみせた。


「めんどくさい。なんのつもりだ?どこで覚えた」


「テレビで、男の人を慰める時はこうするのがいいって言ってました。ごめんなさい…」


「生身の女性の胸部に俺は一切興味がない。それならパンツを見せられたほうが5億倍マシだな」


 肩をすくめて頭を下げたユリは、今にも泣きそうな顔をしている。

 言い過ぎた…と思ったので慌てて取り繕いながら軽口を叩くと、ユリはパアッと表情を明るくした。


「そうなんですね!」


「見せようとするな!」


「はぁい…」


 初めて出会った日のように、勢いよくスカートをめくりあげようとしたユリの手を俺は慌てて掴んで止める。

 なにやら不満げなユリは、唇を尖らせながらそういうと空になった皿をシンクへと運んで、俺の向かいの席に腰を下ろした。


「…まぁ、気持ちだけは受け取っておく」


「えへへ…」


 マグカップからコーヒーを啜りながらそういうと、ユリは両手で頬杖をついて笑う。

 平和な休日のブランチを終えて、洗濯機を回すために席を立った時だった。

 チャイムが鳴り響く。


「次はブラジャーの恩返しとか言わないだろうな」


「直久さん…ブラも助けたことがあるんですか?」


「…冗談だ」


 インターホンに向かう俺の後を、ユリは生まれたてのひよこみたいについてくる。

 冗談を本気にしているユリの額を軽く手の甲でコツンと叩いて笑いながら、俺は受話器をとった。

 ユリが来た日に限って完全に油断をして扉を空けてしまった反省が活きている。


「どちらさまですか」


「直久、いるのね」


 なるべく不機嫌そうな声で応対する。セールスの類なら即刻追い返そう。

 そんなことを考えていたが、受話器から返ってきた声は予想もしていない相手で思わず動きが止まる。

 喉が張り付いて閉じてしまったみたいに次の言葉が出てこない。

 

 おそらく、顔色も表情も良くないのだろう。ユリが心配そうな顔をして俺の服の袖を掴んでいる。


「直久、なにをしているの?」


 頭の中を色々なことが駆け巡る。

 ユリのことをなんて説明しよう。というか、なんで急に来た?パンツたちを隠すか?いや、無駄だ。


「母さん…ちょっと待って。今人が来てる」


「かまわないわ。早くあげてちょうだい」


「はい…」


 どうしようもない。とりあえず、母がエントランスからここに来るまでの間になんとかしよう。

 受話器を置いて、エントランスの解錠ボタンを押した俺は、心配そうな顔で俺を見上げているユリと目を合わせた。

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