6枚目 「早く恩返しをしてパンツに戻ってくれ」

「信じるしか…ないだろ」


 まだ動揺している俺は、軽く身体を拭いて服を着替えたユリとリビングのコーヒーテーブルを囲む。

 滅多に人が来ない我が家には、二人がけのソファーが一つあるだけだ。不本意ながらユリと隣り合わせになって、俺は冷めたコーヒーを啜った。


「尻の割れ目がほぼない上に…穴もないなんて…アレは、手触りは違うもののトルソーと同じだった」


「多分なんですが、前も…同じだと思います。ツルッとしてると思います。マネキンみたいな…」


「そんなこといちいちいうんじゃない…」


 ユリがマグカップから立ち上る湯気をふーふーと冷ましている横で、俺は力なく項垂れる。

 っていうか、コーヒーを飲んでるけど、その胃の中に入ったものはどうなるんだ…中で腐ったりしないか?でも、呼吸とかしてるし、なんらかの消化する機関はある…のか…?

 そもそも目の前にいるこいつはパンツから人間の見た目のなにかになった摩訶不思議な存在だ。そういう現実的な合理的ななにかがあるということを考えるだけ無駄なのかもしれない。


「っあつ…口の中…やけどしちゃいました…」


「痛覚というものはあるのか…」


「心配してくれてもいいのにぃ」


「…すまん。つい」


 涙目になったユリに反射的に謝って頭を掻く。

 どうもペースが乱されて困る。

 こうして二人で並んで座っていても意味のわからないことだらけで頭がパンクしそうだ。

 気持ちを切り替えるために立ち上がって、思い切り伸びをしてからキッチンへ歩きだす。すると、ユリが慌てて俺の後を追ってきた。

 

「え?ど、どうしたんですか?」


「腹が減った。飯、作らないと」


 ぶっきらぼうに答える。普段は出前や外食ですませてしまいがちだが、先程買った食材を無駄にするのは気が引ける。


「あ…ごめんなさい」


「気にしないでいい。自炊するなら一人分も二人分も変わらない。座って待っててくれ」


 キッチンで材料を見る。ひき肉に玉ねぎ…パン粉とパックの卵が乱雑に調理台やダイニングテーブルの上に置かれている。

 腕まくりをして、先程シンクに放り込んだ布巾を濯いで絞っていると、ユリが俺の服の裾をそっと引っ張った。


「その…料理…できるんですか?」


「多少は」


「あのですね、私、恩返しを成功させるためにも…料理を覚えたいと思うんですよ」


 布巾を干すついでに振り向くと、彼女のそんな言葉が耳に入った。

 恩と、それを返すメカニズムはよくわからない。恩返しをするために更に恩を与えられるハメになるという本末転倒な頼み事をしていることに、ユリは気が付いていないようだ。

 冷静に考えればおかしなことを、あまりにも真剣な顔をして頼んでくるのを見て思わず口元が緩む。


「別にいいんだけどさ、それ俺が教えたら恩が加算されない?」


「は!って…わ、笑わないでくださいよ」


 慌てふためいて、両手を前に出して小さく左右に振るユリを見て笑いを堪えながら俺は調理台へ寄りかかって彼女と向かい合わせになる。


「まぁ、恩返ししないと元の姿パンツに戻れないし、行く宛もないんだろ?それなら料理くらい出来てくれたほうが俺も助かる」


「え?この家にいてもいいってことですか?やったー」


 くるくる表情が変わるやつだな。

 両手を高く掲げてピョンと飛び跳ねながら喜ぶユリを横目に、俺は手にしていたマグカップに残ったコーヒーを飲み干してシンクへと浸けるために彼女に背を向ける。

 笑いを堪えて、なるべく落ち着いた声を出せるように努力しながら俺は話を続ける。


「妹と説明した相手が近所を徘徊して騒ぎを起こすよりはマシだからな。早く恩返しをして元の姿パンツに戻ってくれ」


「なるべくがんばりますぅ…」


 背中を向けて、マグカップをゆすぎながらそう告げると、背後からはトーンが幾分か落ちたユリの声が聞こえてきた。

 笑わないように下唇を噛み締める。笑いの波をなんとかやりすごして、落ち着くために深呼吸をする。


「まずは…そうだな」


 なるべくユリを見ないように振り向いた。冷蔵庫の横にあるキャビネットの、さらにその上に置かれている黒いバスケットの中身を確認するためだ。


 やっぱりあった。

 俺は、バスケットの中に転がっていたじゃがいも2つを取り出してユリに手渡した。

 きょとんとしているユリをそのままにして、調理台の引き出しから取り出したステンレスのピーラーをまな板の上に置いた。


「そのじゃがいもを水で洗って、皮を剥く所からはじめよう」


「はい!」


 ユリは敬礼をして足を揃えて勢いよく返事をした。その勢いでじゃがいもが落ちる。


「恩返しとは…」


「ごめんなさいぃ…」


 遠い目をしながら呟いた言葉に、ユリはじゃがいもを拾いながら謝るとシンクの前に立った。

 シンク上のウォールキャビネットから白いプラスチック製のボウルを2つ出して水を注ぐ。


「こっちでじゃがいもの泥を落として、皮を剥いたら綺麗な方のボウルに入れておいてくれ」


「わかりました」


「手が滑りやすいから、ゆっくり気をつけて…ピーラーじゃなくてじゃがいもの方を動かす」


「はい!」


 まるで子供の面倒を見てるみたいだな。子供と関わる機会など滅多にないが、実際の子供より聞き分けも良いユリ相手なら悪くないなと思える。なにより俺があの日拾ったパンツだと思うと多少のことは許せる。

 ユリが恩返しをしたらあのパンツが俺のコレクションに加わる…それを思うと多少彼女を養っても損はないと思ったのは本当だ。


 ゆっくりとじゃがいもを傾け、ピーラーの刃を滑らせているユリの真剣な顔を見ながら、そんなことを思った。

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