4枚目 「…もしかして彼女さんですか?」

「あれあれー?佐久間さん珍しいですね」


 聞き慣れた声が耳に入って身体が強張る。

 スーパーの中で俺に声をかけてきたのは…確か同じ部署に派遣されている永本ながもと あかねだ。

 なるべく不自然にならないように、表情を笑顔に切り替えて、目の前まで歩いてきた永本の顔を見る。

 分厚いレンズの黒縁メガネの奥に光る腫れぼったい一重。わずかに見える白目部分で左右に忙しなく動く瞳は好奇心で光っているように見える。


「永本さんこそ。確か金座線の沿線にお住まいでしたよね?会社からも遠いですし…」


「会社からは確かに遠いんですけど…こっちのほうが実家が近くて先月引っ越してきたんですよー。言ってませんでしたっけ?」


 聞いていない。いや、興味がなかったので覚えていなかっただけかもしれないが。

 永本は厚手のピンクのブルゾンにチノパンにスニーカーというラフな服装だった。カゴの中にはどう見ても1日分ではない量の食料品が積み上げられている。これだけの量を持ち帰ると言うことは…どうやら近くに住んでいるというのも嘘ではなさそうだ。

 適当に相槌を打ってその場から立ち去りたい俺の気持ちを見透かした上で、それを妨害したいかのように、こちらが返答をする前に永本が再び口を開く。


「ところで、そちらのやけに綺麗な方は…もしかして彼女さんですか?」


「え…あの…私は…」


「妹なんですよ」


 永本は俺の背中に隠れるようにして立っていたユリを覗き込むように見る。

 慌てて胸元を両手で押さえたユリの肩を抱き寄せて、俺は少し大きめの声でそう答えた。


「引っ越しをするらしくて、物件の内見をするのにいちいちホテルを取らせるのも可哀想で家に泊まらせるようにと母に言いつけられまして…」


「佐久間さん、オフの日だからかよくしゃべりますね。会社だとプライベートなことなんて全然話さないのに」


 メガネの中央を人差し指で押し上げて、唇の端を持ち上げた永本に内心ギクッとする。

 さすがにわざとらしかったか…と後悔するけれど、恩返しに来たパンツを名乗る異常者と買い物に来ているなんてこと言えるはずもない。


「はは、気のせいですよ」


「でもでも、佐久間さんが近所に住んでることがわかってなんだかうれしいですー。兄妹水入らずの時間をお邪魔しちゃってすみません。ではでは」


 とぼけていることに気付いたのか気付かなかったのか、永本はユリと俺を交互に見た後に頭をペコリと下げて背中を向けた。

 少し猫背気味の永本の背中が会計を済ませ、店から出ていくのを確認した俺は、ユリの身体から手を離して、歩き出す。仕方なかったとはいえ、やはり他人の体温は心地の良いものではない。

 なにか勘違いをされてまた体に触れられないようにと、両手をポケットに入れて店内を歩いていると、服を引っ張られている事に気づいて立ち止まった。

 どうやらユリが俺のコートの裾を引っ張っていたらしい。なにかと思って振り向くと、彼女はピョコンという効果音が似合うくらい小さく頭を下げた。


「あ、ありがとうございます」


「なにがだ?」


「その…庇っていただいて…」


「ああ…。さすがに本当のことを話す訳にはいかないだろ。さ、早く買い物を済ませてパ…いや、恩返しをしてくれ」


 家の外で「早くパンツに戻ってくれ」というのは流石に止めるだけの理性はある。

 恩返しをしてくれたという言葉を聞いたからか、ユリは唇の両端を持ち上げて嬉しそうに微笑む。そんな彼女から目をそらして俺は早足で食料品売場へと足を運んだ。


 何を買うのかは口出しをしないで少し離れた位置からユリのことを眺めてみる。

 もう後二年で三十路になるいい大人が、恩返しに来たパンツが美女に変身して現れたなんて荒唐無稽な現象をすんなりと信じるわけにもいかない。


 ある程度会話をしたり、買い物に金銭が必要だという知能や知識はあるようだ。やはり少しどこかおかしな異常者なのだろうか。

 ユリの履いていたパンツは、紛れもなくあの日俺が拾ったものに間違いはない。

 それに、デスクの中にある袋や付箋に何を書いたのかまで言い当てたことを考えると、本当に彼女は恩返しに来たパンツなのかもしれないと信じそうになる。

 これでユリの見た目が化物…とまではいかなくとも、顔の造形やパーツの位置がかなり個性的だったのならまだ、こういう演技でもしないと人と関われない特殊なコミニュケーションを取る生物なのかもしれないと遠慮なく警察に連絡を出来る。

 しかし、ユリはその逆だった。

 スッと通った小さめの鼻、大きく潤みがちな垂れ目、睫毛は伏し目になれば頬に影が落ちそうなほど長く、薄桜色の厚めの唇はひび割れの一つもない。

 歩く度に仄かに揺れてその存在を強調する豊満な胸元と、だらしないと感じない程度に肉感のある下半身は週刊誌の表紙を飾っていてもおかしくないと思える程度には美しいものだった。


「直久さん…どうかしました?」


  ジロジロ見すぎていたのか、俺の視線に気がついたユリは首を傾げながら微笑む。

 俺が無言のまま首を横に振ると、彼女は再び目の前にある野菜を手にとってまじまじと眺め始める。最初こそ頭のおかしい異常者だと思ったが、真面目で素直な性格のようにしか思えない。

 とりあえず、話半分に言い分をきいて、食事が終わったら改めて問いただそう。料理をすれば気が済んでどこかへ行くのかもしれない。


 考えることに疲れた俺は、半ば思考停止になりながらぼんやりと買い物に勤しむユリの姿を見つめた。

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