3枚目 「警察に電話をされるか、このまま俺の家を出ていくか今すぐ決めるんだ」

「今すぐ元の姿に戻ってくれと言ったんだ。頼む」


「え…あの…」


 一歩後ろに下がった彼女の瞳を見つめる。

 恩返しと言われて正直、それしか思い浮かばない。可能なら、もう一度あのパンツを手にして綺麗に洗ってこの部屋に飾りたい。そう思った。


「丈の長さを維持しながらも野暮ったくならずに、それでいてセクシーさと上品さの黄金比を確立したあのデザイン…製品版は深い海の底のような青と、純白しかなかったのは確かに正直不満ではあったんだ。あのときに見た…そう、君のような薄い爽やかな空の色…そして空にかかる雲のように僅かながら灰色味がかった白で刺繍された百合の花…完璧なデザインなんだ。運命を感じた。君と同デザインのパンツがこの世に一つしかないのなら、是非俺の手元に残って欲しい。あの時は落とし物を拝借するような真似をしたくなかったから手放しただけで、本当に運命のパンツを手放すなんて断腸の思いだったんだ。運命の出会いをやり直せた…こんなチャンスは逃したくない。早く元の姿…あの完全なパンツに戻ってくれ頼む」


「あ…あの、ごめんなさい…それは無理なんです。恩返しをするまで元の姿に戻れないというか…パンツの神様が命の恩人に恩返しをしなさいとこの姿を与えてくれたので…」


 彼女は、勢いよく頭を下げてから顔をあげた。

 それから、八の字になるくらい眉尻を下げながら上目遣いで俺の顔を見つめてくる。


「よし、わかった。警察に電話をされるか、このまま俺の家を出ていくか今すぐ決めるんだ」


 スマートフォンを取り出しながら彼女に最終勧告をする。本当に恩返しに来たパンツだとしても、生身の女性が家にいるなんてお断りだ。パンツだけ今すぐ脱いでくれというのも憚られた俺は、目の前で悲しそうな顔をしている女性を見下ろした。


「そんな…私、どうすれば…。恩返しをしたらすぐに消えますから…恩返しをさせてください」


「…恩返しも何も。俺は何も困ってなんていない」


 懇願を無視して冷たく言い放つと、彼女はうつむく。

 泣き落としでもするつもりか?

 訝しんで顔を覗き込もうとすると、彼女がパッと顔をあげた。予想していた表情と違って、彼女は明るい笑顔を浮かべている。


「そうだ!お料理!お料理を作るのは恩返しになるかもしれないです」


「あ、ああ」


 拍子抜けをしたのと、その笑顔のあまりの無邪気さに毒気を抜かれた俺は思わず頷いてしまう。


「それじゃあ私、買い物に行ってきます!嫌いなものとかありませんか?」


「好き嫌いは特にないが…」


 勢いに押し切られて知らない女に家で料理をさせることになってしまった。少し後悔しながらも止める間もなく女性は勢いよく玄関の方へ向かっていく。

 呆然としている間に玄関の扉が閉まる音がした。


 名前…そういえば聞きそびれたな。恩返しに来たパンツなら名前なんてないかもしれないけど。

 いや、そんなことあるはずないだろ…。

 とりあえずコーヒーでも飲んで落ち着こうと、カプセル式のコーヒーマシンにポーションをセットする。

 その時、再び玄関の扉が開く音がした。


「ごめんなさい…私、何も持ってなくて…スーパーとかもどこにあるのか…」


「恩返しには程遠いな」


 全力で走ってきたのだろうか?彼女の額にはうっすら汗が浮かんでいる。額に張り付いた前髪を整えながらこちらを見る彼女は、まるで小さな子供みたいだった。


「ご…ごめんなさい」


「準備をするからそこで待っていなさい。俺も一緒に行く」


 悪い子ではないのだろうということはなんとなくわかる。だが、初対面のよくわからない女性に財布を渡すのもな…。地図を書いて渡すのも面倒だ。

 そう思っての一言だった。


「あ、ありがとうございます!やっぱり直久さんは優しいですね」


 それなのに、そんなに嬉しそうな顔をされたら困るだろ。

 少し厚みのある唇の両端を持ち上げて、小さな歯をのぞかせて笑う彼女の天真爛漫な笑顔から逃げるように顔を背けた。

 リビングに置いてあるコート掛けから、通勤に使っているグレーのチェスターコートを羽織って玄関へと向かう。


「そうだ。君の名前は?外で何かあったときになんて呼べばいいかわからないのは不便だ」


「な…名前…」


 彼女は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして止まると、玄関の前で腕組みをして考えるような素振りを見せた。

 本当に名前がなくても、名前を言いたくなくて演技をしているのでもどちらでもいい。とにかく不便なので呼び名が欲しいというだけだ。


「ユリでいいか?」


 空色のパンツに刺繍のしてあった灰色がかった白い百合の花が思い浮かんだ。


「え?はい!素敵な名前がいただけてうれしいです!御恩がまた増えちゃいましたね」


「呼ぶのに不便だから適当に付けただけだ。気にしないでいい。早く行くぞ」


 鍵を締めて歩き出した俺の後ろを、ユリは子犬のようにウキウキとしながらついてくる。

 間違っても手なんて握られないようにと、コートのポケットに両手を突っ込みながら俺はエレベーターへ向かった。

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