2枚目 「今すぐ元の姿に戻ってくれ」
「勝手にあちこち入るな」
助けられたパンツだと言い張る異常者は、最奥にある俺の趣味部屋の中にいるようだった。
開きっぱなしの扉から、女性の下半身を模したトルソーで囲われている見慣れた室内が見える。トルソーはそれぞれ俺のお気に入りのパンツを履かせるために買ったものだ。
その趣味部屋の中央に、黒いブルゾンダウンを纏ったままのワンピースを着た女性が突っ立っているのは俺にすら異様な光景に感じられた。
肩上に切りそろえられた亜麻色の髪が揺れて、彼女がゆっくりとこちらに振り向くのがわかる。
先程、彼女がたくし上げようとしていた深緑のニットワンピースの裾が揺れた。
きっと、かつてこの部屋を覗いた
大きくつぶらな瞳を細め、薄桃色の厚い唇を歪めて突軽蔑や嫌悪を浮かべているであろう彼女を説得して、早々に帰ってもらおう。
「あのときはパンツのままでしたけど、やっぱりすごいですよこの部屋」
「はぁ?」
予想外の言葉に驚いた俺は、改めて彼女の顔を見つめる。
目を輝かせて笑う目の前の女性を見て、彼女の中に嫌悪の感情だけはないということだけはわかる。
しかし、言っていることは微塵もわからない。あの時はパンツのままという概念がまず意味がわからない。
「そうですよね。わからないですよね」
目の前の助けられたパンツを名乗る女性は、伏し目がちになると、眉尻を下げて困ったような顔をして笑った。
「あの…
名乗っていない俺の名前を唐突に呼んだ女性は、やはり新手のストーカーか詐欺師か?と、やや警戒しながら彼女をじっと見つめる。
大真面目な顔をしてパンツパンツと言っている彼女を詐欺師だと決め付けられない理由はもちろん、俺には数ヶ月前に拾った水色のパンツには心当たりがあるからだ。
しかも、よりにもよって運命を感じたあの素晴らしい落とし物…至高のパンツと出会えた思い出だ。
少々ひっかかりを覚えた俺は、とりあえず目の前にいる謎の女の話を聞くことにした。
「貴方は、そのパンツを持ち帰って…この部屋の…窓際にあるデスクから取り出した可愛らしいピンクと白の不透明なビニール袋に私を入れてくれましたよね」
部屋の片隅にあるデスクへと女性は視線を向ける。
窓際にあるとはいえ、部屋は外から見えないようにカーテンを締め切っている。そのため、室内の様子は俺以外知っているものはいないはずだった。
「その袋に、詳細な私の特徴を書いた付箋を貼ってくれたお蔭で、私は生みの親の元に帰れたんです」
垂れ目がちな大きい目いっぱいに涙を湛えながら、捨てられた子犬のような表情で俺の手を両手で包み込む彼女の手を振り払った。
コンセントのタップや、扉の上、部屋の隅、観葉植物の影を確認し、ついでに自分の仕事鞄の中も
「な…なにしてるんですかぁ…?」
一瞬呆然としていた女性が、おそるおそる俺の背中に声をかけてくる。
とぼけてでもいるのだろうか?騙されないぞという思いを込めて俺はなるべく彼女の顔を見ないようにしながら返事をする。
「カメラや盗聴器を探している。君も、せっかく綺麗な顔をしているのだからこういう犯罪まがいのことをして他人のプライバシーを探るような真似はやめた方が」
「ううう…あの時助けてもらったパンツなんですってばぁ」
俺の言葉を遮った女性は、顔を真っ赤にして眉を吊り上げると大きな声を出す。
「そんなこと信じられるか!」
「もう!これを見てもですか」
止める間もなく、目の前で勢いよく捲りあげられた深緑色のニットワンピース。
そこから現れたのは、あの日に道端で拾った水色のパンツを身につけた下半身だった。
「これは…確かにあのときの…いや…それは先週発売された桃鳩の新商品
若い女性が、俺のようなアラサー会社員の目の前で下半身を丸出しにするという狂った状況を嗜めるのも忘れて、俺は彼女の身につけているパンツの前に跪く。
「よく見てください!私はそのプロトタイプなんです!」
ワンピースをたくし上げたまま、仁王立ちで見せつけてくるパンツを凝視する。
部屋には恐らく二人きりだ。カメラの類もとりあえず見つからなかった。ここはお言葉に甘えてよく見るしかないだろう。
俺は彼女の少し肉感のある腰に左手を添えて、右手の人差し指で露わになったパンツのレース部分を撫でるようにそっと触れる。
「ふむ…全体的に透け感のあるシースルー仕様だが、サイドに透ける素材を持ってきて、丈を長くすることで上品さを醸し出す美しい基礎のデザインは確かに同じ…だがラメが製品版よりも2割程度に押さえられているのか?好みの問題だが華やかさよりも上品さを際立たせるこの光沢…それに…色味もこうしてみると違うな。君が身につけているものは製品版にはないカラー…冬の空のような爽やかなだがどことなく寂しさを感じさせるような水色だ。確かにあの日運命を感じて思わず拾ったパンツと特徴は一致している…それにタグがない…な。確かにこれは市販のものではない」
「信じてくれました?恩返しさせてください!」
俺が立ち上がると、ぱぁっと顔を明るくした助けられたパンツを名乗る女性は、たくし上げていたスカートを元に戻した。
本当に恩返しをしにきたパンツだと心の底から信じたわけではないが、何か言わないことには話が進まなそうだ。
俺は半ば諦めつつ、ヤケになりながら願いを言うことに決めた。
「わかった。俺の希望を言おう」
目の前の女性の細い喉元が目に見えるほど上下する。緊張の余り生唾でも飲んだろうか。
彼女の肩に手を置いた俺は、恩返しをすると言う彼女への願い事を告げるために、深呼吸をした。
「今すぐ元の姿に戻ってくれ」
「は?」
大きく開いた薄桃色の唇から発された鈴を転がすような声が、女性の下半身を模したトルソーで囲われている室内に響いた。
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