エピローグ・砂漠の少女たち

 犬をつれて、海辺へ向かう道を行くと、いちだんと冷えた風が顔に吹き付け、理楽は目を細めた。潮の混じった風は、心なしか肌をぴりりと焼くように感じられる。海嘯の向こうに広がる空は、薄い包み紙を貼ったように雲に覆われて、水平線との境界もあいまいに見えた。また、冬が近づいている。

 東西に延々と広がる堤防が、旧道の切れ目だ。舗装と土とが入り交じる先には、なだらかな石段が続いている。リードを引きちぎらんばかりに、白い犬は慣れた足取りで石段を駆け下りようとする。理楽は苦笑しながら、「はいはい、あわてないの」と手綱を引く。


 散歩コースを海まで延ばしたのは、最近のことだ。


 石段の途中で左右を見渡しても、目に付く人工物はせいぜい消波ブロックぐらいだ。漂着物さえないのは、まるで浜辺そのものがそれを拒んでいるかのようでもある。人影もない砂浜には波音だけが永遠に響き続けて、それがいっそう沈黙を引き立てている。


 退屈な場所だ。その上理楽にしてみれば、死にかけた記憶しかない。

 それなのに、毎日ここに来ている。


 犬は細い足で浜辺の砂を踏むと、とたんにおとなしくなる。人よりずっと敏感な嗅覚が、潮の香りに何かを探り当てているのかもしれない、と、理楽は思う。理楽には感じ取れなくなった何かを。

 背中ほどまで伸びてきた髪を、潮風が乱暴に持ち上げる。左手でかるく頭を押さえながら、理楽は白い波が平行にうち続く海面をずっと遠くまで眺めやった。


 果てしない。



 あの夜、疲れ果てた体を引きずって、理楽は”楽苑”まで歩いた。ひどく時間がかかったのは、疲れていたせいもあるだろうし、”花”が肩代わりしてくれていた体力が失われたせいかもしれないし、それから確実なのは、何度もしゃがみ込んで泣きじゃくったせいだ。


 そうまでして。たどり着いた”楽苑”は、文字通り瓦礫の山と化していた。


 もともと、老朽化して使う当てもない廃ビルだったのだ。ソフィアの”花”によって構造をかろうじて維持していたのが、その助けを失ったことで力つきたのだろう。彼女ひとりに頼ってろくな整備もせず、あんな無茶苦茶な興行を夜毎続けたのだから、早晩だめになるのは必然だった。

 地下の構造そのものが崩壊し、地上部分がそのまま巨大な穴ぼこの中に落ち込んだような有様だった。衝撃で崩壊した建材がばらばらに散らばり、ボルトが何本もむき出しになって、月明かりの空にむなしく突出していた。ソフィアがいつも観ていたディスプレイも、跡形もなく潰されてしまっただろう。彼女のティーセットといっしょに。


 理楽は、しばらく歩き回って、種を植えるのに適切な場所を探した。日当たりが良好そうで、水はけのよく、鳥や何かについばまれることのない、安全な土。都市のどこでも同じだけれど、そんな都合のいい場所を探すのは、とても苦労した。


 結局、彼女の見つけたのは、落下の衝撃でひびの入った地盤の隙間だった。重い建材がすり鉢状に積み重なった、そのいちばん底の部分に、ちょっとだけ土が見える場所があった。陽射しが届くはずもなく、水もたまるに違いない。たぶん動物は近寄れないだろうが、メリットはそれだけ。

 安全でも適切でもないが、そこしかない。たいていの物事はそういうものかもしれなかった。


 懐から、種を取り出す。いつかの柚子の実のように、いつのまにかなくしていた、なんてことがなくて、彼女はすこしほっとした。ちいさな種は固く、黒く、それがいつの日にか立派な花を咲かせるなんてにわかには信じがたい。けれど、この世にはどうやら、理楽なんかの思いも及ばない物事があるらしい。

 瓦礫に上り、すり鉢の底、真っ黒な地面を見据える。

 一度目は偶然でも、二度目は必然にできるように。


 理楽は、両手からしぼりだすように、種を落とした。音もなく、種は、わだかまる夜の闇へと転げて、あっという間に見えなくなった。



 あの夜が明けてから、街は変わらざるを得なかった。

 頻発した銃撃事件はいよいよ県警の本格的な介入を呼んだらしく、小釘の街はいつでもどこでも警察官の歩き回っているような状態で、数ヶ月の間は騒然とし続けた。

 行方不明になった多くの少女たちは、いずれかの事件に巻き込まれたものとされたらしい。”花宿り”のことを供述する人がいたとしても、取り合ってはもらえなかったろう。彼女たちの命の痕跡であった”花”も消え果てた後では、少女たちはただ、消え失せたというしかなかった。


 手嶋や佐風会がどうなったのか、理楽は知らない。ああも捜査の手が及んだということは、おそらく警察に対する両者の抑えは失われていたのだろう。いくつかの噂は後々漏れ聞こえてきたが、確かめる余裕はなかった。

 理楽は理楽で、生活なるものを始めることで手一杯だったからだ。


 事件の後、もちろん彼女に都合よく寝泊まりできる場所が生まれるはずもなく、しばらくは相変わらず街中を転々としていたのだが、ある日警官に捕まって補導された。気づかぬうちに油断していたのだろう。事情をいろいろ訊かれて、そのまま答えたらやけに同情されて、ひとまず施設に預けられることになった。

 同じように放り込まれた顔見知りも何人かいて、さほど居心地は悪くなかったが、何しろひとつ所で暮らすのが久しぶりでどうにも違和感が拭えなかった。高校に通えるよう手配してくれるという話もあったが、自習することを選んだ。これ以上新たな生活場所を得たら、よけいに混乱しそうだった。

 それに、雪衣は、学校が好きじゃなさそうだったから。


 施設の職員は、犬の散歩の担当を理楽に勧めた。そうすることで、前の暮らしと今の暮らしの距離感が、すこしは縮まるかもしれない、と、その若い女性は言った。その意図は信じにくかったが、理楽には拒否する理由もなかった。

 最初は施設の周辺を歩き回るだけだったのが、次第に旧道のあたりまで出るようになり、しばらくすると”楽苑”のそばまで向かうようになった。敷地にこそ入らなかったものの、崩れた瓦礫がそのままに放置されているのを、毎日確かめた。

 そうして、ついには、海までやってきた。


 犬はひざをついて、何がおもしろいのか砂の中に鼻をうずめている。その下に財宝でも眠っている、とでもいうのだろうか。


「砂なんておいしくないよ……」


 苦笑気味につぶやきつつ、理楽は犬をさせるがままにしておいて、つかのま目を閉じる。広がる波の音をより鮮やかに聞き分けて、彼女は、海のまんなかをただよう宝物を探し出せそうな気がした。その瞬間だけ、彼女は、大海原を泳ぐ魚のような心地だった。


 街から響く重機の音が、繊細な波とぶつかり合う。

 目を閉じたまま、曇り空の海とよく似た灰色の街を思い浮かべる。その底を回遊していたあのころの理楽は、もういない。みんなを連れて行ってしまったあの波は、彼女を置き去りにした。

 足の下の砂は、ふとした瞬間に実在感を失って、理楽は一瞬、自分が宙づりになったように錯覚する。


 目を開けた。砂浜はそこにあるまま、理楽は何もなくしてはいない。

 そろそろ砂遊びに飽いた犬が、ふたたびリードを引っ張って理楽を連れて行こうとする。以前は苦手だった、そういう、誰かに連れられていく感覚も、最近ではだいぶ馴染んできた。


「わかったわかった」


 けれど、もうすこしだけ、理楽は海辺に立っていたかった。

 見渡す限りの灰色の世界は、冬の砂漠を思わせた。たぶん砂漠には冬はないのだけれど、そう思うと、よけいにそれはむなしくて、理楽は息が詰まりそうになる。

 すくみそうになる足も、しかし、そのままではない。

 道筋をつけて生きる方法を、教えてくれた人がいる。

 たとえ目の前が空虚でも、その中に、すこしでも正しそうな道を引いて、歩いていく。

 雪衣のそんな姿が、たとえこわれものでも、理楽はずっと好きだった。

 右手を引っ張る犬に、理楽は微笑みかけた。


「うん、わかってる」


 生活習慣を、彼女は事細かに決めている。これから歩いて帰って、だいたい五時。そうしたら、同じ施設の子どもたちも帰ってくる。彼らと遊びながら、夕飯の支度を手伝って、それからテキストを読んで問題集を進める。毎日のページ数を、理楽はこの半年、きっちりと守ってきた。

 そういう、ひとつひとつが、理楽を思い出につないでくれている。

 だから、


「帰ろうか」


 理楽は石段を上って、古くて黒い道を、今日も歩いて帰る。草木も枯れ果て、あちこち綻んだ、静かな街へと、理楽の道は続いている。


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花咲く乙女たちの楽苑 扇智史 @ohgi_

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