はっと顔を上げた理楽の前に、藤色の雨が降り注いでくる。それは芽雛の”花”、このビル全体に張り巡らされた藤棚から落ちる爆弾だった。床に、壁に、窓に触れるたび、細長い花が内側からの爆圧で破裂する。

 床を覆っていた褐色の枯れ葉が、次々に吹っ飛ばされて空中で粉々になる。壁が爆音で震える。廊下の窓が砕け、冷たい風が屋内を侵す。

 理楽の黒い”花”も、爆風を受けて苦悶するように揺れる。


「ユキちゃん!」


 とっさに理楽は、雪衣の”花”に覆いかぶさっていた。頑健な”花”も、この破滅の雨の中ではひとたまりもない。理楽は全身で雪衣をかばうが、ひっきりなしに降る紫の雨は、理楽と雪衣の身を灼き続ける。次々に背中で起こる爆発は、体の内側まで衝撃を伝える。頭が左右から揺さぶられ、吐き気すら催す。硝煙の代わりにただよう甘い花の香りが、ひどく異様だった。

 轟音に混じり、芽雛の独白が聞こえる。


「このくらい派手な方がいいものね。終わりってこうでなくっちゃ」


 いいかげんにしろ。

 理楽は胸の内でうめいた。絶望に他人をつきあわせて、他人の苦痛を喜びにして、映画みたいな炎と熱にしか快感を見いだせない。

 こんな女の夢見る終わりなど、自分は望んでいないのだ。

 理楽は歯を食いしばり、目を開ける。雪衣の花弁の端々が黒く焦げて、穴が開き始めている。直撃を受けた花茎と葉は、焼けて千切れてしゅるしゅると縮こまっていた。丸まった細い茎の端が潰れていくのが、まるで自分の身を焼かれているみたいに痛ましくて、理楽は悲鳴を上げる。

 芽雛の哄笑が、灼熱に重なる。


「ずうっと、こういうのを望んでいたんじゃないの? ひとりで死ぬのが怖いから、みんないっしょに、燃えさかる炎の中で、一切合切巻き込んで死にたかったんじゃないの?」


 違う。


「不安がらないで。私もなのよ。あの日、九鬼雪衣に出会って、心を折られて、そのうえあの子はひとりでどこかに行ってしまって。それからずっと、私には何もなかったの。何もないのに気づかないほど何もなくて、それに気づいたら、何もかもを破壊したいの。あなたもそうでしょう?」

「人の絶望を決めつけるな!」


 理楽もずっと、きっと、いろんなものを奪われてきた。それは、元々自分が持つ権利のあったことさえ、知らなかったものかもしれない。

 けれど、それを壊したいなんて思わなかった。

 自分が壊れたっていい。ただ、みんなには幸せでいてほしい。ずっとそう思っていた。

 だのに、いろんなものが壊れて、雪衣さえ壊れて、残されたのは理楽ひとりだ。

 こんなにも何もかもひっくり返った世界で、死にたいなんて、ばかげている。


「あーしは、それでも生きるんだよ!」


 四方から打ち付ける風の中、顔を上げて、理楽は力の限りに、叫んだ。


 次の瞬間、理楽の足許で、無数のつぼみが弾け飛ぶように、漆黒の花を咲かせる。

 その花弁の端が大きく震えたかと思うと、そこにちいさな紫の斑点が生じる。その変容は一瞬にして花びら全体に行き渡り、花弁は紫から青、緑、黄、そして赤と、虹のようなグラデーションを描く。

 少女を囲んで、ほんとうの”千色菫”が咲き誇る。

 そして、無数の”千色菫”から、ふわりと白い霧のようなものが立ち上る。

 またたくまに、視界はその白い霧に包まれた。いや、それは霧ではない、もっと粒子の大きくて、まばらで、ひとつひとつが手で触れられそうな。

 花粉だ、と理楽は気づいた。頭の奥を走る思考の波が、それを理解させた。

 一斉に開花した”千日菫”が、生き急ぐように己の分身を解き放ったのだ。まるでそれ自体が一個の生き物であるかのように、花粉の渦はうねり、猛る。

 花粉の嵐は、爆風をあっけなく押し返すようにして藤棚の花に到達し、包み込む。我先にと、細長い花萼の奥に粉が侵略していく。膨大な花粉をいっせいに受け入れた花の根本が、一瞬だけひどく膨らんだ。

 その圧倒的な侵略によって、またたくまに花は受粉する。

 自らの役目を終えた花は、見る間にしおれていく。そのあとには、ただ、数粒のちいさな種だけが残り、床に落ちて転がる。もちろん爆発などしない。

 廊下のあちこちで、同じことが起こっていた。枯れ果てたかに見えた赤いちいさな花も、その片隅でひっそり咲いていた黒い花も、次々に受粉し、枯れ、種に変わる。

 そして花粉は、割れた窓から街へと流れ出ていく。おそらく、この街のあらゆる場所で、同じことが起きるのだ。理楽の脳裏に、こだまのように響いてくるあの波のなごりが、それを伝えてくれる。無数の花が、受粉し、種をつけ、そして枯れていく様が、手に取るように、目に見えるようにわかる。


「……はあ?」と、床にしりもちをついた芽雛の呆然とした声がする。


 この世ならぬ”花”は、とてつもない速度で再生される自然界の映像のように、生と死のプロセスを繰り広げていた。人間の追いつけない速度で、”花”は、自らの役目を終えていく。

 雪衣の”花”も。


「――っ!」


 理楽の目の前で、雪衣の白い”花”がしおれていく。花弁が瑞々しさを失い、花蕚の色が衰え、茎が支持力を失ってくずおれる。

 このままでは、雪衣が死んでしまう。命の欠片さえ、何も残せなくなってしまう。


「だめ!」


 手を伸ばし、理楽は”白弦薔薇”を両手で支える。花弁はその手を包むようにくにゃりと曲がる。まばゆいほどだった純白はすでに衰えつつあり、木目は粗く、指に引っかかりを残す。

 このまま、枯れるままにはしておけない。

 ざわり。理楽の頭上で、”千色菫”の花粉の最後の一群が、渦を巻いた。宿主の最後の想いに従って、白い渦はそのまま、理楽の胸元へと落ちてくる。

 雪衣の”花”が、それを待っている。

 花粉が、”花”をやさしく包む。

 死にかけていた”花”は、満足げに、花びらをいったん大きく広げ、理楽を迎え入れた。花粉は花弁の奥へとなだれ落ちていき、雌しべの先端に到る。


 とたん、花はしゅるしゅるとしぼみ始めた。役目を終えた花が、あっという間に枯れていく。うてなからほろほろと崩れて、枯れた花弁が理楽の膝の上に落ちる。その感触は、いつか、雪衣の指先が触れたのと同じこそばゆさと幸せを、理楽に残した。


 最後に残ったのは、たった一粒の、黒褐色のちいさな種。


 理楽の手の中に、種が落ちようとしたそのとき。

 ざわっ、と、足元から、怒濤が湧き上がった。床に落ちていた無数の種が、目に見えない波を受けたように、いっせいに宙に浮く。

 ”花宿り”を蝕んだ波の、最後の一波が押し寄せてきたのだ。

 ”花”の種を、新しい世界に連れて行くために。

 雪衣の種も、その波を受けて舞い上がる。


「待って!」


 理楽は、その種をつかんで、ぎゅっと胸に押しつけた。両手を重ね、決して離さないように、きつく握りしめた。雪衣の生きた最後の証を奪われることなんて、あってはならない。

 種は、理楽の手の中で執拗に暴れる。手のひらに刺さり、胸を突き、ほんのわずかな指の隙間から抜け出そうともがく。

 それでも、理楽は決して、種を離さなかった。

 そして、潮騒のようなかすかな残響が、理楽の頭の奥を通り過ぎていく。

 強く握った手の中で、いつしか、種は暴れることをやめていた。理楽の手のひらに残った感触は、ただ、アーモンドチョコの欠片ひとつにも満たないような、ちっぽけな種の一粒だった。


 あの大きな目に見えない波は、消えた。

 きっとその波はずっと彼方、”花”の生まれた場所から届いた、兆しを告げる合図だったのだ。花はそれをきっかけに開花し、花粉をとばし、実をつける。そして最後に、どこか彼方へ種をばらまく風となる。

 種は理楽の知らない場所で咲くのだろう。その苗床となるものたちの思いを振り回し、秩序をずたずたに砕きながら、彼らは自分の生態を悠然と守り続けるのだろう。理楽はほんのいっとき、その一端に触れたにすぎない。

 深く息を吐いて、理楽は手を開く。種が手のひらの上を転がる。

 理楽は自然、微笑んでいた。

 窓が割れ、壁にもひびが入り、爆煙と壁材と枯死した花の名残が宙をただよい、ひどくけぶく、薄暗い。それでも、理楽の白く固い手のひらに残ったちいさな黒い種子は、まるで火のともったように輝いている。なにものにも涜されない強靱な輝きを自ずから放って、そこにいた。

 理楽は、大切に大切に、それを懐にしまった。今度は、二度と取りこぼすことのないように。理不尽な嵐に、喪われることのないように。

 立ち上がり、理楽は足元の枯死した花を踏みながら、振り返る。割れた窓の向こうに、小釘の街が見える。抗争は終わってはいないだろう。拡散した武器も、人の憎悪も、都合よく消えるものではない。曇り空の下、闇の底では、死がわだかまっている。


「……何なのよ、それ」


 まるで乙女のように座り込んだまま、芽雛はぽかんと口にする。自分の生んだ”花”の種が散乱しているのも、目に入っていない様子だった。


「こんなことって……」


 彼女の頭には、指先ほどの枯葉が無数にまとわりついている。細く微笑んでいた唇も、いまはぽかんと開かれたまま。操り糸の解けた人形のように、彼女は力なく、動けないでいた。


「何が気に食わないの」


 理楽は、自分でも驚くほど冷えた声で、つぶやいた。たぶん、それは自分の影に向けるような言葉だった。


「終わりなんて、こんなもんよ」


 暴力はいつだって理屈も何もなく、人を傷つけ、操り、なぶる。終末だけを美しく満足させてくれるわけはない。残骸と、損耗と、焼け跡だけが、破壊の跡に残るもののすべてだ。

 芽雛の見た夢は、たぶん理楽もときおり憧れてしまうような幻想で、だけどそれは幻だから、きっとほんとうにはならない。

 理楽は夢さえ見ないから、その幻を踏み越えていく。

 彼女は芽雛をその場に置いたまま、その場を歩み去る。

 階段を下りて、外へ出れば、夜空はまだ赤々と燃えていた。

 人気のない夜道には、しかし、ずっとわだかまっていた狂った憎悪は吹き払われているように思えた。耳を澄ませば、どこかに身を潜めていた猫の鳴く、か細い声がした。

 見上げれば、だいだい色の街灯が、うっすらと暈をまとって光っている。理楽は、それに導かれるようにして歩き出す。


 目指す場所は決まっていた。楽苑に、種を植えるのだ。

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