4
のどの奥が焼けるように痛む。ずっと閉じこめていた灼熱が、堰を切って解き放たれ、流れ出していく。
金刺理楽にとって、それは、最初で最後かもしれない、悲鳴だった。
「ざけんな! ざけんな!」
両手を交互に花弁に叩きつける。白い花はこゆるぎもしない。その頑丈さ、冷酷な強さが悔しくて、理楽はいつまでもいつまでも、殴り続ける。
「どうして! どうして! どうしていつも!」
涙は出なかった。単なる物質が、彼女の感情をすこしでも和らげるなんて、そんなことは許せない。
「どうして、なんもかんも、あーしから奪っていくんだよ!」
彼女の姿は、きっと悲痛に見えたろう。何も持たない、体ひとつさえ満足でない彼女が、ひどく大きなものに対峙している姿は、哀れみを誘ったろう。けれど、それを誰かが見ていたとしても、きっと彼女を助けないだろう。ずっとそうだったからだ。
「たいせつなものが、できた途端に、いっつも、あーしの手からこぼれていくんだよ……」
いつも手入れして、なめらかな曲線を保っていた爪が、手のひらの肉に食い込んでいる。幼少期から慢性的な絶望に抑圧されていた理楽は、爪をかむ癖が抜けず、いつもギザギザに荒れた爪をしていた。誰もそれを整えてくれる人はいなくて、それを当然だと思っていた。
彼女が爪をかむのをやめて、欠かさずヤスリをかけるようになったのは、ここ一年のことだ。
九鬼雪衣の爪が、とても、とても、ほれぼれするほど、きれいだったからだ。『毎朝、爪を切る』それが彼女のノルマのひとつだと、雪衣は教えてくれた。
「何もたいせつにしないって、だから、そのつもりでいたのに」
理楽が目を閉じると、雪衣の面影が浮かんで、
「でも、目の前に、見ちゃったら」
いとおしくてたまらない。
「だって、あの子は、あーしの持ってないものを、当たり前に手に入れようとしてたから」
雪衣が、おそらく内心で苦しめられ続けながらも、ずっと保ち続けていた、冷たい内律。
目に見えない、あるのかさえもわからない未来のために、自ら敷いた道。
理楽にとってそれは、憧れだった。
理楽がきっと抜け出せない混沌から、雪衣は飛び出そうとしていた。それは、希望としか言いようのない、はかなげで、不確定で、それでも歴然と、理楽を救うはずのものだった。
「なのにさ」
理楽の手のひらから、血が流れて、大きな蓮の葉に落ちて斑点を作った。
「託した心まで持って行かれて」
額を白い花に押しつけ、理楽は血を吐くような声で、うめく。
「あーしは、何も持ってちゃいけないっていうの? 最初っから未来なんてないのに、希望まで持ってちゃいけないっていうの?」
いつしか、理楽は膝をついていた。細い膝の下から、ちいさなつぼみがいくつも、いくつも生えだして、新たな花を咲かせようとしている。彼女はそれを自覚しながら、しかし、別のことに心を奪われている。
ただ、理楽は目を閉じて、祈るように、呪うように、
「だったら、あーしは、どうして……」
「生きてるね。上等、上等」
声は、天井から聞こえてきた。理楽は振り返らない。声はいささか気分を害したような、それすら面白がるような、奇妙な響きを帯びて続ける。
「やっぱり、あなただけね。私といっしょなのは」
「……何を」
理楽は、至極不快に顔をゆがめて、振り返りながら上を見やる。
天井を埋め尽くした、無数の藤の花。その一房から伸びるしなやかな蔓を身に巻き付けて、仁藤芽雛はそこにいた。
「気づいている? この『波』のこと。私や、あなたや、”花宿り”のみんなをつないでいる」
吊されて、それを楽しむような彼女の姿は、地上にまっすぐ立っているのと変わらない。あちこちに心棒を入れているような、硬質で、生命力の乏しい所作。
「ずっと感じているはず。はるか彼方からやってくる波が、私たちの心を同調させるのを。この感覚、私は知っているような気がするのよ。肉体が変わり果てて、違う生き物になる」
芽雛は、真横に首を傾けた。
「でも、私とあなたは変われない。その理由も、私にはわかる気がするの。あなたはどう?」
「知るわけないでしょ」
何もかも決めつけて、人にそれを押しつけてくるような芽雛の言いぐさが、理楽は気に食わなかった。大嫌いだ、と言ってもいいかもしれない。理楽は険のある目で芽雛をにらむ。
芽雛は、その視線を肩をすくめて受け流した。
「ねえ、これからどうするの?」
これから。
問われて、理楽の思考が一瞬、凍りつく。
頭の中に大きな波が打ち寄せる。その振動のひとつひとつが莫大な情報を持ち、彼女に何か伝えようとしているかに感じられた。けれど、それは違うのかもしれない。波はただあるがままにあるだけで、そこに宿る情報は誰に向けられたものでもないようでもあった。
それは、花の心だ。この小釘の街のあちこちで……それとも、もっと遠くでも、幾重にも咲き乱れ、新たな命を謳歌している、かつて人だった”花”の心だ。
風にそよぐのと変わらない。”花”は心を揺らしている。
いま、目の前にいる、雪衣もそうだ。
けれど理楽の意識に、その声はうまく伝わらない。彼女たちの発する情報は、理楽が読み解けるようにできていなくて、だからすべては巨大な波でしかなかった。
理楽は、また取り残されている。
「そうして、後生大事にその子を抱えているつもり? 二度と目覚めないのに」
「……そんなこと、わかんないじゃん」
「意固地ね」
傾いた視線で理楽を見つめ、芽雛はかすかに笑い声を立てた。
「あなたの見たいものは、ここにはないわ。いっしょに行きましょうよ」
「……どこに」
「花園、とでも言ってみる?」
理楽の下半身を覆い尽くしていた赤い花の大群は、いつのまにか萎れていた。発生したときと同じに、異様な速度で枯死した花は、微細な葉脈と花弁の名残だけをタイルの上に散らして、ぼろぼろと崩れ落ちている。
そのかわりに、理楽の足許に生まれているのは、たくさんの黒い花。それは、彼女が無意識のうちに芽生えさせた花だ。つぼみのまま、理楽の意志を待っている。
「”花”が芽ぐみ、咲いて、乱れて、土地を奪い合う。この世のものとも思えない、きれいな殺し合い。それがいま、この街で起きていることよ」
ずっと抑揚のなかった芽雛の声音がすこしだけ上ずった。この世界で起きていることを祝福するような、陶酔の響きだった。
「それこそ、楽苑と呼ぶべきじゃないの?」
「やめて。その名前を汚さないで」
芽雛ははじめて、目を見開いた。長い睫毛の下で、つや消しの黒い瞳の色は、底深くあらゆる光を溶かし込んでいるように見えた。
「はっ」
弧を描いていた唇が、ぱくりと裂けるように開いた。そして芽雛は、高らかに哄笑する。
「ははははは! そんなに大切なの? 彼女にまつわることが。あんな、ただの悪趣味な闘技場が?」
「笑うな!」
理楽と、雪衣と、そしてソフィアとの思い出に砂をかける、芽雛の態度が許せなかった。
ずっと握りしめたままだった両手の力がゆるみ、そこに”花”が開く。芽雛を打ち落としたかったわけでもなく、制圧したかったわけでもなく、ただ行き場のない闘争心が”花”に乗り移ったかのようだった。
血の色の”花”を見やり、芽雛は肩をすくめた。
「やめてよ。こっちには戦う気なんてないの。ばかばかしいでしょう?」
「……あんた、何を考えてるの」
「あなたと同じことよ。あるいは、あなたが心の奥で否定したがっていること」
「人にかこつけてそれらしいこと言って……ほんとうは考えなんて何もないんじゃない?」
「正解かもね」
皮肉に対してあっさりとうなずかれ、理楽は梯子をはずされた気分で、一瞬呆然と芽雛を見つめてしまう。芽雛は左右に身を揺らしながら、告げた。
「考えがあるのか、考えてるふりなのか、もう自分でもわからないの。確かな基盤を持たない思考なんて、空洞と変わらないわ。たぶん、私はただの空洞なの」
高らかに、むしろ誇らかに、芽雛は絶望を口にする。
理楽は初めて、ようやく、芽雛が彼女に目を付けた理由の一端を見た気がした。つるされて、むなしく揺れる白磁の人形のような芽雛の姿は、あるいは彼女なりの自嘲なのかもしれなかった。
その、自らを道連れに世界すべてをあざわらう虚無は、確かに理楽に似ている。
それほどに空虚を気取りながら、道連れを求める寂しがりやなところも。
「あなただってそうでしょう。雪衣さんに寄り添っているだけの、哀れな人形」
彼女の指が、何かに操られるように動いて、理楽の足許を示した。つぼみを割って、墨のように黒い尖った花びらが這い出ようとしている。
「咲かせたいんでしょう、その花を」
理楽は、いまにも咲き誇らんとする花を、うつろに見下ろす。宿主の目とは裏腹に、花は活力にあふれ、その激しい息吹を解き放とうとしている。つぼみの奥底に押し込められて、まるで自らを毒するように濃密に凝縮された、死をもたらす芳香。
「……違う」
力なく首を振る理楽をからかうように、つぼみはますます膨らむ。それどころか、地を這う茎からいくつもいくつも同じつぼみが生え出してくる。出口をふさがれた水が亀裂から吹き出して、管を破壊するように。
理楽は立ち上がり、足許に這う自らの花の茎を、踏みにじった。痛みなんて感じない。
「あんたにはつきあってらんない」
「どこへ行くの? どこへも行けないのに」
芽雛の問いを、理楽は無視した。
理楽は、雪衣に手を伸ばす。そっと花びらに指先を触れると、彼女がまだ生きているみたいに、震えた。重なる花弁の奥、束になった蕊が、しかるべき時を待つようにわずかにたわんで、黄色く色づいている。
彼女はまだ、生きているのだ。
「……そう」
かすかな芽雛の声と同時。
どうん、と、爆音が、建物全体を揺るがした。
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