3
冷たい地下の床に腹這いになりながら、ユメホはそれを聞いた。
いよいよお迎えがきたか、と思った。アズキを餌に彼女たちを待ちかまえていた十人もの武装集団を相手に、彼女はよく戦ったものの、多勢に無勢では勝ち目はなかった。ヒマは早々に重傷を負い、いまは部屋の隅に転がされている。そして無防備なユメホの背中には、本能をむき出しにした男たちの粘っこく熱い視線が注がれている。
ざらつくコンクリートに頬を押し当てていると、銃弾にえぐられた手足の痛みさえ遠のいて、全身が消えてなくなっていくような気がした。
このまま死ねば、こいつらを道連れにしてやれるかもしれない。レニみたく。
目の前に鮮やかに浮かぶ破滅のイメージに、ユメホが没入しかけたとき、そのさざ波ははるか遠くからやってきて、彼女の全身を浚うようにして通り過ぎていったのだった。
波はあたたかくて、激しかった。耳の奥で、波の残滓がぐるぐると渦を巻いて、ユメホの頭はその残響にとりつかれる。一瞬だけ、ユメホはそれに抗おうとしたけれど、すぐにやめた。無駄なことだと、すぐにわかった。
拘束されたアズキの椅子が音を立て、ヒマの体がはじけるように痙攣する。
その気配が、手に取るようにわかる。いまや友人たちの体はユメホの一部になったようで、どこにいるのか、何をしているのか、見えなくてもひしひし伝わるものがあった。見えない繋がりのさらに遠くには、レニがいるような気がした。
代わりに、彼女を囲んでいた男たちの気配は、まるで春日に溶ける雪のように崩れていく。彼らは表面を洗う流れにすぎず、彼女たちのそばを通り過ぎていくだけ。ユメホたちの芯を汚すことは、決してできない。
ユメホはうれしかった。彼女の欲していたものが、いまや触れなくとも、見なくとも、理解できた。それを教えてくれたのが、あの波だった。
だからユメホは、身を任せた。
雪衣は無我夢中で、木川美咲を苔の海から引きずり出した。”花”を美咲の全身に巻き付け、渾身の力で部屋の床からドアの向こうの廊下に放り投げるように逃がす。
苔は生きているように波打ち、部屋の中を縦横無尽になめ尽くす。うごめきのさなか、苔の内側に閉じこめられた人間の痕跡が見えたような気がした。ひとつは川又鎖理の遺体だったかもしれず、べつのひとつは、雪衣の父親の顔だったかもしれなかった。すべては夜闇に染まる部屋の荒波のうちに呑み込まれ、確かめる術はない。
打ち寄せた波に足を取られかけ、雪衣は「ひっ」と身を引いた。
微細な苔のひとつひとつが、いまや、褐色のつぼみをつけていた。指でつまめるほどのちいさなつぼみは、いまにも打ち割れてささやかな花をつけるかに思える。割れ目からこぼれる花弁の端は波打ち、薄い赤みを帯びている。それは、職人の技術の粋を尽くして造られた、精妙なイミテーションのようだった。
それが幾百、幾千と敷き詰められているのは、ひどくおぞましい光景だった。
雪衣は部屋を飛び出し、歯を食いしばって全力でドアを閉めた。二度そのドアを蹴りつけ、開かないように”花”でドアノブを括って固定し、ドアに全体重を預けて押さえつけた。そうしてもなお、わずかな隙間から、あのちいさな苔が這いだしてくるような気がして、雪衣はドアから目を離せない。
スチールのドアと、土に汚れた茶色いタイルの隙間を、じっと見据えて、数秒。
「……うん?」
はっ、と雪衣は顔を上げた。
「木川さん!」
「……あれ、九鬼さん」
「どうしてこんなことに……何で……」
何から訊けばいいのかわからなくて、言葉が口に出る前に混線して、雪衣はうまくしゃべれなかった。美咲は、あいまいな目線で雪衣の顔を見上げているけれど、そこにいるのがほんとうに雪衣だとはわかっていないような、意識の混濁した様子だ。
うわごとめいて、美咲はつぶやく。
「今日ね……九鬼さんの友達に会ったよ」
「友達?」
ドアの向こうでは、ごうごうと、台風の夜のようなうなりがこだましている。それを壁越しに感じながらでは、美咲の発した言葉は、ひどく自分とかけ離れたものに感じられた。
「あの子。金髪で、きれいで、でも、死にそうなくらい痩せてて……」
「理楽に会ったの?」
そんな知り合いの心当たりはひとりしかいない。雪衣が問い返すのに、
「……私、何にも知らないんだって思った。九鬼さんのことも、この街のことも」
美咲の話はふいに飛んで、雪衣はつかのま戸惑う。美咲のうつろな目、血の気のひいた唇が、雪衣になどおかまいなしに言葉を紡ぎ続けている。
「それが知りたくて、私、今日は、あの子に会ってからもずっと、高架下や佐治野で……」
「なんてこと」
ひとりごつように雪衣はうめいた。美咲の感覚は、雪衣には得心できないまでも、理屈はわからないではない。箱入りで育てられた彼女の中には幼い冒険心が残っていて、それが雪衣や、あるいは小釘の淀みの部分への好奇心と重なって、美咲を駆り立てたのだろう。
けれど、いまは最悪の時期だった。”花宿り”と、危険な大人と、街に拡散する銃と、何もかもが悪い方向に重なって暴発したその日に、よりによって、彼女はもっとも危ない場所にいたのだ。
ほんのひとこと、雪衣がそれを注意していれば、美咲を止められたのだろうか?
「……それで、黒い髪の女の子に、会って、それから……」
美咲のまぶたが一瞬閉じかけ、雪衣はたまらず彼女の前にひざをつく。その気配を感じたみたいに、ふたたび、美咲は目を開けた。
「……そうだ、九鬼さんなら、知ってるかな」
「何?」
のろのろと、美咲が、右手を持ち上げる。美咲らしくない、やけに派手な刺繍の入ったジャケットのファーを、ゆっくりと押し下げて、彼女は自分の鎖骨の下を晒した。
「さっき気づいたの。これ」
美咲の胸のささやかな膨らみの、すこし上。心臓のそばに、白い発疹のようなものがある。球形だけれど、先端がいくぶん尖って、触れれば指先が引っかかりそうだった。
その先端から、ふいに、黒い何かがのぞく。
”花”だ。
雪衣が飛び退いた瞬間、美咲の胸は、黒い”花”に引き裂かれた。絹のようになめらかだった皮膚が八つに裁ち割れて、奥からねじれた花弁がうねりながら現れる。制御されない開花は、宿主の体を無惨に引きちぎる。赤黒い肉片をまとい、鎖骨と肋骨の間をこじ開けて、”花”は野放図に廊下を埋め尽くして咲く。
血しぶきがひとしずく、雪衣のほおをかすめた。足から力が消え失せて、雪衣はその場にしりもちをつく。
その目の前で、ドアが吹き飛ぶように開いて、褐色の波濤が視野を埋め尽くす。
”花”の渦に飲まれ、雪衣は反射的に息を止めようとするが、のしかかる波の圧力が横隔膜を押し潰し、肺からごほりと空気が吐き出される。
こじ開けられた口に、”花”の開いた赤い苔がなだれ込みそうになる。
めくらめっぽうに伸ばした足が偶然に床を蹴り、波打つ苔の水面の上に頭が浮いた。
呼吸して、一瞬正気を取り戻した。
しかし、眼前に広がる様相は雪衣の理解を超えている。苔、あるいは”花”の大群は、雪衣の腰のあたりまで達して、獲物を追う蛇のようにのたうちながら廊下を埋め尽くしていく。
発生源の部屋に目をやれば、内部はすでに真紅に埋め尽くされ、手を伸ばすこともできそうにない。窓を埋めていた苔ははげ落ちていたが、外光は炎の色を帯びたまま、室内にまがまがしい熱を生むばかりだ。
唖然とし、雪衣はただ、彼女の足を食らいつくさんばかりにうごめく”花”の群れに抵抗するように、屹立するほかない。すこしでも気を抜けば、体ごと呑み込まれていきそうだ。その誘惑に、雪衣は耐える。
そして、赤い花の波の上、孤独な船のように浮かぶ、黒い花を見つめる。
雪衣が取りこぼしてきたものが、うてなの上に寄り集まって、開いたかのようにさえ思われた。その根元にいるはずの木川美咲は、きっともう生きていないだろう。どうしてか、そう確信する。”花宿り”の命のあるなしが、いまの雪衣には手に取るようにわかる。心が死んでいく代わりに、別のものが頭の中を乗っ取っていくような、そんな感覚がある。
だからだろうか。いまの雪衣は、悲しみを感じていなかった。
美咲が死んでいるのに、きっと父も死んだのに、それに反応するべき領域が体から削ぎ落とされてしまったみたいだった。
それとも、元々、そんな気持ちはなかったのかもしれなかった。
化けの皮が剥がれて、人間じゃないものの本性がむき出しになっただけなのかもしれなかった。
自分が人間だなんて信じられる理由はどこにあったんだろう?
波が聞こえる。足元を波濤がさらう。雪衣は何も意識しないまま、ふとももの奥から”花”を伸ばして、その尖端を床に突き刺して体を支えていた。けれど”花”の耐久力は、押し寄せる波の勢いにいつか押し負けるだろう。
負けてしまってもいいような気がしていた。
深くものを思う気持ちさえ、最初からなかったのかもしれなかった。自分はずっと、何かつまらない仕組みに動かされる人形だったかのように感じられる。記憶さえあいまいでおぼろげだった。
さざ波が、彼女の頭をすべて打ち払っていく。何もかも平らかになる。
「――ユキちゃん!」
理楽の声が、雪衣の意識を引きずり戻した。
階段を駆け上がってきた理楽は、足下に押し寄せる”花”の大群を一瞬だけ見つめ、すぐに雪衣に向き直った。壁に左手をつき、右手を雪衣のほうに伸ばして、
「こっち来て、ユキちゃん! 逃げなきゃ!」
呼びかけられて、しかし、雪衣の心の半分はいまだ微睡んだように不鮮明で、
「……どこへ?」
こぼれ落ちたのは、そんな反問だった。
ふたたび意識が波間に落ち込んでいく。ほんのつかのま、引き潮に取り残された貝殻みたいに浮かんだ雪衣のちいさな心が、次の満ち潮に沈む。
「ユキちゃん!」
叫ぶ理楽の声が、ひどく柔らかい壁に遮られたようにくぐもって聞こえた。
廊下の明かりが、一瞬だけ強く光って、消えた。世界が真っ暗になったみたいに感じられた。闇の底でたゆたう波が雪衣のすねを洗い、足の裏をひっくり返して彼女をとらえようとする。海岸で犬と戯れた夕暮れの記憶が、彼女の頭をよぎる。犬の苦手な雪衣にそんな記憶があるはずはなかった。別の誰かの記憶と混じったのかもしれなくて、けれど、もうその追憶が誰のものでもかまわない。
どうせ、何も私のものではないのだ。
ひときわ深い海が、雪衣を呑み込もうとして、
「あっ――」
「理楽!」
波にあおられて倒れかけた理楽に、雪衣はとっさに”白弦薔薇”を伸ばしていた。
長い蔓が、理楽の手首をつかまえる。同時、雪衣を支えていた足元の蔓が力を失う。倒れた彼女の体は波にさらわれていく。
そのさなかに雪衣の思ったのは、ただ理楽のことだった。
彼女はただ、残る意識のすべてを”白弦薔薇”にそそぎ込み、ひたすらに理楽の体を引き寄せた。
ゴムが縮んでいくみたいに、理楽は波に逆らって、雪衣のもとに近づいてくる。
命綱みたいに蔓につながれて、雪衣と理楽のふたりの体は、花の波の中で出会った。
「理楽!」
ふたりの体重が、荒ぶる波を押しのける。雪衣が両膝を曲げると、その先が廊下に届いた。支え合って、ふたりはそこに、向かい合ってしゃがんだ。膝頭が花の波の底でぶつかった。
細くて頼りない理楽の肩をきつく抱きしめて、雪衣は、まぶたの奥からわき上がるものが、額を強く押しているのを感じる。ぼやけた視界でも、数センチ先にいる理楽の顔は鮮明だった。
泣きそうな顔が、雪衣を見つめている。彼女が泣くのを見るのは、これが初めてだ。
「ユキちゃん……」
ごつん、と、理楽が額をぶつけてきた。脳裏を駆け巡っていた波がつかのま凪いで、雪衣の意識に晴れ間が訪れる。
「言ってくれたよね。いつでも呼んで、って」
「……うん」
遠い昔の出来事のようだった。”楽苑”はどうなっただろう。ソフィアは生きてくれているだろうか。小釘は元の形に戻ることができるだろうか。
何もかもがバラバラになりつつある夜に、雪衣と理楽は互いをつなぎ止めている。抱きしめる腕が、額の冷たさが、吐息の温度が、ふたりを結ぶ架線だった。
「ユキちゃんはいつでもずっと先に行くし、あーしはきっとそれに追いつけないけれど」
理楽は切なげに、ぎゅっと額を押しつけてくる。間近で見開かれた彼女の瞳は、いまは濃厚な緑色に染まっている。エメラルドみたいに美しい。
「でもね。ユキちゃんがそうして、きちんと生きてくれてることが、あーしの希望だから」
ああ、と、雪衣は吐息をこぼしていた。胸の内を荒れ狂う嵐が、そのかすかな呼吸によって吐き出されて、魂が静けさを取り戻す。砕け、乱れていた心が、水の中の粉末のように底に沈んでいく。
そうして、心が透き通ったとき、雪衣はいままで自分が薄闇の中にいたことに気づいた。
どんなノルマを課しても、どんな目標を果たしても、どこにたどり着こうとしても、その理由がずっとわからないままだった。混迷したまま、ただひたすらに道だけを敷いて、歩むことだけを自分に命じていた。
だけど、いま、理楽がそれに理由をくれた。
「だから、お願い。あーしをその、生きるレールの上に……ううん、乗せてくれなくていい。置いていってもいい。だけど、きっとあーしがそれを見ていられるように、ずっと歩いていて。その先を、あーしに見せて」
耳に触れる声は、指先よりも心地よく、やわらかい場所を刺激する。理楽の固くてとがった両手が、肋骨の間に押しつけられて、きりきりと痛む。
こうしている間だけ、雪衣は自分が正気なんだとわかった。
理楽を生かすために、生きていられる。
どれだけ遠く離れても、理楽の目に、自分の生きた道筋が見えているのならいい、と思った。
生きること自体が誰かを救えるだなんて、そんなに幸福なことがあるなんて、いまのいままで想像さえしていなかった。
幸せで、うれしくて、だから雪衣は何のてらいもなく、笑った。
「理楽……」
新しい季節が訪れた。
純白の”花”が咲く。
理楽の目の前で、雪衣ののけぞった首筋から、拳ほどもある巨大なつぼみが天を向いて広がる。
肉を引き裂いて、骨を押しのけて、花茎はまたたくまに雪衣の肉体を乗っ取る。ちぎれた四肢は、まるでソフトで着色するように濃緑色に塗り変わって、波間に無数の葉を浮かべた。胴体は絞られるようにねじ曲がり、細い茎となって網のように広がっていく。
みるみるうちに茎と葉が、赤い水面を埋め尽くす。ちいさな赤い花々が、葉の下に埋もれ、しおれていく。
それは戦争のようだった。瞬間的に生じて世界を奪った種が、新しい種の出現によってまたたくまに侵略され、滅ぼされる。そんな、幾万年の生存競争を一瞬に圧縮したかのような闘争が、理楽の眼前で展開していた。
けれど、彼女はそんな生態系の攻防には目もくれない。
理楽が見ていたのは、ただ、争いの中枢で優雅に咲き誇る、一輪の大きな大きな、蓮のような花だけだった。
一瞬前まで雪衣だったものの体を簒奪して、雪衣の肉も骨も食らい尽くして、ただ美しいだけの花を咲き誇らせている。
握りしめた両方の拳を、花のうてなに押しつけながら、かすかに震わせる。白い花は微動だにしない。
代わりに、震えはまるで病のように、理楽の全身を駆けめぐった。細い首筋を、痩せこけた肋を、頼りない脚を走り抜ける凍えるような感覚は、いつしか、彼女の心臓にまで届いて、胸をしめつけた。
呼吸が乱れる。周囲に満ちた、この世ならぬ花の香りは、そのかすかな呼気を利して理楽の体の中にまで入り込んでくる。
理楽は、口を開けた。肺の奥から、
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
迸った。
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