2
想像よりもずっとみすぼらしい、薄汚れた雑居ビルを前にして、雪衣は一度、地図と実物を見比べ、眉をひそめた。
「ほんとうに、ここにいるのかしら」
まだ宵の口なのに、どの窓も真っ暗に閉ざされている。均等に並ぶベランダには、ひしゃげた物干し竿や空っぽのプランターや湿った段ボールが捨て置かれて、その微妙な違いが逆に各々の個性を埋もれさせ、全体でひとつの模様にしてしまっているみたいだった。
身近に見かけても、きっと気にせず通り過ぎてしまうだろう。
だからこそ、逆に隠れ家には相応しいのだろうか、と雪衣は、あごをすこし上げてビルの四階を見つめたまま佇んでいた。いつのまにか水没地帯を抜け出していたが、靴も靴下もびしょ濡れのままで、じわじわと体温を奪われている感覚がある。つま先がしびれたように冷え切っていた。
「どうするの?」
ずっと彼女の手を握っていた理楽が、問いかける。
「くぅちゃんと会って、それで」
「……とにかく、父を返してもらう。ここにいれば、の話だけど」
言葉は機械的に口から滑り出た。
「で、そのあとは?」
「あと?」
つぶやくように問い返しながら、雪衣は、次に発するべき言葉のないことを自覚している。無益に吐き出された呼気だけが、白く揺らいでふわりと消えた。
父がどうなっているのか、これからどうするのか、彼女には決められない。川又鎖理の”花”の力が、元に戻れないところまで父を壊してしまっているなら、彼を連れ帰る意味はない。雪衣が彼に求めているのは、彼女の生活を守ること、そして彼女の心を蝕まないこと。それより多くを、彼女は望まない。
畢竟、雪衣がまっとうに生きるための道筋だけが必要で、そのために、この国では家族を揃えておくことが不可欠なのだ。
その、うつろな舞台だけが、欲しかった。
そんなことのために、わたしはこれから、命を賭けるかもしれないのだろうか?
足が震えた。持ち上げたままのあごの下を、ひんやりした空気が吹き抜けていく。首が締めつけられて、ゴムを絞るような音がした。
「……わたしは」
窒息する代わりに、雪衣は言った。
「こうすると決めたことを実行するだけ」
ノルマを課すように、行動指針を定める。それは雪衣の得意とするところだった。道筋さえ誤っていなければ、自ずと結果はついてくる。胸の中で、そう言い聞かせた。
行こう、とどちらから言い出すでもなく、ふたりは足を踏み出す。オートロックもないドアを通り、ひどくがらんとしたロビーを抜けて、廊下の東の端へと歩を進める。
階段を見上げたふたりは、そこで、つかのま足を止めた。
「――」
まるで藤棚のように、壁と天井がびっしりと”花”の蔓で埋め尽くされていた。紫色の花が所構わず咲き乱れて、照明をも塞いでいる。下向きに花弁を付けた無数の花々の先には、点々と黄色い雌しべがふくらみ、こちらを観察する奇態な獣の目のようだった。
その”藤棚”に囲まれて、ひとりの少女が、階段の途中に座り込んでいた。
能面のように冷たい面差しをしていた。ほっそりした体が、ふいに立ち上がると、バネが跳ね返るように頭と上半身が前後に揺れた。しかし足元は強く地面をつかむようにまっすぐで、そのことがいっそう、彼女を人ならぬもののように見せていた。
細筆で引いたような目つきが、雪衣の脳裏に刺さる。彼女を知っているような気がした。
細い目が、弧を描いて笑みをかたどる。
「九鬼さん、久しぶり」
すこし嗄れたような、男とも女ともつかない声に、ふたたび記憶をくすぐられる。雪衣はじっと少女を見上げたまま、問いかける。
「……どこかで、会ったことあるかしら。学校?」
「ううん。それよりずっと前に。小学生ぐらいかな。スクールで」
そう言われて、頭の隅に閃くものがあった。練習室の鏡張りの壁、そこに写った黒く細い目が雪衣を見つめていた瞬間。彼女が実演したパ・ド・ドゥの、丁寧だけれどどこか危うい仕草。いまにも手か足が折れてしまいそうで、妙に緊張しながら雪衣は彼女の演技を見ていた。
「
「そう、仁藤
幼い頃に通ったバレエスクールで、同じ教室だった子だ。当時の面影が、確かに残っている。思わぬ出会いに、しかし雪衣は感激などできない。ここは川又鎖理の拠点で、芽雛を守るように一面の藤色の”花”が咲くこの空間は、まるで彼女の要塞だった。
「……こんばんは、お久しぶり」
かろうじて口にしたのは、ルーチンワークのような言葉。
「あんたもくぅちゃんの仲間?」
理楽が言葉を継いだ。彼女は芽雛のことを知らないのか、眉をつり上げてまっすぐ芽雛を見据えるその目つきには、警戒心が露わだった。芽雛のほうは、理楽を一目見て、
「あなたが金刺理楽ね。一度、会ってみたかったの」
「あーしに?」
「いろんな子に話を聞いたけど、何となく、あなたのことがよくわからなかった。だから、直に見て知りたいと思った。それだけよ」
芽雛の淡々と抑揚のない話しぶりに、雪衣は背筋がぞわぞわするのを感じる。あのころもほとんど話したことなんかなかったけれど、この十年ちかくで、彼女はいっそう、得体の知れないものに変貌してしまったように見えた。
「ね、仁藤さん。そこを退いてくれる? わたしたち、上の……」
「鎖理ちゃんに会いに来たんだよね。わかってる。ここに来る女の子はみんな同じ」
雪衣の言葉を先取りして、芽雛はうなずいた。
「行けばいい。邪魔したりしないから」
「……ほんとうに?」
雪衣は不審を隠さず、広がる藤棚を見渡す。芽雛は鎖理を守るためにここにいるとしか思えない。それが、雪衣の意図さえ訊かないというのは、考えるまでもなく奇妙だった。
「足止めする理由はないもの」
微動だにしない瞳で雪衣を見下ろしながら、芽雛はそう言った。気味の悪いほど均整の取れた姿勢で直立する彼女を見ていると、雪衣は、まるで彼女が別の誰かに操られているかのように錯覚する。それくらい、彼女自身の思惑というものが、芽雛の行動には含まれていないように感じられた。
しかし、彼女が何を考えているにせよ、そこに雪衣に対する悪意があるようには思えなかった。第一、そんな理由もない。芽雛とは、ただほんの一時すれ違っただけの間柄で、彼女に陥れられる筋合いはないはずだった。
いつでも反撃できる気構えだけは保ったまま、雪衣は足を踏み出す。敷き詰められた蔓を踏んで、藤棚が鳴子のようにそよぐ。しかし、起きたのはただそれだけで、芽雛も何ら動きを起こそうとしない。
芽雛の横を通り抜けて、雪衣は、さらに上に進む。と、それを追うように、理楽の足音が聞こえる。
「待って。理楽さんとは、すこし話をしたいの」
「え?」と雪衣は足を止めて振り返る。後ろ姿の芽雛は変わらず微動だにしないけれど、廊下から届く明かりでうっすら影になったたたずまいには、ガラスケースに飾られた日本人形の不吉さがほの見えた。彼女の肩越しに見下ろすと、理楽は、彼女らしからぬ険悪な顔をして、
「どーいうつもりなの、あんた」
「理楽さんのことが知りたい。さっきも言ったけれどね」
「けどあーしは」
詰め寄る理楽の剣幕を、芽雛は柳に風と受け流しながら、
「上に行く理由があるの? 九鬼さんについていって、あなたのしたいことなんてあるの?」
聞き返され、理楽が一瞬視線を泳がせ、雪衣を見た。
その瞬間に、雪衣が理楽を呼ぶことができれば、きっと彼女はすぐに雪衣を追いかけてきただろう。芽雛の言葉も何も関係なく、雪衣は理楽といっしょに行けただろう。
けれど、理楽は、自ら目をそらしてしまった。それで雪衣は、理楽に呼びかける機会を失った。
「あーしは……」
そう言ったきり、理楽は言葉に詰まった。ほんのすこし開いたままの唇から漏れた吐息は、冬空の下を流れた白い息よりも、ずっと寒々しかった。芽雛を見上げた薄い色の瞳は、歯車が壊れた時計みたいに固まっていた。
彼女にかけられそうな言葉がないのに雪衣は気づいていた。吐息に吹き散らされて、ばらばらになってしまったみたいだった。
待っていて、と、そう言い残すのさえ、白々しく思えた。だって、最初から、最初の最初から、きっと決まっていたんだから。いつか雪衣は、理楽を置いていく。
雪衣は、無言で足を踏み出した。頭上を覆う藤棚は微動だにせず、理楽はわずかに視線だけ動かしてこちらを見たけれど、唇は白く固まったまま声をつむぐことはなかった。芽雛は振り向きもしなかった。
目線を上げると、階段の先は不気味なほどに暗くて、お化け屋敷を連想させた。しかし彼女の記憶にあるのは、中学の文化祭で連れ込まれたちんけな代物で、だからそんなに恐ろしいとは感じない。彼女の中のテーマパークの思い出は、五歳の頃で止まっている。
最上階の廊下は、下の階よりずっと短かった。並んだドアは五つ、どこにも表札の類はなく、何かの通知が挟まれたままのものもある。
一番奥が、川又鎖理の部屋だ、と聞いている。雪衣は迷わず、その部屋に向かって一直線に歩を進める。
何をしに行くのか、と、頭の片隅に問いがかすめたのを、考えなかったふりをした。
ドアには生活のにおいが感じられない。横に延びたドアノブには、わずかに埃さえ積もっているかに見えた。雪衣は一瞬、足下とドアの隙間を見つめて、そこに”花”の痕跡がないのを確かめた。
よどみない仕草で、彼女はドアを引き開けた。
「ねえ、金刺理楽さん」
仁藤芽雛は、首をかたむけた。まっすぐな髪がたわんで、細いあごにかかる。薄桃色の唇の奥で、白いエナメル質と、赤い舌とがぶつかり合っている。
「あなたと会えて、ほんとうにうれしいの」
まぶたにほとんど隠れた瞳孔の奥で、炎に似た光が揺れていた。
「あの子は、先にいってしまったから」
川又鎖理は、そこにいなかった。
すくなくとも、彼女、あるいは、人間の原形をとどめたものは、雪衣の目には入らなかった。三和土に呆然と立ち尽くした雪衣の前に広がっているのは、壊れたアクアリウムに似た光景だった。
動くものは死に絶え、ただ、微細な苔だけが野放図に繁殖して空間を埋め尽くしていた。エントロピーのたがの外れた、小宇宙。
部屋の中央にある球体は、茶褐色をしていた。床に触れた下部が自重でいくぶん潰れていて、その余勢か、全体がわずかずつ溶けるように広がりつつあった。そのうちの一部分だけが、帽子のつばのようによけいに広がって、そこから繊毛の生えた平たい領域が絨毯のように部屋の奥に続いている。絨毯は四つに枝分かれして、そのひとつひとつが、部屋の壁や窓にまで到達し、上に広がって壁を埋め尽くしている。
壁は、数センチだけ、内側にふくらんできていた。人の背丈ほどの縦幅と、その半分の横幅を持ったふくらみが脈打っているように見えたのは、窓から射し入るかすかな夜光が引き起こす錯覚かも知れなかった。
遠くで舞い上がった炎が、つかのま、部屋を明るくする。そのとき雪衣は、革靴のつま先に、苔の絨毯のへりが触れているのに気づいて、びくり、と足を引いた。こんもりと盛り上がった褐色の小山は、バスルームの入り口から雪衣の足元まで、ゆるやかに広がっている。意識してみると、体温ほどの熱が感じられるように思われた。
その山の端、雪衣の足のすぐそばに、人間の指が突き出していた。
雪衣は息を呑んで、その場に膝をついた。見れば、その細い指は、まだ命を保っているかのように赤みを帯びて、丁寧に切りそろえられた爪さえもみずみずしい。
迂闊に手を出せば危険だと脳裏に警鐘が鳴るが、かまわず雪衣は両手で指を握りしめ、苔の山をはぎ取るような勢いで指、手、手首、腕、そして頭を引きずり出す。
青ざめた肌から苔がなだれ落ち、青ざめた顔がさらけ出された。
「木川さん――!」
雪衣のうわずった悲鳴と同時に、苔の山が波打つ。
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