5・Who Shall Deliver Me?

 その日の雪衣は、最悪だった。


 朝からひどい頭痛に悩まされていた。朝食をとっても、胃の中のものが何もかも戻ってきそうでほとんど手をつけられなかった。それでも欠席だけはしたくなくて、ふらふらの体を引きずって登校したのだが、結局一時間目の授業の途中で、先生に保健室に連れて行かれ、昼前には早退させられた。

 自分で帰れる、と強弁したものの、帰り道は、見知らぬ世界のようだった。視界は上下左右に揺れ動き、足下は溶けた粘土のようにたよりなく、道行く人も誰も彼も雪衣に不審な目を向けていた。あとから思い起こせば、それは生まれたての”花”が体に引き起こした異常だったのだけれど、そのときの雪衣はまだ”花”の存在さえ知らなかった。

 通い慣れたはずの道を途中で間違えたのも、”花”のせいに違いなかった。気づけば知らない場所、知らない看板、知らない家。


 雪衣が心配したのは、ルールを破ってしまうことだった。「寄り道をしてはいけない」「ひとりで見知らぬ場所を歩いてはいけない」「不審な人物についていってはいけない」子供を保護するために大人が強制するような掟を、彼女はあえて自らの意志で自らに課していた。それは、彼女の求める正しさへの手がかりだった。


 頭を破裂させそうな高熱と、臓器を握りつぶされるような悪心でまっすぐ歩けない彼女を苦しめていたのは、ひとつには、その自律だった。

 結局、十五歳の彼女は、春先の重たい陽射しが照りつける国道の片隅で限界を超えた。自分の体が、まるでよく眠れる布団を求めるみたいに、薄暗い脇道の側に倒れ込んでいく。その、安心とも絶望ともつかない落下の感覚に支配されたまま、雪衣の意識は陽射しにとけるように途絶えた。


 ……日陰の花のにおいをかいで、目覚めた。

 背中に、制服越しの固い感触を覚える。スカートの下には、たくさんの小石らしい不愉快な凹凸がある。どうやら自分が道ばたに座り込んでいるのだと、雪衣はぼんやり察した。その判断ができる程度には、彼女の意識は鮮明になっていた。


 頭をもたげると、小さくて淡い色の花と、それからひとりの少女の姿が目に留まった。


 一瞬遅れて、彼女が、ゴミにまみれていることに気づいた。丸く向かれたリンゴの皮が、黒髪に混じって頭から垂れ下がっていた。八つ切りにされたオレンジの一片が肩の上に乗っているのが、耳飾りのようでもあった。だらりと伸ばした手足にも、同じように果実の皮や絞りかす、コーヒー豆の粉末がまとわりついていた。

 淡い花は、彼女のシャツの隙間、引きちぎられたボタン穴から伸びているみたいに見えた。だから最初、雪衣は、それもゴミのひとつで、たぶん造花なのだと思いこんだ。

 けれど、それにしては、花はきれいすぎて、瑞々しすぎて、まるで少女の肌から芽吹いているみたいにしか見えなかった。

 得体の知れない彼女に、関わるべきではない。ふだんのすっきりして無駄のない思考を取り戻しつつあった雪衣は、その内なる規律と常識的判断に基づいて、結論を下した。だからその場で雪衣のすべき行動が、身を翻して薄汚れた裏道をあとにすることだと、自覚していた。


「……ねえ」


 なのに雪衣は、声をかけていた。少女の長いまつげが、このころはまだ染めていなかった純粋な黒髪が、病的に細い四肢と、襟元からぞっとするほど浮き出た鎖骨が、雪衣の心を引きつけてやまなかった。

 それに、この場に漂う甘い香りを、もうすこし堪能していたかった。


「ねえ、生きてるの?」


 もう一度声をかけると、少女は目を開けた。薄い色の瞳が雪衣のほうにきょろりと動いて、止まる。

 射竦められて、つかのま、雪衣は何も言えなかった。


「……こんにちは」


 かろうじてあいさつできたのは、彼女の内なるルールのおかげだった。『初めて会う人にも、知り合いにも、ちゃんとあいさつする』たまに鬱陶しがられることがあっても、人に顔を覚えてもらうことで得をする場合が圧倒的に多い。女の子にあいさつされて、いやな気になる人間はすくない。父に教わった、数少ないまともなアドバイスのひとつだ。

 少女は、どうやら希少なケースのようだった。雪衣のあいさつに、至極不愉快そうに顔をゆがめた。


「誰?」


 こんな表情を、自分より小さい子ができるものなのか。

 雪衣は内心、戦慄した。彼女も、善良さと誠実さの世界に生きてきたわけではない。小学生、あるいはそれ以下の子どもでも、嫉妬と悪意によって他人を追い落として笑い、すぐれた存在を敵視し、弱いものを蔑視することなんて珍しくもない。

 少女が浮かべたものはどれでもなくて、だから雪衣はそれを表現する言葉が分からなかった。それが、人に虐げられ、この世に助けなどなく、自分がここにいる意味を幼くして見失った人間の顔であることを知るのはもうすこし先、雪衣が少女のことをもうすこし深く知ってからのことだ。

 雪衣は二の句を継げなかった。相手の心がわからなければ、しかるべき言葉は見つけられない。

 唖然とする雪衣に興味を失ったのか、少女はふたたび目を閉じかけた。うつむく彼女の胸元で、あの薄い色の花びらが、翼のように揺れた。


「その花。何? あなたの胸で、咲いてるの?」


 雪衣の発した問いが、少女の顔を上向かせる。路地の狭苦しい空の色が、一瞬だけ少女の瞳に跳ね返ったみたいだった。


「あんたこそ」

「え?」


 言われて、ようやく、雪衣は自分の体を見下ろした。

 上の方までスカートがはだけ、肉付きのよい太ももがあらわになっていた。そして、その足にからみつくようにして、何本もの細長い蔦が伸びていた。


 雪衣はぞっとして、自分のスカートをたくし上げようと手をその奥に突っ込む。一瞬の後、少女の視線に気づいて我に返った彼女は、おそるおそる、見えないスカートの内側を手触りで確かめていく。蔦は膝のあたりから太もも、そして鼠蹊部からそのさらに上、へそのあたりまで達して、そこから伸びているようだった。

 継ぎ目はない。蔦は疑いようもなく、皮膚と直結して、雪衣の体から生えているのだった。

 総毛立つ。彼女のおびえに反応するように蔦が波打ち、思わず雪衣は手を離してしまう。その拍子に、暴れる蔦に両足をむち打たれ、「ひ」と悲鳴を上げて雪衣はしゃがみ込んでしまった。その足の下で、太ももの上で、蔦はいつまでもうごめき続けている。


「何、何、これ?」

「この世のものじゃない、”花”」


 少女の声に、雪衣は冷や水を浴びせられたみたいに身動きを止めた。


「”花”……?」

「これから、もっとたくさんの子に”花”が宿る。おにいちゃんは、そう言ってた」

「おにいちゃん?」


 それは誰なのか、どういう理由でそんなことを言ったのか、雪衣はそれを知りたかった。だけど、少女の口から返ってきた言葉は、


「もう死んだ」


 たったひとことだった。だから雪衣は何も訊けなくなって、スカートの裾をぎゅっと押さえつけながら、座り込んでいるほかなかった。蛇のように、蔦が彼女の手をふりほどこうとするように暴れていた。そうしている限り、立ち上がったり、歩いたりなんてできそうになかった。

 路上に沈黙が流れる。青いポリバケツの上、わずかに開いた裏窓から、何かの有線放送の音楽がうっすら聞こえてくる。散らばった果物のかすのにおいは、うっすらと腐敗の甘みを加えて、雪衣は吐き気を催す。朝から感じていたひどい不快感がぶり返してきそうで、おそらく、それもこの”花”とかの仕業なのだろうと思った。

 考えて、自分の身に降りかかった出来事の理不尽さに、暗い思いが募る。これと一生、つきあっていかなくてはならないのなら、彼女の人生はきっとおしまいだ。ため息をついて、うつむいた。


 そのとき、ほんのりと、ほっとする香りが流れてきたように思った。甘くも鋭くもなく、とても自然で、それなのにしっくりと体になじんでくるような、すがすがしい香り。

 振り返ると、少女がすこし、こちらに身を寄せているのだった。近づくと、彼女の体はやせ細ってひどく冷たく、二の腕なんか服の上から片手でつかんでしまえそうに思えた。けれど、触れることさえ憚られたのは、そのちぎれたボタンの奥からのぞく、あばら骨の浮いた肌に、みにくい青あざが浮かんでいたからだった。

 彼女が何を思っていたのか、雪衣はずっと知らない。


「……その”花”のにおい」


 ただ、雪衣は、おずおずと訊いただけだ。


「かがせてもらってもいい?」


 かすかに上目遣いになった少女は、うなずいた。雪衣は薄く笑って、そっと、彼女の胸元に顔を近づけた。”花”の香りはやさしく、彼女の体の奥に、肺を通じて全身に行き渡っていくみたいだった。気持ちが落ち着くとともに、足の間で這い回っていた蔦が、手なずけられた獣みたいに動きを和らげていった。

 鼻の奥まで、頭の芯の芯まで、そのにおいが鎮めてくれるみたいだった。


 少女は、金刺理楽と名乗った。その午後、ふたりはしばらくそこにいっしょにいて、ほんのすこしだけ話した。理楽は携帯を持っていなくて、アドレスは雪衣が一方的に渡しただけだった。彼女が、手嶋智愛から借りた携帯のアドレスを雪衣に教えてくれるのは、もうすこしあとの話だ。

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