いつまでも鎮まらない火災と、あちこちで起きる発砲事件の余波もあって、街は異質な喧噪にあふれている。炎に見入られたように道の真ん中に突っ立っている男、怯えた目つきで路地裏に座り込む女性、彼女の背後の行き止まりでは黄色い”花”が咲き誇る。

 雪衣は地図を頭に思い浮かべながら、中華料理屋のある角で道を曲がって、やけにぬるりとした路地を通り抜けようとする。その奥で、腰の曲がった白髪の女性が青いゴミバケツのそばにしゃがみ込んでいるのが目に入った。彼女はうつろな目をして、白くけぶる夜空を見上げている。

 無言で雪衣たちは、老女の脇を通り抜けようとした。

 ふたりとすれ違った瞬間、老女が目を見開く。


「ぬうううううおあああああああ!」


 前触れのない絶叫に、雪衣は思わず身をすくめる。「ああああああああ!」叫喚し続ける老女の目は、ひしと雪衣たちをとらえて離さない。いっそあどけないとすら言える透明な視線は、彼女らを告発するかのようでもある。


 老女の声に答えるように、雑居ビルの窓から、店の裏口から、路地の角から人々が顔を出す。男女も年齢も身なりもばらばらの人々が、戸惑う雪衣と理楽を取り囲む。彼らの顔に一様に浮かぶ表情は、敵意だった。

 白く平たい何かが、真っ暗な空気を裂いて、理楽の頭に直撃した。

 道に落ちて、大小さまざまの破片があたりに散らばる。それは、中華料理屋の大皿だ。投げつけたのは、裏口から顔を出している若い店員の男だった。

 それをきっかけに、一斉に、罵声と物が雪衣たちに投げつけられた。狭苦しい路地に反響する声は、混ざり合って聞き取れなくて、ただ敵意だけが鮮明に伝わってくる。石つぶてが、食器が、ゴミ袋が、のべつまくなし雪衣たちを襲う。


 雪衣は、身も世もなく駆けだした。呆然としていた理楽の背中を押し、路地の奥へと一目散に逃げる。道を塞いでいた痩せっぽちの男を突き飛ばし、その上を飛び越えて走る。

 何が起きているのか。雪衣はパニックに陥ったまま、とにかく足を動かし続ける。ここにいては危険だ、命さえ危うい。頭の中の警告が、消防車のサイレンと入り交じって鳴り響く。

 かたわらにいる理楽は、ずっとどこかうつろな顔をしている。雪衣と並んで走るのは、体力のない彼女には酷なはずなのに、ふしぎなほど疲れたそぶりを見せない。そのことが、よけいに雪衣を不安にさせる。

 悪意の嵐を逃れて、雪衣は走る。



 ばしゃん、と水たまりを踏んだ。雨、と思ったが、空は薄曇りのまま降雨の気配はない。雪衣はいぶかしみつつ、荒い息を吐きながら足をゆるめた。足許を浸す水の出所を探るように、あたりを見回す。

 地元最大の暴力組織の本部に近い、佐治野の中心部。割れた窓、グラフィティまみれのシャッター、そして唐突に出現する異様に真新しい門構え。暴力と無風とのモザイク模様が、地を浸す黒い水に一様に浸されている。

 鉄柱に支えられた黒塗りの門の隙間から、細く小さな植物が顔を出している。二枚の小さな丸い葉をつけたそれは、ぴくぴくと風に揺れるように動いて、そのたびに錆もない蝶番がかすかにきしむ。門扉はほんの数ミリほどだけ開閉を繰り返しているが、わずかな間隙の向こうの様子はうかがえない。

 石塀に蔦が食い込んで、そこかしこにひび割れが生じていた。その下には、すでに細い根に覆い尽くされた、人の体のなごりだけが残されている。絡み合った細い蔓のすきまから細い右腕がこぼれ出て、指先が下水道の底の泥に浸かって、白いままの指の付け根だけが汚れの奥に光っていた。合成しそこねた写真のような、奇怪な情景だった。


 秩序を欠いた世界は、かえって、耳の痛むような静寂に支配される。略奪され尽くした都市のように。あるいは、黒死病に襲われた十三世紀のミラノのように。

 その静謐を割くのは、雪衣と理楽の湿った足取りだった。長靴姿で遊ぶ子どものような足音は、場違いにかわいらしく、暗い夜にちぐはぐな彩りを添えるようだった。


 水の正体は、ほどなく明らかになった。

 道の端に建つ街灯が、五つに分裂して輝いていた。ひとつは元からあった電灯、そして残りの四つは下向きの水仙のような”花”だ。その”花”の根を辿っていくと、下水の溝に食い込んで地下に潜っていく。

 水が噴き出しているのは、そのすぐそばのマンホールだった。おそらく”花”の根が水道を破断させたのだろう。

 立ち尽くした雪衣と理楽は、吹き上がる水をぼんやりと見上げている。五つの光がしぶきを照らして、きらきらと夜の中にうっすら虹を浮かび上がらせていた。それはまるで、祝いの花火のようだった。

 この朽ちた街で、それらはずっと、破綻の瞬間を待っていたのかもしれない。


「……オリちゃん?」


 理楽が、ぽつりとつぶやいた。雪衣はその名前に心当たりがある。


「――乃木原織子?」

「かも、ってだけ。あの子と同じ”花”だから」


 言って、理楽は口を閉ざした。額の傷はなかばまで癒えて、金色の髪に縁取られた面差しは、夜陰の中で凍りついているように見えた。感情を押し殺しているのか、それとも、この異様な夜が感性を奪い去ってしまったのか。

 ふらり、と、歩み出したのは雪衣のほうだった。冷え切った足先が水を踏む。街灯のすぐそばまで近づいた雪衣は、頭にしぶきを浴びながら、その根元をのぞき込んだ。

 根の隙間から、死体の一部分だけがのぞいていた。ニーハイに走る縦の裂け目から、白いふくらはぎが露わになっている。靴の脱げたつま先に向かって、血の痕が一筋だけ伸びていた。

 顔も体も、死んだ少女の身元を明確に指し示す部位は、広がる根に覆い隠され、雪衣からは見えなかった。

 水は祝福か何かのように雪衣のもとに降り注ぐ。額と前髪に水滴の冷たさを感じ、それをスイッチにしたように、雪衣はしゃがみこむ。


「……何なのよ、いったい」


 死体に向き合いながら、雪衣は問う。


「あんなふうに罵られて、石を投げられて、あげくに殺されて。いったいわたしたちが何したっていうの」


 彼女の脳裏には、駅前で雪衣たちを狙った男――いや、子どもと言ったほうがよさそうなあどけない顔立ちが思い出される。路地裏で彼女を襲った、住民たちの理不尽な暴力に、身震いする。銃口の無機質な恐ろしさと、投石の生々しさがいっしょくたになって、雪衣を押しつぶそうとしているように思えた。


「殺されなきゃいけないほど憎まれる理由なんて、わたしたちにはないのに」

「仕方ないよ」


 理楽の声に振り返った。彼女は、むやみと幅の広い道路の中央で、こちらを見下ろしている。したたる水の底から、かすれた白線がゆらゆらと浮き上がって見える。その上に立つ理楽は、まるで無人島に取り残された漂流者のようだった。

 ふと理楽は膝を曲げて、すぐそばに流れ着いた黒い塊を手に取る。それはどうやら、死んだ少女の足から脱げたローファーであるようだった。


「オリちゃんのだ」


 こぼした理楽のひとことは、水底に澱のように沈んだ。


「あの子は、人を殺すのをためらわなかった。だから殺された」

「そんなの」


 目には目を、なんて、古くて単純すぎる法だ。現実にはもっと複雑な規則が絡み合って、そうしてようやく社会の秩序が成り立つ。その煩雑さを切り捨てるのは、言うなら、人間の敗北だ。

 そう思ってなお、雪衣は理楽にうまく言い返せない。

 理楽は首を振った。


「あの人たちにとって、あーしたちは敵になった。理屈でどうこうできやしない」

「だって……」


 雪衣は、わずかに顔を上げて理楽を見たまま、動けない。目尻に血でもたまっているみたいに熱がこもって、理楽の姿がひどくまぶしく思えた。

 このまま、彼女は消えてしまうのではないか。それとも、いまこの街を席巻している”花”のように、違うものになってしまうのではないか。


「理楽、どうしたの。今日のあなた、なんだか」


 らしくない。そう言おうとして、雪衣は、自分にそんな言葉をかける資格はないのだと思う。彼女の何を、自分は知っていただろう。深入りせずに距離を置き、気まぐれの優しさだけを触れさせて、つかのまの言葉ばかりを楽しんで、それで慈しんでいるつもりでいて。

 内なる規律を盾にして、近づくことから避けていただけだった。

 理楽が急に遠くなったのじゃなくて、最初から、理楽は雪衣のそばになんていなかった。

 彼女の笑んだ無表情は、ずっと人を拒み続けている。


「今夜は、みんなおかしいんだよ。ユキちゃんも、ソフィちゃんも、あーしも。誰も彼も」

「自分で言ったら、説得力ないよ」

「……そうかな」


 茶化したような雪衣の言葉に、理楽はわずかに首を振るだけだった。彼女の髪が、手足が、大きく左右に揺らいで、頼りない白線からいまにも滑り落ちてしまいそうに見えた。

 そんな彼女を抱き留めようとするみたいに、雪衣は口を開いた。


「行こ、理楽」


 たとえ心が遠くても、せめて身ひとつだけでも、理楽をそばに置きたかった。

 理楽はうなずく。ぐらついていた彼女の像が、幾ばくかくっきりとしたふうに、雪衣には見えた。


 近づいてくる理楽の足取りは、まるで白線をゆっくりとなぞってくるようだった。彼女の足許から、弱い波紋が立って、道路脇の塀まで静かに広がっていく。雪衣の足首を、波がもてあそんだ。

 雪衣は彼女のかたわらに寄り添って、歩調を合わせる。理楽と同じ速さで歩くことは、もうすっかり、苦にならなかった。


 羽虫の群を思わせる、かすかな低音のうなりが聞こえてくる。ただの風の音とも、狂気に駆られた暴徒の雄叫びともつかない。ただひどく不吉な出来事を予感させる気配が、音色に乗って街をあまねく染め上げていくかのようだった。

 理楽が、白い息を吐いた。水に体温を吸われたみたいに、彼女はいっそう、凍えそうに見えた。


「……チョコ食べる?」


 突拍子もない言葉に、雪衣はとっさに言葉を返せず、その代わりに吐息だけでちいさく笑う。すこしだけ考えて、


「ちょうだい」


 理楽がうなずくと、魔法みたいに一粒のチョコレートの包みが掌中に現れた。あれほどの荒事と暴走のあとで、彼女がどこにそれを保存していたのか不思議に思われるけれど、ささやかな疑問なんてどうでもよくなる。

 きっと理楽と雪衣の距離は、ほんとうは、いまこうして手をつなげるほどには縮まっていないのだ。この包み紙に残るかすかな体温ほどのつながりが、ふたりの間にあるもののすべてだ。はかないけれど、優しい。

 雪衣は包みをほどいて、口に入れた。量販店で一袋いくらで売っているような安物だが、甘みがなんだかやけに染みた。


「ありがと」と微笑んで、雪衣はふと、理楽の右手がチョコを差し出した姿勢のままなのに気づく。

 自然と、その手を取った。冷たい手のひらが、ふたつ重なる。理楽が、うれしそうに目を細めた。


「……何?」


 視線がこそばゆくて、雪衣は問う。理楽は微笑んだまま言った。


「久しぶりかな、って。こういうの」

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