5
おもむろに聞こえた甲高い叫び。皆が一斉に振り返る。
彼女たちの右手、小さな文具屋のガラス扉の前に、小柄な少年が仁王立ちしていた。雪衣たちと同い年くらいの、どこか幼さを感じさせる風貌。しかし、あどけない顔には、抑えられない狂乱が渦巻いていて、むき出した前歯がいやに鋭く光る。
彼は、両手で銃を胸の前に構えた。
即座に反応したのは、ソフィアだった。彼女は男を視線で威圧しながら、同時に”花”を繰り出した。ソフィアのつま先から伸びた太い蔓草が、男の下半身をあっという間にからめ取る。
しかし、男の指の動きが早い。
「バケモンがあああああ!」
叫びと同時、男は引き金を引く。
飛び退こうとしたソフィアの肩から、血がはじけた。
「ソフィちゃん!」
理楽が駆けより、もんどり打ったソフィアの体を抱き留める。男はさらに銃を乱射するが、銃弾は見当違いのほうに飛んで行くばかり。慣れない銃器の威力を持て余しているのは一目瞭然だった。
しかし、それでもソフィアを傷つけた。
雪衣の意識が、一瞬赤く染まる。動脈から血が噴き出すように、右腕から”花”が繰り出され、男の両手を横殴りに打ち付ける。ぎゃっ、と喚いた男の手から銃が落ち、足下にざわめいていた草の奥へと落下した。
「てめこら何撃ってきてやがんだぶっ殺すぞ!」
向日葵と夢穂が各々”花”で男をうちのめす。悪態をついていた男だったが、数度の打撃を受け、あげくに向日葵に足を踏みつけられて抵抗力を失った。雪衣はソフィアに駆けよる。
「ソフィア! 大丈夫?」
「このくらい平気です。私だって”花宿り”ですからね」
ソフィアは毅然と笑うが、ショールとセーターを引きちぎった銃弾は、彼女の右肩の肉をえぐり取っていた。黒い断面から流れる血が、袖をみるみる染めていく。理楽がためらわず、買ったばかりの服の袖を前歯と右手で引きちぎり、即席の包帯にしてソフィアの肩に巻き付けた。
「そんなこと、しなくても」
「いいから。ちょっとじっとしてた方がいいよ」
理楽はソフィアを穏やかに制する。そんな理楽を見るソフィアの目つきは、銃で撃たれた傷よりよほど苦痛を感じているようだった。
「理楽こそ大丈夫? 冷えない?」
「へーきだって。寒いのは、慣れてる」
むき出しの二の腕は、青ざめて静脈が浮き出ている。脂肪はおろか筋肉すら、寄る辺ない暮らしの中でいつしかそぎ落としてしまったかのようだった。ぐい、と、布をきつく結んで傷口を押さえようとしているのに、結び目がすぐにゆるんでずれてしまう。
見かねて、雪衣は「貸して」と理楽から布をもぎ取り、ソフィアの肩をきつく縛る。「もっと優しくしてくださいよ」と不平を漏らすソフィアは、しかしさほど厭がってはいない。
「おいおい手嶋生きてっか? 歩ける? 道案内できる?」
襲ってきた男の右手を踏みにじりながら、向日葵が大声で問いかけてくる。
「動けないならさ、めんどくさいから二手に分かれよ。うちらは道教えてくれりゃアズんとこ行くし、そっちにもサリーさん家教えっから」
「……そのつもりなら、最初からそう言えば」
肩を押さえて立ち上がったソフィアは、向日葵を見据えてうめく。「そりゃこっちの台詞だっつの」と肩をすくめる向日葵のそばから、夢穂が付け足してくる。
「固まってたほうが安心かと思ってたけど、そうも言ってられなくなったし。急がないと」
「……そうですね」
ソフィアはうなずく。雪衣も夢穂の見解に同意だったし、ソフィアの判断を否定する気もない。理楽は黙ってことの成り行きを見守るだけ。
「じゃ決まりだ」
向日葵がソフィアに近づき、スマホから地図を呼び出し、ちょんと地図上にマークを記して見せた。
「コピっとく?」
「いえ、覚えました」
ソフィアの平然たる応えに、向日葵はどこかあきれたように「ほーん」とうなずく。それから、今度はソフィアがその地図をスクロールして、一点にタッチする。向日葵は地図を確かめて「何だ高架の向こうじゃん。わざわざこっち来た意味なかったな」と渋い顔でひとりごち、
「したらうちとユメは行かしてもらうよ。せいぜい生きて帰りな」
「そちらこそ」
向日葵とソフィアは捨てぜりふを交わしあう。そのそばに歩み寄ってきた夢穂は、雪衣の向かいに立って、
「気をつけて」
「……そっちも」
そうして、向日葵と夢穂は連れだって歩き去っていく。その後ろ姿は路地の奥の夜にかき消えて、雪衣たち三人だけが広場の片隅に取り残される。サイレンはいつしかやんでいたが、駅ビルのほうを見やれば、炎は広がりこそすれ静まる気配はなく、この街を焼け野原にするまで暴れ続けるのではないか、とさえ思われる。
「同情でも感じているんですか」
痛む肩を下げた前かがみの姿勢から、ソフィアが雪衣を上目遣いに見る。
「彼女たちが助けに行くのは、理楽さんを襲撃した連中のひとりですよ」
「ソフィちゃん、いまそんなこと」
「彼女たちは」ソフィアは理楽に口を挟ませず、雪衣ににじり寄るようにして、
「盗みも暴行も辞さない、川又鎖理の一味です。雪衣さんには彼女たちが、私たちと同じに見えました?」
決然としたソフィアの難詰は、雪衣の耳と胸に、針で刺したような痛みを残す。自分の心根の、奥深い弱い部分を突き刺された、と感じたのは確かだった。
雪衣の内なる規律に照らせば、あのふたりに心を許すべきではなかった。法を破り、人を傷つけ、他人を食い物にすることを何とも思わないものたちは、雪衣にとって敵ですらある。
けれど、いまの自分はそこまでの厳格さを保つことができていない。同じ学校の生徒というだけで、夢穂にほのかな親近感を抱き、彼女たちの言動を受け入れつつあった。
己の緩みを、恥じるべきか、認めるべきか。
突っ立ったままの雪衣の足下で、誰かの”花”の成れの果てである草葉がそよいでいる。細長い葉は、先ほどまではスニーカーの丈より低く思えたのに、いまは雪衣のソックスをかすかになでるほどだ。
雪衣は、口を開いた。
「なら、ソフィアだって、最初から協力しなければよかったでしょう。嘘の目的地を教えて追い払って、それで充分だったじゃない」
「……」
「それとも、さっき市来さんたちに教えたのは嘘?」
ソフィアは首を横に振って、きつく眉をひそめた刺々しい目で雪衣をにらむ。
「いくら憎らしい相手でも取引ぐらいしますよ。雪衣さんの目的のためですからね。別に連中が返り討ちにあったってかまわないんですし」
「それはどうも」
恩着せがましい憎まれ口は、たぶん、ソフィアの本音だろう。彼女に韜晦は似合わない。
逆に、雪衣がソフィアの口振りに感じたのは、彼女自身を追い込むための気概だった。そうしていないと、ふだん通りの自分を保てないほど、ソフィアも弱っているのかもしれなかった。
ソフィアの肩を覆う布は、彼女の血で真っ赤になっている。”花宿り”の身とはいえ、深い銃創がそうやすやすと治るものでもなさそうだった。
「ソフィア、場所教えて」
雪衣は言いながら、スマホ上に地図を表示した。ソフィアは素直にうなずいて、動く右手で地図をスクロールする。今夜のこの状況では、誰の身に何が起きるか知れたものではない。準備は万全にしておく必要があった。
駅ビル周辺からも、線路沿いからも、風のうなるような音が雪衣たちに覆いかぶさってくる。人の声と、熱せられた大気と、海から来る冷えた空気がぶつかりあう。雪衣はその響きに誘われるように顔を上げる。
ぽつん、と、理楽が立ちつくしている。
さっき破った左の袖の端を、彼女は右手で柔らかく押さえている。彼女が負傷などしていないのは、雪衣も確かめた。けれど、そうして腕を覆う仕草を見せられると、何かそこに手ひどい傷でも負っているかのように思えて、雪衣は、理楽から目を離せなくなる。
そうでなくとも、沈黙する理楽のたたずまいは、やけに稀薄な気配しか持たない。もともとほほえんでいるような作りの彼女の面差しは、いつ、それだけ空中に残して消えてしまうかもしれなかった。
「理楽?」
「どうしたのユキちゃん」
首をかしげる理楽が、ようやくこの世に戻ってきたみたいに思えた。肩先で、金髪の束が、樋からしたたる雨水のように細い首に落ちる。雪衣はソフィアからスマホを受け取り、ポケットにしまう。
「何を見てたの、理楽?」
「ん」
ふたたび理楽の目は、駅ビルから南に広がる景色に向けられる。寂れた区画と荒れた区画ばかりの小釘の街にあって、清潔に整備されたその区画だけは、陽射しのようにささやかな希望をため込んで光る、安らぎを感じさせる地区だった。
けれど、その整然とした街区が、”花”に侵されつつある。歩道とビルの隙間を縫うように、細長いツタが繁っていくのが、炎に染まる大気に揺らいで見えた。
「どうして、こんなに”花宿り”が死ぬのかな、って」
業火に向けて問うように、理楽は口にした。
「だって”花宿り”って強いでしょ。なのに、こうもかんたんに殺されて”花”になって……さっきもさ、どうしてあんな子が銃を持ってんの? いくらなんでも」
雪衣はちらりと、先ほどソフィアを襲った少年を一瞥する。向日葵たちに叩きのめされた彼は、自分の服で手足と顔をぐるぐる巻きにされて倒れていた。それでも、殺意を持って銃を向けた相手への措置としては妥当だ。
「元はといえば佐風会の内部抗争のせいです。そのため、小釘にかなりの量の銃が密輸されて」
ソフィアが疑問に答えた。
「その一部は”花宿り”……おそらくサリーの一派に強奪され、そのまま市中に拡散したようです。ばらまかれた暴力が、そのまま”花宿り”に牙をむいた」
「”花宿り”だけが狙われているの? 元々の敵じゃなくて?」
「それは分かりません。ただ、サリーたちの活動のせいで”花宿り”は目の敵にされていましたし……」
ソフィアの歯切れは悪い。肩口から流れ続ける血のせいで、明晰な彼女の頭も回転が鈍っているのかも知れなかった。「でも」と、何か納得しがたいものを感じて雪衣が口を開いたとき、
「みーっつっけったーっ!!」
聞き覚えのある、大音声があたりにこだました。ソフィアと理楽が、そろって、忌々しげに顔をゆがめた。
道路をふさいでいた蔓草を引きちぎって、荒い息をつきながら高架をくぐり抜け、ひとりの少女が姿を現す。その長身にも、両腕にまとった紫の”アザミ”にも、顔全体をひしゃげさせたような笑みにも、覚えがあった。ただ、胸や、首や、耳たぶにこびりついた出血は、その容姿をいっそう獣じみて見せている。
小瀬村はものは、三人を見据えて、ひときわ深い息を吐き出した。
「なー、もー、何なのその厭そうな顔はさー。せーっかく邪魔者追っ払って、やっとのことで来てあげたのにー」
「……五十嵐は? いっしょじゃないんですか?」
顔をしかめながら、ソフィアは立ち上がってはものと相対した。ぶう、と、すねたように頬を膨らせ、はものは、
「それが大変だったんだよねー。必死こいてあの部屋抜け出して、そっからあんたたち追っかけるつもりだったんだけど、なんかもめてさ。頭いかれちゃったみたいに殺せ殺せ言う奴はいるし、生かしとかなきゃ困るって奴はいるし。あたしはもう一戦できりゃ満足だったんだけど」
左手で耳元を押さえたはものの顔から、表情が抜け落ちた。退屈だった授業のことを思い出すみたいな、たいして親しくもないクラスメイトの誕生パーティのさなかみたいな。
「なんか、あたしのことまで目の敵にしてくるから、めんどくさくて」
はものは、右手を胸の前でひと振りした。”アザミ”の細い花弁とトゲが、空中に紫色の弧を描く。
それだけで、彼女のしたことの大略はわかってしまった。
「撃たれたら、やり返すしかないよねー?」
「……雪衣さん」
ソフィアが、前に進み出る。彼女の右肩から、血に塗れた布がはらりと滑り落ちて、草に覆われたタイルの上に音もなく広がった。
「こいつは、私が食い止めます。あなたたちは先に行って」
「ソフィア……!?」
彼女を止めようと手を伸ばした雪衣は、ぎくりと動きを止める。
ソフィアの肩、肉をえぐった傷口から、緑色の小さな塊がむくむくと、まるで沸騰する泡のように這いだしてきていたのだった。
薄緑の、涙滴のような形をして、彼女の肉の代わりをしようとでも言うように盛り上がってくるそれは、雪衣の目には、何かの新芽のようにしか見えなかった。
「ソフィア、それは」
「いいから! 早く!」
どん、と、こちらを見もせずにソフィアは雪衣を突き飛ばした。彼女の”鉄条蔦”だ。スカートの下からずるずると伸びるそれは、ソフィアの周囲一帯をまたたくまに覆い尽くして、雪衣さえ拒絶する。
”楽苑”を守り続けてきた”鉄条蔦”の強度は、彼女もよく知っている。けれど、ソフィアらしからぬ憤りに満ちた呼吸と、彼女の皮膚を蝕むような見慣れぬ芽、そして緑色に染まる彼女の瞳は、雪衣をつかのま躊躇わせる。
硬直していた雪衣の身に、何かが迫る。
振り向くまもなく、理楽が雪衣の手をつかんでいた。
「行こ」
「でも、ソフィア!」
たたらを踏んで走り出しつつ、未練がましくソフィアの方を見やりながら、しかし、雪衣にも分かっていた。ソフィアのいま立ち向かっているものは、きっと雪衣の背負うそれと同型のもので、だからこそ、雪衣にはソフィアを助けることも止めることもできない。
雪衣を急かすものは、何よりも彼女自身の理由だ。サリーを、そしてそこにいるであろう父を見つけること。このとち狂った夜を正常に戻すのに、雪衣にできることはせいぜいそれだけだ。
首を左右に振って、心残りを捨てた。ひどく柔らかな草花の敷き詰められたタイルを踏んで、雪衣は駆けだしていく。はものの狂った笑い声が、一瞬、いやに遠く聞こえた。
前を走っていた理楽が振り向き、
「で、どこに行けばいい?」
雪衣はさっきの地図を覚えている。駅の東側、雑然とした繁華街のど真ん中に駆け込むように、足を早める。
「佐治野の中心、手嶋の本社の目と鼻の先」
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