向日葵が夢穂の演技をひとしきりからかい、非常車両に乗るのは何であれテンションが上がる、という夢穂の見解に皆が同意し、そして雑談の声がふっと途切れた。

 救急車はサイレンを道路中に響かせながら、小柄な乗用車をごぼう抜きにしていく。ヘッドライトの光が路上に捨てられたように流れ去っていくのを、雪衣は横目で見送る。速度計は見えないけれど、救急車の速度は、何か常識はずれの域に達しているように感じられた。中学校の遠足で、雨中の高速道路をバスが突っ走っていたときのような、範を越えることへの不安が雪衣の胸をよぎる。

 運転手は「くそっ、くそっ、どうなってやがんだ、今夜は、おかしい」と、低い声でうなり続けている。


「ね、何がおかしいん?」


 寸時の沈黙にも耐えかねたみたいに、助手席に座をしめた向日葵が男に語りかける。運転中の男は真正面を向いたまま、それでも向日葵の問いに答えるような言葉を絞り出す。


「あちこちで、事故だ事件だ、って、かり出されっぱなしだ。しかも、誰も彼も、わけわかんねえことばっか言いやがって。何なんだよ、俺らばっか。くそ、いつもいつも」

「ふーん」


 次第に要領を得なくなっていく男の言葉に、向日葵はあっさり興味を失い「なんか大変っぽい」と粗雑にまとめた。


「にしても、事件が多いのは確かみたいね。あの駅の火事だけじゃないわけか」


 雪衣は正面、国道からの風景を一望する。先ほどから収まる気配もない駅前の火災は、もう目と鼻の先だ。駅ビルの上階、塾の看板も、炎と緊急車両の放つ赤色の輝きにあわく染められている。底抜けの希望を込めた青空の輝きが、じわじわと侵されているみたいだった。


「うわ、何これ」


 ドアにもたれてスマホをいじっていた夢穂が、はじかれるように立ち上がり、転げるようにして助手席の後ろに手を差し出す。


「ちょっとこれ見てよヒマ。これ、レニとおんなじじゃね?」


 彼女が掲げたスマホの画面を、向日葵と一緒に雪衣やソフィアものぞき込む。

 そこに映っていたのは、曲がりくねった路地を埋め尽くすように伸びる、大木だった。アスファルトを突き抜け深く地面に根を張り、狭苦しい雑居ビルの窓を枝が貫いて、窮屈そうに天へと伸びていこうとしている。それはまるで、顛足された中国の女の子の足のように、いびつな奇形だった。当然、一朝一夕でできあがるようなものではない。


「これは」ソフィアすら、息をのむ。「……まるで音々さんでは」

「あんたも知ってんの?」


 向日葵がシートから身を乗り出してソフィアに顔を近づける。いまにも転げ落ちそうな彼女の様子に顔をしかめつつ、ソフィアは、彼女のマンションでの顛末をかいつまんで語った。雪衣も大まかには聞いていたが、部屋から伸びる巨大な樹のことは初耳だった。あるいは、目撃者であるソフィアも理楽も、自分の見たものを信じていなかったのかもしれない。


 返礼のように向日葵も、彼女たちの見た出来事を語った。礼仁れにという彼女たちの仲間、彼女たちを襲撃した男たち、そして礼仁の変貌。

 ふたたび一同が押し黙る。いっそう重苦しい、と言うより、据わりの悪い沈黙。できることなら今すぐ、何か関係のない戯言でぶち壊してしまいたいのに、それがひどく憚られることのようで、何も言えずにいる。

 目をそらし続けていたことどもに、向き合わなくてはいけないときの後ろめたさを、雪衣は感じる。

 運転席の男の、もはや頭を毒されたかのような低い声だけが、陰鬱に車内を満たしていた。


「……”花”のせいだよね」


 押し出されたような理楽のひとことに、みながかすかに、息を呑んだ。


「きっと、”花宿り”が死ぬと、こうなるんだよ。”花”が体から芽を出して、体を食い破って」


 雪衣は、ごくり、と、唾を呑む音を聞いた。それが自分自身のものだと、一瞬気づかなかった。のどの奥に、重たいビー玉に似た感覚が落ちていくように思えた。

 背もたれの上から差し出された、向日葵のスマホの画面が見える。LINEの画面がまたたくまにスクロールしていき、スタンプや会話の合間合間に、町中を映した画像や動画が流れる。銃を持った男たちや、それに正面切って立ち向かう少女、そして、道の真ん中にぶしつけに生える巨木。似たような映像が、街のあちこちからいっぺんにネット上に集積して、滝となってタイムラインを押し流している。


「ね、」


 雪衣は、無意識に口を開いていた。冷えた両手を暖めるように指をもみ合わせていた夢穂に目をやり、


「サリーの居場所ってどこなの?」

「突然何?」

「街がこの有様なら、急がないと、巻き込まれるかもしれないじゃない。あなたの友達だってそうよ」

「それは、」


 と、夢穂が向日葵に視線を送ったとき。


「おわっ!?」


 運転席の男の間抜けな悲鳴と同時に、耳をつんざくスリップ音。急ハンドルで車体が回り、皆が一斉に倒れ込む。雪衣はシートの後部に頭をぶつけた。誰かの悲鳴。

 鈍い衝撃が、車体を揺さぶる。

 何、と声を上げかけた雪衣は、車体の真横に迫った黒い影にぎょっとする。

 太い柱が車体の側面を覆い尽くしているのだった。一瞬遅れて、そこが高架線の真下であることに気づく。横滑りした救急車が、分離帯の真ん中の柱に突っ込んだのだ。


「ちょっと……」


 抗議しようとした雪衣は、フロントガラスからのぞいた光景に声を呑んだ。


 道の真ん中に、まるで垂れ幕のように、見たこともない植物が何本も生えて、行く手を遮っているのだった。どうやらそれは、高架の上から下へと自らの身を伸ばし、まるで餌を狙う肉食動物のように枝葉を蠢かせている。道路脇、駅の改札とショップに通じるガラス扉にまで、その手は及んでいた。


「こんな所にまで」


 ソフィアの声は、気丈に振る舞おうとしていたものの、かすかに震えていた。


「これじゃ車通れなくね? 降りてくしかねっか」


 言い切った向日葵は、すでにドアを開けて外に出ている。


「理楽、平気?」

「ああ、うん」


 窓枠に頭をぶつけてうずくまっていた理楽を助け起こし、雪衣も外に出る。

 とたん、まるで植物園のような、緑のにおいが暴力的に彼女の鼻に襲いかかってきて、雪衣は軽くせき込んだ。”楽苑”でも味わうことのなかったほど、濃厚な”花”のにおいだ。

 向日葵は無造作に近づいて、”花”の発生源であろう架橋の上をのぞきこむ。


「あー、なんか上に部屋みたいなのあるんだ」

「昔は工場が操業していたそうですね。いまではどこも空室で、後ろ暗い連中の隠れ家になっていることも多いとか」


 ソフィアの蘊蓄に「ふーん」とうなずいた向日葵が、ふと、化粧の濃い顔をひきつらせ、


「したらひょっとして、アズが捕まってんのって」

「さっきの画像を見る限りは違うと思います。それに、もしそうだとしても」


 目をそらして、ソフィアは言いよどんだ。向日葵はそれを問いつめようと口を開き、「あ」と気の抜けたような声を発したきり、その口を閉ざした。ファンデーションを塗りたくった顔が、それと分かるほどに血の気が引いている。

 ”花宿り”から樹が伸びるのが本人の死後だ、という彼女たちの推測が正しいなら、ここに垂れ下がる名の知れぬ枝も、誰かの死体を糧に生長していることになる。


「……キモない?」


 つぶやいて、向日葵は垂れ下がる樹から後ずさった。と、枝が身じろぎするようにざわりと動き、その先端がアスファルトに触れた。がさがさと、頭上から、何かを探るような音が架線の下の雪衣たちにまで届いてくる。


「生きてるみたい……」


 理楽の声は、どこか感動の響きさえ持っていた。「そりゃ生きてるよ、花なんだから」と雪衣は言わずもがなの指摘を口にしつつ、


「離れた方がいいよね」

「そうよ、そもそもわたしたちアズキを探しに来たんだから」


 夢穂は言いながら、逆に樹の幕に向かって駆け出す。両腕に”花”の蔓をまとわせた彼女は、その腕でぐっと木々の間をこじ開けて、高架の向こうへと飛び出ていく。

 その細い背中が、不意に動きを止めた。


「えっ……」

「どうしたの、市来さん」


 彼女の後について、雪衣も高架の外に出る。木々の垂れ幕を、まるで緞帳を開けるみたいにして通り抜けると、夜の繁華街の姿があらわになる。


 それは、ジャングルだった。


 目の前に広がる光景を、雪衣は、ほかに表現しようもなかった。突如出現し、野放図に繁殖する植物に、都市のあらゆる箇所が蹂躙されているのだった。

 センタービルの壁面を、細いツタが縦横無尽に這い回っていることに、彼女は初めて気づいた。彼女たちの来た車道の先、ロータリーの中心にある噴水のそばでは、巨木がその直下に根を張り巡らせ、ひび割れたタイルから水が漏れ出している。

 違和感を覚えてそのタイルをよく見れば、明るい色をしていたはずのタイルが一面、濃緑の細い草葉に覆い尽くされていた。その葉の合間には、ぽつぽつと巨大な爪のようなトゲが生え、罠のように人々を待ち受けている。


 あたりには、もはや人影は見あたらない。駅の東側、いまだ眠るには早いはずの繁華街さえ、この、突然の植物の侵略から逃避するように沈黙していた。

 そして、先ほどからずっと燃え続けている火災は、その繁華街のはずれにある小さなビルから出火しているようだった。消火活動は進んでいない。消防車が何台か、あらぬ方向を向いて立ち往生している。見れば、タイヤが完全にバーストして身動きのとれない状態だった。”花”のせいかもしれない。

 雪衣たちは、そろって道の真ん中に立ち尽くす。


「……変でしょ」


 つぶやいたのは、夢穂だった。


「おかしいじゃん。だって、死ななきゃ、こんなふうにならないんでしょ。それなのに、こんな、いっぱい」


 はっと、雪衣も気づいた。衝撃が頭を貫くように走って、一瞬、視界さえ揺らぐ。街を焦がす大火が、つかのま陽炎を生み出したかのようだった。

 その通りだ。”花宿り”が死ぬことで、”花”がこうも過剰に生長する。

 だとしたら、街のあちこちに張り巡らされた植物の種類は、畢竟、死んだ少女の数に等しい。

 這い回る樹木の群に覆いつくされ、街はいまや異界と化しつつある。我が物顔で枝葉を伸ばし、街灯や看板に蔓を絡ませ、巨大な”花”は思うさま己の生を謳歌している。その肉は、血を吸い上げて膨らむ。


「それだけ、”花宿り”が死んだ。そういうことでしょう」


 冷然と告げたのは、ソフィアだった。夢穂が髪を揺らして振り返り、


「何よそれ! 誰かが”花宿り”を殺して回ってるっての……」


 反駁しかけた夢穂が、のどをひきつらせたような小さな声を残して黙ってしまう。ソフィアの冷たいまなざしが、夢穂の胸を鋭く射抜いている。

 そこに、雪衣は、ソフィアの憎悪を見た。緑色に燃える、彼女の瞳の底に煮えたぎるもの。


「とぼけないでください。あなた方だって分かっているでしょう。自分たちが敵視される理由」


 川又鎖理と組んで、”花”の力を用いた犯罪行為を繰り返してきた夢穂たち。彼女たちも、佐風会の標的とされ、仲間を殺されて、命からがら逃げ出してきたのだ。

 夢穂たちの身に起きたのと同じことが、この小釘の街の至る所で発生していても、不思議ではない。ソフィアはそう言っている。

 そして、ソフィア自身にも、それが起きたのだ。”花宿り”として、同類として敵視され、ずっと信頼してきた男に銃を向けられた。


「……急ご。早くしないと手遅れになる」


 雪衣は、やっとのことでソフィアに呼びかけた。ソフィアはゆっくりと顔を巡らせ、静まった面差しで雪衣を見、うなずく。


「まずは、川又鎖理の居所に向かいましょう」

「はあ? 待てよあんたアズを助けるんじゃねえのか?」


 いらだちを露わにした向日葵は、臆することなくソフィアに食ってかかる。


「すぐに殺されたりはしないでしょう。そんなに焦ることはありません」

「んなノンキ言ってられっかよさっきのあれ見ただろ? いまも捕まって何されてっかわかんねんだぞ」

「それでも、川又鎖理への対処が優先です。彼女を抑えれば”花宿り”の凶行もやみ、この争いも収まる」

「どこにそんな保証があんだよ。あんた捨てられたんだろ、ヤクザ止められんのか?」

「……でしたら好きにすればいい。彼女の居場所は自分で探しなさい」

「んじゃサリーさんのアジトも教えらんないね」


 平行線のふたりの会話を、雪衣はなかばあきれつつ、はらはらした思いで見ていた。柄の悪い向日葵の口調の端々からも、友人の安否を気遣う真情はひしひしと伝わる。

 しかし、雪衣の内心は、ソフィアに同意していた。雪衣の目当ては川又鎖理、父をたぶらかして我が家を狂わせた女、サリーだ。あるいは、父も彼女の元にいるかもしれない。

 だとしたら、急ぐ必要があった。父は生身で、身を守る武器もないのだから。

 ソフィアと向日葵は、無言でしばしにらみ合う。そんなふたりを見守る夢穂は、たぶん雪衣と似たような思いで、いまにも口を出したくてしょうがなさそうな顔だ。理楽は、彼女たちからすこし離れて立ち、足下に伸びる蔓を見下ろして、冷めた無表情をしている。

 雪衣が、とりあえず何か言おうと、ソフィアのほうに足を踏み出しかけて、


「――うおあああああ!」

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