3
ソフィアは残ったタルトをフォークで半分に割って、片方をぱくりと食べる。それを、まるで禊ぎのようにゆっくり静かに飲み込んで、彼女は言う。
「思わせぶりに時間をかけた手前、申し訳ないんですが。”サリー”に関しては、私たちも居場所をつかめていません」
雪衣はテーブルに身を乗り出した。すくなくとも、まったく手がかりがないというわけではないらしい。
「何者なの?」
「佐風会の周辺で、なにかと注目を集めていた女性です……といっても、年は私たちとそう変わらないですが。本名は、
「えっ?」
きょとん、と理楽が声を上げた。雪衣は眉をひそめて、
「知ってるの?」
「うん、たぶん。え、その”サリー”って、くぅちゃんのことなの」
ほうけた顔の理楽に、ソフィアはうなずいてみせた。
「一年ほど前から、床津あたりをうろついて売春を繰り返していた少女です。組織に属さないわりに、よく稼いでいるらしいと有名で、佐風会の下部組織などが商売敵として目を付けていました。
そして半年前、理楽と会っている。そのときは”花宿り”として」
「うん。”楽苑”にも誘ったんだけど、そういうの向いてないから、って断られて」
「それから姿が見えなくなって、忘れ去られていたんですが……最近になって、また、彼女の名前が浮上してきた」
長いため息をついて、ソフィアは苦い表情をする。
「床津で多発している”花宿り”がらみの事件。その裏で糸を引いているのが彼女、川又鎖理らしい、と」
事件のことは、昼間にソフィアが話していた。発砲事件、理楽が襲われた件、そのほか多くの強盗、窃盗、暴力事件。
その中心に”サリー”とやらがいる、というわけだ。
急に、ひどく頭が重たく感じられた。知らず知らずのうちに、ひどい重石を乗せられたような不快感。父の浮気相手を突き止めたいだけなのに、おそろしい面倒に陥れられている気がした。
とはいえ、今更だ。理楽やソフィアに手を借りる以上、こういうことは避けられない。
「居場所はつかめていないの?」
相手が小釘の治安を揺るがす悪党だろうが何だろうが、そんなことはひとまず関係ない。父が彼女といるかもしれない、ということだけが重要だった。
ソフィアは、残念そうに首を振った。
「”花”の力でしょう。それに、自分につながる手がかりを、あまり他人に与えていないみたいです。彼女たちの使ってるSNSにも、川又自身は参加していないようで」
雪衣は今度は理楽に向き直り、
「理楽は、何か知らない? サリーを知ってる子と仲良いとか、そういう」
「……教えてくれないと思う。そもそも、くぅちゃんよりあーしを信頼するような子だったら、くぅちゃんの仲間になんてならないよ」
苦い表情でそう言われて、雪衣は一瞬、口を閉ざす。理楽にしても、川又鎖理に対しては何かしらの屈託があるのだろう。非対称に押し下げられた彼女の眉が、苦悩を示しているようだった。
それでも雪衣は、かんたんに諦めたくはない。
「お金でも積めば、裏切ってくれないかしら? 要は犯罪者の集団でしょう?」
「はした金で仲間を売るような子たちじゃないよ。それに、たぶん、お金なんてたいして意味はない」
理楽が、ゆるりと首を振った。雪衣は口を開きかけて、ただ、空気を呑み込むみたいにうなった。理楽の言葉が、その向こう側にのぞいた少女たちの心象風景が、あまりにすとんと腑に落ちたからだ。
空風台の浮き世離れした街区に真っ白く建ち並ぶ、決まりきった家々。街を横断する錆色の線路と、はるか古代から世界を支えている神話上の存在のような高架の基部のコンクリート。泥水のように猥雑で複雑な生態系を持ち、干からびるのを待つような悪所。
耐え難いものから逃げ出したくて、雪衣は”楽苑”に、そして彼女たちは川又鎖理と仲間に。きっと、そういうことなのだろう。
「なおのこと、たちが悪いわね」
フォークの尻を唇の下にあてがって、わざとらしいほど不愉快な顔を見せながら、雪衣はひとりごとのようにつぶやいた。つかのまの、沈黙。
南のほうから鳴り渡るサイレンの音は、敷き詰められたパイ生地のように折り重なって、いつまで経ってもやまない。意識すると、その不協和音が延々と耳に障る。
「なかなか鎮火しないわね」
「あのへんは、消防法違反の店舗も多いですから」
「日頃の行いね」
肩をすくめる雪衣のそばで、理楽はそわそわと店の外に視線を送っている。街に友人の多い彼女だから、気が気ではないのかもしれない。
「わたしたちが行ってもしょうがないでしょ?」
雪衣の慰めは陳腐で、しかも無意味だ。理楽はかすかにうめくばかりで、雪衣のほうを見もしない。雪衣が何か言い足そうと、口を開きかけたとき、
「ん?」
表通りのほうで、激しいブレーキ音。雪衣がはっとそちらを向くと、次の瞬間、灰色のミニバンの車体がすごい勢いで店の目の前を通過していった。
直後、ブロック塀と固い車体の衝突する、耳障りな轟音が響きわたった。「やだ、事故?」「怖ーい」「今日なんかやばいよね」と、店のあちこちでひそひそ声がする。
雪衣は立ち上がって外に向かう。野次馬の趣味はないが、放っておくわけにもいかない。
外に出てみると、店の横の民家の塀に、ミニバンの車体がぶち当たっていた。右前部のヘッドライト周辺がぐしゃぐしゃに潰れ、窓ガラスにもひびが入っている。側面には、ヒグマにでも襲われたかのような四列の裂傷が走り、運転の荒っぽさを想像させた。
しかし、それよりも不吉な気配を感じさせたのは、窓や後部ドアに残った丸い傷だ。映画でしか見たことのないような、銃弾の痕跡に見えた。
と、ふいに車体がバックしてきて、そばにいた雪衣は危うく轢かれそうになる。あんな状態で、まだ走るつもりらしい。どんな無法者なのかと車内をのぞき込めば、そこにいたのはふたりの女の子だった。後部座席でひっくり返った少女と、運転席でしかめっ面の少女。ふたりとも体に”花”をまとわせ、シート越しに相手となにやら言い合っている。
運転席の少女の、いまにも相手にかみつきそうなしかめ面に、雪衣ははっとする。険悪な面差しと、無免許運転などという悪行のせいで、記憶が結びつくのが一瞬遅れた。
「
けれど、確かにそれは市来
「どうしたんです?」
後ろからやってきたソフィアが、窓の奥をのぞき込んでくる。夢穂はソフィアに目をやって、一瞬ひどくいやそうな顔をした。それから後部座席の少女を振り返って、何事か話し込む様子だった。
と、ふいに後部座席の少女が何かドアをガチャガチャといじり始めた。すこしして、パワーウインドウがゆっくりと開き、濃いマスカラで目元を染めた少女が、窓から顔を突き出した。理楽が「あれ、」とつぶやくのと同時、
「ね、手嶋の人!」
眉をひそめるソフィアに、マスカラの少女は遠慮のない大声で呼びかける。
「うちら、人を捜してるの! 手伝ってくれない!? ヤクザにさらわれたん!」
ソフィアは顔全体で不快を露わにした。しかし少女のほうはそれを見もせず、懐を探ってスマホを取り出し、窓から身を乗り出すようにして画面をこちらに見せつける。
「ほらこれなんだけど。場所分かんなくってさ。手嶋の人なら知ってっかなって?」
椅子に拘束された女の子の画像が目に飛び込んできて、雪衣は顔を引きつらせる。殺風景な灰色の部屋の真ん中で、孤独に取り残された少女。足下にたまった液体は、解像度が荒くて血液とも涙ともつかない。理不尽で、即物的な暴力の気配が、たった一枚の画像に横溢していた。
「あ、この子」
隣にやってきていた理楽が、眉をひそめてつぶやく。
「知ってん?」
マスカラの少女に問い返され、理楽は「ああ、うん」とつぶやき、
「たしか、オリちゃんの身内だよ。あーしのとこ襲ってきた時、いっしょにいた」
「あれから織子とは手を切ったんだよ、アズは。そんでサリーさんと組んだわけ」
「そして佐風会の逆鱗に触れて、この状況、というわけですか」
おおよその事態を察した風のソフィアが、肩をすくめた。そして、冷たい目で車窓の向こうのふたりを順々に一瞥する。彼女たちは、その視線を避けるようにぐっと身を縮める。ソフィアはあきれたように、首を横に振った。
「ただの自業自得でしょう。私たちが巻き込まれる筋合いはありません」
「ちょ、見捨てる気!?」
食ってかかる夢穂を、ふたたびソフィアが冷たい目で見つめる。もはや感情を向けることさえおっくうになった、とでも言いたげな、何の色もない視線。それだけ残して、ソフィアはきびすを返そうとする。
「待ってよソフィちゃん。それじゃあの子かわいそうじゃん」
「かわいそうだから何だって言うんです。理楽さん、そこまでお人好しなんですか?」
「……別に、ソフィちゃんはいやなら関わらなくていいよ」
消え入りそうな理楽のつぶやきを聞き、ソフィアは気色ばんで彼女に詰め寄る。乱れた前髪を理楽の額にすり付けんばかりにして、ソフィアは間近で理楽の冷めた目をにらみ、
「あなたはどうして――」
「ああもう、何で喧嘩になっちゃうの」
見ていられなくて、雪衣はふたりに割って入った。両腕で理楽とソフィアを引き離し、目線で制する。ふたりがおとなしくなったのを確かめてから、雪衣はあらためて夢穂に向き直った。
「こんばんは、市来さん。それからええと」
「うち?
「安波さんね。はじめまして。あなたたち、サリーって人の仲間なんでしょう?」
夢穂と向日葵に交互に目をやる。夢穂は値踏みでもするように表情を崩さないが、向日葵はどこか気持ちの締まりがなさそうな、ぼんやりした顔をしている。雪衣は向日葵のほうを見据えて、語りかけた。
「さっきの子、助けに行くの、手伝ってもいい。もしあなたたちが、サリーの居場所を教えてくれたら」
「サリーさん家? オッケー」
「ちょ、ヒマ!」
あっさりうなずいた向日葵に、シート越しに夢穂が食ってかかった。焦りもあらわな夢穂に対し、向日葵のほうは落ち着いたそぶりで、
「あんだよユメ。アズ助けんのに手は多いほうがいいだろ?」
「だからっつってヒマ、サリーさん売るとかないって。相手は手嶋のツレだぞ、手下動かされたらサリーさんでも逃げきれないって」
「大丈夫よ、市来さん。ソフィアはそういう連中とは手を切った……ていうか捨てられたから」
「は?」
「雪衣さん?」
夢穂とソフィアが、同時に素っ頓狂な声を張り上げた。混乱して目を白黒させる夢穂をそのままにして、雪衣はひとまずソフィアに向き直った。案の定、彼女は至極不機嫌そうで、険しい瞳にはあの緑の輝きが宿っている。唇の端がぴくぴくと震え、つかのま声さえ出しかねるほどの怒りがあらわになっていた。ひしゃげたフロントライトから漏れるゆがんだ光が、一瞬、ソフィアの横顔をいびつに照らした。
「何よ、事実でしょう?」
雪衣はあえて、空気を読まない調子で言い返した。
「だからって……」
「勝手に喋ったのは悪かったと思ってるわよ。ひとまず、ここは見逃して。ね?」
身振り手振りでなだめる雪衣に、しばらく憤懣やるかたない様子のソフィアだったけれど、やがてパンパンの風船の空気が抜けるみたいに、細い息を吐いた。
「……まあ、いいです」
「ありがと。今度なんか奢るわ」
「ね……マジなの?」
おそるおそる、という気色で、夢穂が問いかけてくる。いまのやりとりを見て、高度な芝居だなんて思うほど疑り深いわけではなさそうだった。いかに道を外れたといっても、彼女も根は空風台のお嬢様だ。腹芸を見破る目は持ち合わせていない。
内心すこし安堵して、雪衣はうなずいてみせた。
「いろいろ複雑でしょう、ああいう家の子は」
かすかににじませた共感の色を、夢穂は読みとってくれたのだろう。目をすがめた彼女は、それから軽く首をかしげて、
「九鬼さんこそ、サリーさんに何の用事なのよ」
「それこそ、家庭の事情ってやつ」
「ああ……そう」
互いの目を見交わして、雪衣と夢穂は微笑した。傷だらけの窓の向こうとこちらで、ふたりのそっくりな笑顔が重なり合う。こんな事務的でない会話を夢穂とするのは、いまが初めてだった。
こんなふうに出会っていなかったら、きっと、彼女たちの生はすれ違ったままだったろう。
「おいおいユメなごんでる場合じゃねっぞどうすんだ?」
後ろから口を挟んできた向日葵に夢穂は、「契約成立」とうなずいた。
「ということでいいんでしょ、手嶋さん?」
「そもそもソフィア、さっきの写真の場所知ってるの?」
「柱の形状と床材が記憶にあります。たぶん、佐風会がこういう荒事に利用している地下室のひとつですよ」
あっさり言い切ったソフィアに「よく覚えてんねそんなの」と向日葵が目を丸くした。ソフィアの超人的な記憶力を知っている雪衣はそこまで驚かないが、一瞬、ソフィアが頬をひきつらせたのを見逃さなかった。そこで何を見たのか、あえて問う気にもなれない。
「ともかく場所が分かったんならこっちのもんだ。ほら行こうぜみんな」
クラクションをたたいて向日葵が急かす。警告音を耳元で鳴らされて、思わず雪衣は顔をしかめ、
「ちょっと待ってよ、そのオンボロに乗ってく気?」
「オンボロちゃうわ! まだ走れるっつのなあユメ」
向日葵は断言するが、運転席の夢穂自身は曖昧な顔をするばかりだ。車体には無数の痕跡が残り、エンジンはどろどろと鈍い音を発していて、ひょっとしたらどこか機関が損傷を受けているかもしれない。そうでなくとも、運転の困難さを思い知らされた夢穂自身が、怖じ気付いているに違いなかった。
「私は乗りませんからね」
ソフィアが言うまでもなく、雪衣もこわれかけのミニバンに命を懸けるのは願い下げだ。
「んだよじゃあ歩けっての? こっから床津まで? こっちは一刻を争ってんだよ」
「運転なんて手ずからするものじゃありません。使える手段は全部使いましょう、この際」
ソフィアはその場で左右を見やる。幅の狭い路地をふさぐように野次馬が人だかりを作っていて、あちこちでスマホのシャッター音とフラッシュが連続する。自分に咎がないとしても、こういう目立ち方は好ましくない。
「……やっと来ましたね」
と、ソフィアが野次馬越しに道の向こうを眺めやる。同時に、細い街路を割くような赤色灯の回転と、道を空けるように求める救急車のアナウンスがあたりに響く。ソフィアはかたわらにいた理楽と、運転席の夢穂にちらりと目配せした。
どたどたと駆けつけてきた救急隊員に向かって、ソフィアはふいに、哀れっぽい表情で語りかけた。
「友達が、ケガして、大変! お願い!」
夢穂はすでにハンドルに突っ伏して、胸を押さえている。決してうまい演技でもないが、疲れ切った様子の隊員たちは騙されてくれたようで、手早くドアを開けて夢穂を運び出す。
「ついていっていいですか?」
ソフィアが頼み込むと、救急隊員は当然ながら渋い顔をする。こういう時の同行者は人数が限られているはずで、いくら好意的であっても雪衣たち全員を乗せたりはできまい。
しかし、ソフィアの視線と向き合っていた救急隊員は、ふいに表情を弛緩させ、ソフィアの問いにうなずいていた。のろのろと手招きして、雪衣たちを救急車の中に導く。たむろしていた野次馬も、彼女たちの行動を妨げないのが最優先、とばかりに、さっと道を空けた。
雪衣はちらりと理楽の様子をうかがう。彼女の手の中に、薄桃色の花。あたりにはかぐわしい芳香が漂って、人々の心をつかのま酩酊させている。雪衣はさりげなく彼女に歩み寄って、
「ナイス、理楽」
「まあ、このくらいはね」
糸に引かれたようにうなずく理楽は、何か胸の内に引っかかるものを抱えたような、うつろな横顔をしていた。彼女のてのひらに咲いた花は、浅い夜の薄闇に浮き上がるように、薄い花びらを広げている。雪衣はふとそれに触れてみたくなったけれど、
「急いで、ふたりとも」
すでに我が物顔で救急車に乗り込んだソフィアの声に、雪衣と理楽はならんで走り出す。
車内に乗り込むと、意外と中は広い。シート越しにフロントガラスの向こうが見えた。無数の計器類やストレッチャーには目もくれず、ソフィアはいきなり前の座席に身を乗り出して、運転席にいた男の耳元で、低い声でささやく。
「走らせてください」
ソフィアの顔か、手中の刃物か、それとも車内にたゆたう理楽の”花”の香りか。いずれにせよ、それらは職業意識の高い運転手をあっけなく屈服させるに十分だった。
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