「寒……」


 肩をすくめながら、雪衣はようやく自宅近くのコンビニで人心地ついた。暖房のぬるい空気がふわりと雪衣の顔をなでる。夜のコンビニに流れる店内放送は、ほとんど客のいない店には不必要なくらい明るくて、かえって沈黙を際だたせるみたいだった。

 けれど、それが、今の雪衣の心細さにしっくりくるように思えた。


 父の日記をあさっていたのを母に見つかり、激昂した彼女に追われて、家から出されてしまったのだった。どのみち出かける気でいたからちょうどよかったものの、着の身着のままで放り出され、コートもなしで冬の夜道を歩かされたのはたまらなかった。ちいさくくしゃみをする。

 雑誌の棚の前で、雪衣はスマホを取り出してふたたび電話をかける。さっきはソフィアにかけても通じなかったので、今度は理楽の番号をコールする。これでだめなら、メールか留守電でメッセージだけでも残すつもりだった。SNSは三人とも使っていない。ああいうツールは狙われたらすぐにソーシャルハックされるから使うべきでない、とソフィアに忠告されていた。

 ほんの数コールがひどく長く感じられ、


『ユキちゃん?』


 答えた理楽の声は、電話越しでも分かるほど震えていた。冷たいガラス板の触れる耳元が、透明な指でなぞられたように感じられ、雪衣の胸につかのま焦りが生じる。


「理楽? 今どこ? ソフィアそこにいる?」

『今、外』


 それから、迷いを感じさせる沈黙、


『ソフィちゃん、いるけど。いまは電話に出れる状態じゃないよ』


 言って理楽は、電話の向こうでくしゃみをする。雪衣は眉をひそめて、


「どうしたの?」

『いろいろあったの」


 理楽の声は、たいていいつもあっけらかんとして、暗さを持たない。それは、彼女の生来の陽気さというのではなくて、逆に、こまやかな感情の機微をすべて削ぎ取ってしまったように薄ら寒い。


「……どこにいるの? すぐ行く」


 切迫した声で、雪衣は問いかけた。自分の目的は二の次だった。ただ、いまの理楽とソフィアをこのままにはしておけない。


『ソフィちゃんのマンションの近く。とりあえず駅のほうに向かってる』


 くしゅん、ともう一度くしゃみをして理楽は、


『着るもの、あったら持ってきてくれない? 寒いんだ』

「わかった。途中で合流しよ」


 うなずいた雪衣はすでにコンビニを飛び出している。眠りにつこうとしている家々の前を駆け抜けていこうとした雪衣は、ふと、何か遠い音を耳にしたように思って、足を止めた。まれに、海嘯や貨物列車の走行音がこのあたりまで響くことはあるけれど、それとは異なるもののような気がした。

 肩を揺さぶるような重さと、耳に障るような熱。

 ふと、雪衣は駅の方へと目をやった。宵の口、駅前やその周辺の繁華街は、これからほんとうに目覚めるとでも言いたげに、薄ぼんやりと明かりをともしている。ボーリング場の看板が発するレーザーライトが、薄曇りの空を右から左にないでいく。

 その、ほの明るい景色の中に、ひときわ赤く巨大な光がゆらゆらとたゆたっていた。上昇気流に持ち上げられた薄い何かの破片が、渦を巻いて空に舞う。


「……火事?」

『ユキちゃん?』


 耳に当てたままのスマホから、理楽の戸惑いがちの声がする。


「ああ、ごめん。駅のほうなんか騒がしくない?」

『みたいだね。あんま近寄りたくないかな。どうする?」

「国道沿いのどっか、」


 道のりを思い浮かべようとするけれど、いまひとつきれいな像を結ばない。寄り道の習慣のなかった雪衣の頭には、小釘の精細な地図はできあがっていない。生まれてからずっと住んでいる街のことも、彼女はよく知らなかった。

 それでも、ひとつ、あざやかに思い出せる場所がある。


「初めて会ったときのフルーツパーラー。あそこでいい?」



 カウンターの後ろ、冷蔵庫にずらりと並んだフルーツも、季節が変われば同じではなくなる。春先の思い出に残った色はなりを潜め、いまはリンゴとストロベリーの鮮やかな赤みが自己主張していた。

 国道からすこし離れて、古い街道沿いにあるフルーツパーラーは、木製の看板や外装こそ古色を感じさせるものの、中は真新しく磨き上げられ、ランプの照明と手作りの風合いの残るテーブルが居心地のいい空間を構築している。雪衣たちは、奥まったテーブルに腰を下ろした。前に来たときと同じ席だ。

 壁際の席に潜り込んだ理楽は、買ったばかりのコートの襟元を心持ち強く合わせた。


「やっぱ、まだ目立つ?」

「んなことないと思うけど……」


 言いながら、雪衣も理楽の疑念を否定できない。髭の店主に注文するときも、まばらな客の間を通り抜けてテーブルにつくときも、奇妙に視線がからみついてくる気がしていた。特定の誰かが、というのではなく、彼女たちを見る目が一様に剣呑だった。

 まるで、食べ物に虫の入り込んでいるのを見つけたような、不快そうな険しさ。


「目のせいじゃないかな。やっぱ、ちょっと変だもの」


 理楽と顔を合わせた瞬間、驚いたのがその瞳の緑色だ。指摘したら、理楽に「ユキちゃんこそ」と言い返され、初めて自分の目も変貌しているのに気づいた。理楽のよりすこし薄いけれど、しかし明らかに人間のものではない濃緑の輝きが、雪衣の黒目を染めていた。


「治んないのかなあ」

「さあ?」


 雪衣は肩をすくめる。もしもそれが”花”に由来するなら、彼女たちに打つ手はない。自分たちの体に、制御できないものが根付いていることが、今さらながらすこし不安になる。

 三人の前に、ストロベリーがどっさり載った大きなタルトと、フレンチトーストが並ぶ。雪衣はタルトを四つに切り分けて、三人に配る。いちばん大きな実の入った一切れは、後でじゃんけんか何かで決めるつもりだった。

 そして真っ先にフレンチトーストに手を伸ばした雪衣に、理楽が笑いかける。


「カロリー計算した?」

「食べ始めたときにそういうこと言う?」

「だって、最初に会ったときもさ」


 スマホをいじる仕草をして理楽が笑うので、雪衣はばつが悪い。自分で決めたノルマに追い立てられるように、微に入り細をうがつ栄養管理をしていたのが、まったくの道化芝居に思われてくる。


「もういいじゃない、そういうの」


 わざとそっけなく言って、雪衣は蜂蜜たっぷりのフレンチトーストを口に入れた。

 そして視線を、さっきからずっとひとことも喋らないソフィアのほうに向ける。

 彼女はほうけた顔をしたまま、手元で冷めていくコーヒーにもまるで手をつけない。油断のない目つきも影をひそめ、ここではない、深い地の底の一点を見るともなく見ているような、下向きの表情をしていた。心なし、背丈さえ小さくなったように見えるけれど、本来の彼女の身長からすればこれがちょうどいいのかもしれない、とも思う。いままでが大きすぎたのだ。

 ソフィアに声をかけるのは、どうにもはばかられた。雪衣はタルトにフォークを刺して、半分に割れたイチゴを口に入れる。つんと刺さる酸味が、鼻まで抜けた。


「……ほんでさ」


 理楽が、口元についたパンの食べかすを指先で拭いながら、


「ユキちゃんの用事は何だったわけ、結局?」

「ああ、うん」


 先に理楽たちの顛末を聞かされたせいで、切り出すタイミングを見失っていた。雪衣のほうも、喫緊の異常事態を抱えているのだ。父が行方知れずになったことと、日記に残された記述のことを説明し、


「で、その”サリー”とかいう源氏名の女を捜し出したいの。たぶん、父はそこにいるから」


 雪衣はまだ放心したままのソフィアに目をやって、


「ソフィアなら、何か覚えてるかもしれない、と思って」


 彼女の超人的な記憶力が、頼りだった。たとえ偶然にでもソフィアと”サリー”が出会っていれば、何かの手がかりがつかめるかも知れない。泣き落としくらいは辞さないつもりで、ここにきた。

 しかし、ソフィアは雪衣の話を聞いているそぶりはない。さらさらの黒い髪が、うつむいた頬に垂れ落ちて、ランプシェードのようにソフィアの目を覆い隠している。テーブルの下、彼女の両手の指はきつく結びあわされたままで、銀色のフォークはまっすぐ真横に置かれたまま微動だにしていなかった。


「ねえ、ソフィア」


 声をかけ続ければ、そのうち、ソフィアのことだから、気を取り直してくれると思っていた。高をくくって、雪衣はここにやってきた。

 なのにソフィアは口も開かない。唇は新月間近の月のようにうすい弧を描いて、吐息のひとかけさえ表に出てこない。


「食べなよ、タルト」


 呼びかけていると、自分がどんどん間抜けになっていくのがわかる。甘えて媚びた声が、我ながら薄気味悪い。

 気持ちがわかるなんて、軽々しく慰めるつもりは更々なかった。ソフィアと自分の強さの質は違うし、考え方だって決して似た人間ではない。

 それでも、こんなに簡単にへし折れるほど、ソフィアが軟弱だとは思っていなかった。雪衣自身とは違うベクトルであっても、しかるべき強度を持った少女だと、そう思いこんでいた。あの”楽苑”を支え続けた彼女がそんなに簡単に潰れるわけはないと、そう信じていた。


「コーヒー、さめちゃうよ。寒いしさ」


 なのに、雪衣の言葉は受け流されるばかりだ。理楽までもいくぶん遠慮がちな声で、


「そっとしときなよ、ユキちゃん」


 いい子ぶったアドバイスをよこしてくる。周囲の席の客までが、あの胡乱げな目つきで彼女をとがめているような、とげとげしい気配があたりに漂う。

 雪衣の胸の内で、何かが加速している。


「……いい加減にしてよソフィア。何黙っちゃってんの、かわいこぶって」

「ユキちゃん」

「ひとりで不幸背負ったみたいな顔しないでよ。あんたが、私たちの前で、理楽の前で、そんな顔するなんて許さないわよ! こっち見なさい!」

「ユキちゃん!」


 机に乗り出していた雪衣は、理楽の一喝ではたと我に返る。頭の真ん中を貫いていた熱い鉄心がすっと引き抜かれたみたいに、急に気持ちの張りが消えて、意識が整理されていく。

 テーブルの上についていた両手が、わずかずつ冷える。それとともに、前のめりになっていた雪衣の背中もゆるやかにまっすぐに戻って、彼女は椅子に体重を落とした。

 ストロベリータルトの甘い残り香が、鼻先を通り過ぎる。雪衣はこつんと、親指の付け根で自分の額を叩いた。


「……悪い、理楽。私もなんか、冷静じゃない」

「わかってる」


 理楽の優しげな声音は、素直に身にしみた。


「ごめん、ソフィア」


 ソフィアは無言で、首を横に振る。ひとことの反発もないのが、かえって不安で、けれど雪衣もそれより先は言葉を重ねられない。

 理楽が、そんなふたりの間の空気を眺めるような目をしながら、つぶやく。


「なんだか、今夜はいろんなことがおかしいんだよ」

「そうね……」


 雪衣自身や、ソフィアたちのことだけではない。母の激昂する様子も、いま思えばいささか常軌を逸していた。雪衣たちを取り巻く空気そのものが、静かに熱されているような、異様な圧迫感がある。

 そして、彼女自身も、その熱に当てられてしまっているのかもしれなかった。なにか、ひどい苛立ちの種が頭の奥に埋もれているのに、源を突き止められない。隔靴掻痒の思いで、雪衣はもう一度、自分の額を小突く。それで、すこしだけ狂った回路が元の流れを取り戻した気がした。


「ふつうじゃないのかな、わたしたち」

「ユキちゃんのふつうは、あーしには、よくわかんない」

「だよね……」


 あっさりと理楽に断じられて、雪衣は苦笑せざるをえない。雪衣と理楽とソフィア、生まれも育ちも違いすぎて、こうして集まっているの自体がふしぎな三人だ。

 そういえば、最初に会った時は、雪衣も理楽と何を話していいのか見当もつかず、ずっと黙りこくっていた。

 雪衣は、フォークで軽くタルトの端を切り取って、口先でかじる。それを飲み下すまでの長い時間で、頭の中を整理した。自分たちを酔わせている熱を、わずかでも振り払いたかった。

 頭をじりじりと焼く熱が冷めて、浮き足だった思考がゆるやかに沈潜して、


「ソフィア。言いたいことあるなら、聞くから。待ってるから」


 それでようやく、その一言が言えた。そんなささやかな優しささえ顕せないくらい、雪衣も、疲れていたのかもしれなかった。

 辛酸をなめた少女の言葉を吐き出させて、わずかでも気持ちを楽にする。ノルマだと思って、それを自分に課した。

 一瞬、雪衣たちのテーブルに重たい沈黙が降りる。人々のちいさな話し声と、空調の回る響きと、果物をつぶすジューサーの回転音が、ミルフィーユのように薄く積み重なる。


「てか、このタルトおいしい」


 理楽が、フォークに刺したイチゴをまるごと口に入れながら、感慨深げにうなずいてみせた。その絶妙な間合いが、雪衣の顔をほころばせた。


「すごく甘いよね、味が濃い。やっぱり果物も季節ものだし、旬に食べるのがいちばんよね」

「やっぱ、いいとこのイチゴ使ってるんかな? こーゆー時こそ『シェフを呼べ!』とか言うべき?」

「それいいかも」


 くすくす笑いあう。雪衣もタルトの残りをひょいと口に放り込んだ。糖度の高い果実の甘みが、破裂するみたいに口の中に行き渡って、ゆっくりと溶けていく。

 花を咲かせ、実をつけて、それは確かな収穫となって、彼女たちの糧になる。


「ソフィちゃんも食べなって」

「そうそう、もったいないよ、残しちゃ」


 最後の楽しみに残した、いちばん大きなタルトをフォークでちょいちょいと指し示しながら、雪衣は笑う。


「せっかくこんな大きくなったのにさ」


 ぱち、と、ソフィアがまばたきして、雪衣ははっとする。あの、異様な深緑に染まった彼女の瞳に、かすかに光がともったような気がした。彼女の焦点が目の前のストロベリータルトにぴったりと合って、


「……そう、ですね」


 うなずいたソフィアは、ようやく、フォークのすこし丸い切っ先を赤いイチゴの果肉に刺して、口に入れた。かみ砕いて飲み込む仕草は、雪衣のような早食いでもなく、理楽みたいにがっつくでもなく、ほとんど口元を動かさない折り目正しい所作だった。


「うちのグループが一時期、大規模農業に興味を持ったことがあって」


 ふいに言い出すソフィアを、「うん」と、雪衣はうなずきながら見つめる。


「ちいさい頃、その農場を見に行ったことがあるんです。あのときから、五十嵐もいっしょで……まだ二十歳そこそこの若造でしたけど、私からはすごく大人に見えて、」


 言い掛けて、ソフィアは軽い咳払いをした。


「いくらでも駆けっこできそうな広い畑、未来の国みたいに輝いてた最新設備のビニールハウス。風光明媚な土地。ここで、食べきれないくらいの野菜や果物が育つのだと、ここで毎日畑を耕すのはきっと幸福なことだろうと、当時の、わりと素直だった私はそう信じていました。

 でも、ほんの二、三年で、経営に行き詰まって、うちの会社はそこを放棄しました。たぶん、いまは誰も手をつけず、荒れ放題になっているでしょう。あの僻地に、人が住んでいるのかどうかも、私は知りません。残ったのはただ、記憶だけ。これから若い人にたくさん来て欲しい、と期待していた地主の老夫妻の笑顔だけ」


 ソフィアはかぶりを振った。切りそろえられた前髪がかすかに揺れる。顔に傷ひとつ残ってはいないけれど、その面差しに落ちる憂愁は、まるで数年いっぺんに年古りた、取り返しのつかない痛みを背負ったかのようにも見えた。


「あそこで食べさせてもらったサクランボ、とても、おいしかったんです」


 つぶやいて、ソフィアは笑った。それはどうにか笑顔になっているという程度の、いびつさを抱え込んだ苦笑だったけれど、笑いの表情であることには違いなかった。

 雪衣も理楽も、何も言わなかった。

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