旅は別れのために

《哲学の道》と聞いてどれほど奇妙な道かと想像していると、何てことはない、見過ごすような小さな入口が僕らを迎えた。

 水路閣から、歴史を蓄えた民家群を北へ過ぎて、ツバメさんの案内のままに、その哲学の道へ向かった。後に調べたところによると、とある近代の哲学者が思案を巡らして通ったことを由来とする道らしい。並び立つ緑に満ち溢れており、春には、並び立つ桜がとても良く映えそうな道だった。すぐ隣を流れてゆくのは琵琶湖疎水で、そのまま僕らと入れ違って水路閣へ向かうに違いない。


「絵画の中みたいに、綺麗な小路だ」

「一点透視図法みたいだよね。どこまでも、永遠に続いていく」


 『永遠』という言葉は水路閣にも通じ、僕の《純粋な孤独》へ、さらに澄んだ色を与える気がした。

 道の途中では、様々な人を見た。外国人観光客も多い。雑談を交わしながら軽快に進んでいくグループや、虚空に穴を開けるほど睨みを利かせて歩いている人もいた。

 心に残ったのは、水路の上に懸った通路に座り込んでいた、鉛筆デッサンをする七十代くらいのおじいさんだ。覗かれることを前提とした無防備な背中で、実際に覗くとその絵には未知の魅力を表す奥行きがあった。さらに細部の葉まで、丁寧に描き込んである。


「いつもここで描いているんですか」


 ツバメさんは、人見知りというものを欠片も知らずに堂々と、その老人へ尋ねた。


「京都中を回っとる。何カ月も懸けて上から下へ、鉛筆と紙だけで描いていくんや。まあ、夜にはうちへ帰るんやけどな。それで一周したら、もう一遍描く」


 そこで一拍置き、おじいさんはにやりと笑った。


「せやけど不思議なことに、次見たときには全く別物やねん。京都が形を変えて、違う絵を儂に見せてくれる。おかげで、やめることなんぞできへんのよ」


 親友について語る如く、嬉しそうな顔だった。そのまま、ははは、と人の良い笑顔で言った。


「飽きねえなあ、この街は」



 意外と道程は長い。

 視界の端を猫が通ったようだ、とそちらに目を向ければ既に、影も形も消え去っていた。隠れたとも思えず一瞬驚いたが、同時にそれさえもありうることだと納得している。

現実感はまだ戻ってこない。


「ヒバリくんは、親友っている?」

「一応、いますよ。今は、山に籠ってキャンプしているらしいです。『俺は虎になる』とか言っていましたね」

「大物になれると良いねえ」


 彼女は学校生活や将来について尋ね、僕はそれに当たり障りのない答えを返した。それよりは、僕がツバメさんのことについて知りたかった。


「ツバメさんの親友はどうなんですか?」


 会話の隙間を埋めるようにこちらも尋ねた。微かに遠くへ視線をやってから、返答があった。


「ずっと旅の最中だから。友人は多いけれど、親友はいないわね。それよりはもっと、遠い関係でもいいんじゃあない?」


 僕はのどまで言葉を引き出して、発するのをやめた。ツバメさんは、無意識的にだろうが、過去を語ろうとしていない。

 仕事はしているか否か、初旅の話など聞きたいことはあるが、彼女は語らない気がした。

 しばしの間、沈黙が僕らと同じ速さで流れていた。


「たとえば、私が、遠い星から来た異星人だと名乗ったら信じるかな」


 聞き違えたか、と顔を上げると、変わらず優しい笑みがある。

 宇宙人?


「『私は名探偵だ』と言ったら? あるいは逆に殺人犯の、文字通り決死の逃避行とか。未来の世界へ帰る旅人かもしれないし、零時と共に成仏する霊かもしれない」


 妄想を、飄々と彼女はまくし立てた。少し困惑しながらも、黙ってその語りを聞いていた。


「変な言い方だけれどね。大切なのは、これらの私に対する背景が、旅の上では全く問題ではないこと。君の《純粋な孤独》を超えて、旅人は相手を深く知る暇もないから、今の相手を見るしかないのよ」


 僕らは歩みを止めない。


「私たちは、他人だよ。なあなあの友情でなく、かりそめの愛情でもなく、旅先で会話しただけの赤の他人――でも、この赤は、薔薇みたいな赤だと思う。一瞬だからこそ、強く繋がろうとして、絆が生まれるの」


 その言葉を聞いて、少しだけ分かったことがある。ここまでの内にだんだんと、僕の中でツバメさんへの恋愛感情が募っているのだと思っていた。しかし違った。

 この人のようになりたい。それは、遠い世界にいる彼女への強い憧憬だった。



 哲学の道の終点もまた小ぢんまりとして、今出川通へと出た。地図によれば右手に歩き進めると、銀閣寺へと続く登り坂があるらしい。


「私は、銀閣寺へ行くよ」

「僕は、オープンキャンパスです」


 呆気なく僕らの二人旅は終わりを迎える。行く先は真逆で、これが本来の僕らの道なのだ。


「……あっという間でしたね」

「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人なり」


 彼女は言う。芭蕉も、一期一会を惜しんだのだろうか。僕は、普段あまり感じることのない感傷に浸ってしまった。

 すると唐突に、彼女は赤のナップザックを降ろし、手探り、奥の方から何かを取り出した。


「これが文字通り、旅の栞ね。あげるわ」

「え?」


 僕は驚いた。それは彼女が『藪の中』に挟んでいた栞なのだ。


「いや、必要でしょう。これは」

「違うわ、二枚持っているの。同じものが二枚」


 厚紙でできた栞には、蒼の上で舞うツバメの絵が描いてあった。ここでようやく、彼女にとってツバメという名が大きなものであると知ったのだ。


「『大切なものは目に見えない』とは言うけれど、見えるものも大切にして欲しいのよ」

 ツバメさんの手から受け取った。紙にも、ぬくもりは確かにあるのだ。


「思ったんだけれど。栞って、断絶よね。物語の流れには、本来介在しない断絶。でもそれこそが、座標を定めるロゼッタストーン――繋がりになるのかも」


 断絶が、僕らと本を繋げうる。あるいは人と人を。彼女と僕の間には距離があるが、それは跳び越えられるはずだ。


「ありがとうございます。大切にしますよ」


 彼女の眼を初めて真っ直ぐに見つめた。やはり、これは恋ではない、しかし彼女のその眼はとても美しいと思った。


「さようなら、ヒバリくん。《純粋な孤独》を得た旅人くん」

「さようなら、ツバメさん。『何か』を満たしたい旅人さん」


 僕らは笑顔で、まるですれ違うように別れた。しかし確かに、そこに絆は存在したのだ。


「また逢う日まで」


 どちらかが言った。僕らは、別れた。




 その後を言及するのは省こう。極めてつつがなく、下り道くらい順調に、オープンキャンパスへと参加し、嵐山を訪れてから京都の旅を終えた。

 帰り着いて両親に迎えられた僕は、親の部屋から厚い小説を引っ張り出して、その一ページ目に栞を挟んだ。

『ドン・キホーテ』。

 その日から僕は、一歩一歩、物語の上を踏みしめるように多くの読書をし、夢を抱いた。《純粋な孤独》以上に、満たしたいものに気付いたのだ。

 もうすぐあの夏の日から一年。僕は、書を捨てて街へ出る。一人旅をまた始めるのだ。

僕は福島への航空券と、鞄の奥の小説に挟まれたツバメに、命のぬくもりを感じながら、想うのだ。

 栞が、あの人への道標となりますように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

旅の栞 ノグチソウ @clover_boy

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ