旅の栞

ノグチソウ

旅は出会いのために

 一年前――高校一年の夏、初めて僕は一人旅を経験した。僕とあの人は、その京都の地で奇妙な邂逅を果たしたのだ。

 思い返してみても彼女は、まさに旅人そのものだった。


 ツバメさんは、旅先で読書をするのが好きらしい。旅なのだから柱の釘一つまで見て回らないのか、と理由を尋ねると、


「旅先に合わせた本を読んでいるのよ、ヒバリくん。自分を、物語に同化させるためにね」


 曰く、彼女にとって旅程とは、《現実》と《物語》という絵の具を混ぜ合わせるパレットなのだという。

 ちなみに今、この林の中で彼女の手の中にあるのは、芥川龍之介短編集、『藪の中』。


「奇妙さと神秘性は、紙一重なのよ」


 ツバメさんは、愛する人について語るように、丁寧に言った。

 頭上の陽光と横からの蝉声で、八月の午前は僕らを自然の中へ押し込めていた。



 平安神宮を観光し、バスで東へ十分と少し行くと、左京区の端にある京都名所の一つ――南禅寺へ辿り着く。その敷地をくぐり抜けると、不思議な雰囲気を湛えた建造物が現れる。

 水路閣。

 琵琶湖疎水が上部を流れる水路橋で、小さな林を横切るように存在する。その両端は垣を越え、観光客のあずかり知らぬどこかへ吸い込まれていた。世界の果てまで貫いているという妄想さえ相応しいほど、橋はどこまでも続くように思わせる。

 古い赤レンガの巨柱がアーチ型に等間隔で並び、見上げるとその上の直線的な橋を支えている。横からでもその荘厳とした構図は見る者を圧倒する。だが橋の下に立ち、アーチが連なった赤褐色のトンネルの中を、その端から眺めると、合わせ鏡を覗き込むような感覚がさらに僕らを襲う。今にも横から、物の怪が姿を見せそうな不思議さだ。

 何より感嘆すべきは、この水路閣が百年以上もこの林で時の流れにさらされていること。その身体は朽ちてゆく最中とはいえ、崩れ去る余地はどこにも見受けられなかった。

 人智を超える存在感だ。

 そして、不意に近くで読書をしていた女性に話しかけられたのは、到着からしばらく経ってからだった。赤いバックパックは脇に置かれ、彼女の長髪が軽やかな風になびいていたのを覚えている。


「君も旅? 高校生かな」


 相手は二十代だと思われたが、少し日に焼けて、運動部の女子を想起させる活発さが感じられた。

 彼女は、旅が趣味だと自己紹介した後、「ツバメ」と名乗った。勿論、渡り鳥である点から由来した仮の名だと見当がついたため、


「それなら僕のことは、ヒバリと呼んでください」


 と、僕も格好付けて言ってしまった。


「あれ、ヒバリって渡り鳥だったっけ」


 反射的に出た台詞に取り返しがつかなくなった僕は、そのまま本名を名乗らないことにした。その名前を必要としないこの空間は、僕の望む《孤独》に近いと感じた。


「基本的に留まっている鳥ですが、確か北海道からは寒気を逃れて、南下するそうです」

「旅人もどき、ってこと?」


 ツバメさんの質問を、僕は曖昧な笑みで受け流した。

 一瞬で他人と、これほどの親しみを覚えたのは初めてだ。恐らく互いに、相通じるものを感じたからだろう。僕らには微かながら、林を抜ける風にも似た、穏やかな関係が築かれていた。

 成り行きで僕とツバメさんは、辺りに散らばる岩の一つに座り込んで話をすることになった。彼女はあくまで本を閉じないまま、会話をつづけた。よほど本が好きらしい。


「君は、どうしてここへ来たの?」


 尋ねられて、僕は正直に答えた。


「ある小説で、ここが触れられていたんです。南禅寺の奥に、古代ローマみたいな水路橋があるって」

「なるほど。実際に見た感想は?」


 僕は座ったまま視線を上げ、いにしえの竜の如き水路閣を眺めた。


「初めは、勿論自然の奥の人工物だったんだろうけれど……時間がそれを混ぜ合わせた、ように感じました」

「うん、同感ね。水路閣はもはや自然の一部だから」


 自然に自然の中にあり、しかし奇妙さも寄り添っている。現実感は、とっくに町のほうへ去ってしまっている。

 ここなら、どんなことでも起こり得そうだ。


「それじゃあ……ヒバリくん。君はどうして一人旅をしているの?」


 ツバメさんは声色こそ変えないが、その口調には、僕への配慮も薄く伝わった。

 林には一定数の観光客がいた。数人去ると、空白を埋める数人がまた訪れる。定員などないのに、保存則がきちんと成立している。まるでこの空間で、世界が完結しているようだった。


「まあ、親には大学のオープンキャンパスへ行くことを建前に許可を貰ったんですが。本当は……」


 僕は人々を視界に入れたまま、言葉を選び、彼女へ告げた。


「僕は、この旅で独りになりたかったんです。喧噪から逃げるわけではなく、自由を得たいのでもなくて。路地裏みたいな孤独じゃあなくて、ただただ心地良い《純粋な孤独》を求めて。知り合いが皆無である地へ旅に出たいと思って、この京都へ来ることを選んだんです」


 歴史という概念は、その《純粋な孤独》に限りなく近いと感じる。人も物も灰塵となって、それでも残るものがあるからだ。それは故人の《想い》とか《美》とか、そんな詩の一節のようなものたちだが、そんな詩的な――あるいは私的な――京都に憧れたのだ。

 伝わるかどうか不安だったが、そんな考えを丁寧に語った。ヒバリさんは僕の言葉を咀嚼し、ゆっくり呑み込み口を開いた。


「旅をする人ってさ、皆が何かを求めているんじゃあないかな。つまり、満たされていないから旅に出るのかも」


 言ってから、手に持ったままの文庫本に目をやりつつ再び考え込み、少しして微笑んだ。


「私の話をしましょう。私はいわゆるバックパッカーで、基本的に海外を旅している。ただ夏のこの時期だけは、帰郷ついでに日本の名所を訪れるようにしているわ。去年は栃木、今年は京都、来年は福島へ行こうと思っているの。被災地の現状については、まさに百聞は一見に如かずだと思うから」


 そこで一度、首を傾げた。話が逸れていると気付いたらしい。


「ともかく、一年の多くは海外で過ごしているの。何故かというと、日本国内では何か一つ足りないから。一つというのが、肝要なのよ。そのたった一つが分からないの。私ではなくても、家族や仕事、絶景を求めて旅をする人はごまんといる。例えば、オーストラリアで会った別の旅人は何て言ったと思う?」


 ツバメさんはそこで、ふふふ、と笑った。その笑い方には、子供が吹く口笛に似た可愛らしさがあった。


「『私は、まだお目に掛かったことのない美女という生き物を探している』って、真面目な顔で言ったのよ。笑ってしまうような答えだけれど、私にも思うところがあったわ。私も、日本では不満足な『何か』を求めている。それは愛や恋人のような、冗談交じりの答えかもしれない。それでも私は、その冗談の本質を知りたいの」


その『何か』は、きっとツバメさん自身にしか見つけられないのだ、と僕は思った。


「『何か』はもしかしたら、運命の相手かもしれない訳ですね」

「恋人ね……自動販売機で買えないかな?」

「百円ショップで買えますよ。赤い糸くらいなら」


 ふざけた掛け合いに二人とも笑った。滞らない会話と掴みどころのない内容。やはりこの林の中には現実感が決定的に、絶対的に欠けている。それは恐ろしいことであり、しかし素敵だとも柄にもなく感じてしまった。どこまでも、不思議だ。

 しばらく僕は人々を観察し、彼女は読書に耽った。

 やがて、栞を職人のように優しく挟み、本をぱたん、と閉じてツバメさんは提案した。


「哲学しましょうか」


 僕に、断る理由はなかった。

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