周防先輩は僕のことを財布としか思ってない
最上へきさ
放課後、夕暮れ、部室にて
「わたし、君のことが好きだよ。南禅寺くん」
その時。
僕は危うく手の中の湯呑を落としそうになった。
大事に読んでいたファンタジー小説の金字塔が、危うく緑茶まみれになるところだった。
「……言っておきますけど、今日は奢りませんよ。周防先輩」
「おいおい、心外だなあ。うら若き女子高生が勇気を振り絞って告白したというのに、なんだい、そのつれない態度。南禅寺くんはあれかい、ツンデレなのかい?」
僕はお茶を一口含んで、それから一度だけ、たっぷりと溜息をついた。
「あのですね。周防先輩は僕のことを財布としか思ってないでしょう?」
「その根拠は?」
「浪花屋のたいやき、千疋屋のパフェ、トミィのホットケーキ、なりたけの大盛りラーメン、プティ・ヴェールのハンバーグ」
先輩は白い歯を見せて、にっこり笑う。
長く伸ばした黒髪が、部室に差し込む夕日にきらきらと映えた。
「やあ、わたしの好物ばかりだ。よく知ってるね」
「とぼけないでください。全部、僕が奢ったものです。バイトもせず、二人しかいない文芸部に真面目に顔を出している僕が。周防先輩がしつこくたかってくるから、仕方なく同情して」
言っているうちに、腹が立ってきた。
なんで僕が奢らなきゃいけないんだ? この人は一個上の先輩だぞ?
「違う違う、それは誤解だ」
「僕の財布から消えた諭吉を前にしても、同じことが言えますか?」
「だから違うんだよ。別にわたしは奢ってほしかったわけじゃあない」
周防先輩の手が伸びてくる。
すらりとした細い指が、湯呑ごと僕の手を握った。
「君と一緒に食べたかったんだ、南禅寺くん」
「財布を持たずに、ですか」
「そこはホラ。緊張のあまり、忘れてしまっただけで」
周防先輩は、いつもしらっと嘘をつく。
こんな風に、どうでもいいような嘘ばかりついて僕をからかう。
「ちなみに今日は?」
「もちろん持ってない。何ならスマホも忘れてきたから、定期しかない。当然定期のチャージもゼロだよ」
「もちろんってなんですか。ていうか、ホント、奢りませんからね」
ほら見ろ、いつものやつだ。
こうやってすぐ僕に奢らせようとする。
「まったく、南禅寺くんはいつもそうやって話を逸らそうとする」
「は? え、いやいやいや、何言ってんですか、それは周防先輩でしょ?」
「だからさっきから言ってるじゃないか。どうして答えを聞かせてくれないんだい」
言ってる? 答え?
……何の話だっけ?
「まあ、わたしだって分かっているつもりだよ。今のこの関係が心地よいんだろう。二人しかいない文芸部の先輩後輩という、絶妙な距離感がね」
「言ってないですし。なんですかそれ」
訳知り顔で頷く周防先輩に、僕はうめいた。
今日は騙されないぞ。僕は財布じゃない。絶対奢らない。
「でも本当にそれでいいのかい? 君の青春、そんなパッとしない感じのグレーゾーンで」
「ある意味ブラックですけどね、ブラック先輩のおかげで」
「一花咲かせてみたいと思わないのかい!?」
傷だらけの長机を、ドンッと叩いて先輩が叫ぶ。
危うくまた緑茶がこぼれるところだった。僕の金字塔が汚れるじゃないか、全く。
「さあどうするんだい南禅寺くん! どうするんだい!」
「だから行きませんって。来週からテスト期間ですし」
僕はもう一度、金字塔に目を落とした。
ようやく長い長い森の描写が終わって、いよいよ馳夫が登場するのだ。
「……ああそう! ああそうかい! 分かったよ、南禅寺くん! まったくやれやれ、君も本当に強情な男だな! ホントに! 強情だな! もう!」
地団駄踏む勢いで、周防先輩。
どうでもいいけど語彙力無いな。本当に文芸部か?
「いいか! 五つ数えるぞ! 数え終わる前に「イエス」と言わないと……」
「…………」
「言わないと……」
沈黙。
「見てー! こっち向いてよ南禅寺くんー! せめて視線ぐらい向けてー!」
「……言わないと、なんですか?」
目線だけで、周防先輩を見やる。
「言わないと、脱ぐ!」
……は?
と、僕が何か言う前に、先輩はもうリボンタイに手をかけていた。
「ちょちょちょちょちょちょ! 先輩!?」
「さあどうだい南禅寺くん! いかに堅物で鈍感で唐変木で朴念仁でちょっと馬鹿な君でも、今回ばかりは見過ごせまい!」
オイ今馬鹿って言ったろ。聞こえたぞ。
「ホラ! いいのかい南禅寺くん!」
「だーっ、なんなんですか! 意味が分からない! ていうか脱いで恥ずかしいのは先輩ですからね!?」
「わたしも恥ずかしいが君も恥ずかしい! これぞ『肉を切らせて骨を断つ』だ!」
使い方間違ってるし! ……間違ってるよね?
「ああもう、なんなんですか! 僕は周防先輩の財布じゃありませんからね!」
「当たり前だ! 財布に裸を見せようとする奴がいるか!」
周防先輩は、信じられないほど堂々とした仁王立ちを見せる。
星を散りばめたようにキラキラとした眼差しで、
「君は――わたしにとって、財布よりもずっと大切な存在だよ!」
ATMかよ!!!!!
……と叫びかけて、僕はぐったりと肩を落とした。
なんか、こう、すごく不毛なことをしているような気がしてきたから。
「……分かりました。分かりましたよ」
「おお、そうか南禅寺くん、分かってくれたんだね。わたしは嬉しいよ」
「で? 今日は何が食べたいんです?」
ようやく立ち上がった僕に、周防先輩は何故か冷たい視線。
え? なんで?
「……フルーツサンド。フクナガのフルーツサンド」
さっきまでの勢いはどこへやら。先輩はボソリと呟く。
もう、訳分からん、この人。
僕は湯呑の中の緑茶をぐいっと飲み干すと、鞄を肩にかける。
「じゃ、行きますよ、周防先輩」
「叶恵って呼んでくれ」
「は? え、なんですか急に」
「呼んで」
……もうまったく分からない。
ていうか叶恵って名前だったのか。
「行きますよ、叶恵先輩」
「……仕方ないな」
またしても突然。
先輩が笑った。
窓の外の夕焼けが、ただの背景にしか見えなくなるような笑顔で。
「今日はこの辺にしておいてあげよう。さあ行くぞ、南禅寺くん」
「……はいはい」
このたかり癖さえなければ、僕の理想の人なのに。
周防先輩は僕のことを財布としか思ってない 最上へきさ @straysheep7
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