二 憧れの女教師

「――ルーマニアは東欧の国なので本人にはあまり馴染みがないかもしれませんが、その国名は意外にも〝ローマ人の土地〟を意味する言葉からきています……」


 音もなく黒板に整然とした文字で板書をしながら、静かな教室内によく響く、透明な水晶のような声で先生が説明する。


 もう見ているだけで、ここまでその大人の色香が漂って来そうな艶めかしい後姿を、あたしは教室の隅の席で人知れずじっと眺めていた。


 「艶めかしい」といっても、キャバ嬢やグラビアアイドルのような前面に女性を打ち出した直接的なものではなく、なんというか、もっとこう奥ゆかしいとでもいうのだろうか? そのタイトなグレイのスーツに包まれたプロポーションの良い女体から、意識せずともじんわり大人の女性の魅力が滲み出ているのである。


 世界史の教師で担任の神谷愛華かみやまなか先生……彼女と出会えたこの幸運に、あたしは神に感謝せずにはいられない。


 本当に先生のクラスになれてよかった……世界史を選択したのだって少しでも先生と一緒にいたいからなのだが、もしも先生が担任ではなく、こうして出会うことができなかったらと思うと今さらながらにゾっとする……。


 体育会系でサバサバしており、普段、恋バナなどにもあまり興味を示さないあたしは、恋愛に対して奥手な人間だと周囲から思い込まれている。


 だが、その認識は少し間違っている……興味ないのは男子・・との恋愛についてなのだ。


 あたしが胸をときめかすのはバカで粗野な男なんかではなく、もっと繊細で可憐な女の子に対してなのである。


それもキャピキャピして落ち着きのない若い子なんかよりも、神谷先生のように上品で慎ましやかな、大人の色気を持った美しい女性に……。


 それに、家族や友人達は誰も知らないことなんだけど……男子に対しては食指が動かず、完全に草食系なあたしも(ていうか、まったく食物として認識していない…)、好きな女の子のことになると極めて肉食系……いや、はっきり言ってストーカー並な行動をとってしまう。


 だから先日、部活帰りに偶然、先生を駅前で見かけた際、あたしはこっそり先生の後をつけて、学校ではけして見せない、その秘められた禁断の性癖を知ってしまった。


 先生も、あたしと同じだったのだ……いや、先生の場合、また少し違う・・・・のかもしれないけど、ともかく先生も女の子が好きみたいなのである。


 ああ、あの麗しい黒髪に涼やかで冷たく突き放すようなSっ気のある瞳、そして、プルンとして食べられてしまいたくなるようなあの魅惑的な赤い唇……考えるだけで、なんだかこのまだ発展途上の肉体が火照ってきてしまう。


「――それじゃあ、円木さん。中世を通してルーマニアを板挟みにして悩ませた二つの大国はどこだかわかる?」


「……!」


 そうして思わずうっとり先生のことを眺めていると、不意に先生と目が合って、あたしはあの大好きな透き通るような声で質問をされた。


「す、すみません……聞いてませんでした……」


 まるで心地良い音楽でも聴いているような気分だったので、当然、その話の内容は頭に入って来ておらず、慌てて返事をしたあたしはボソボソと小さな声で謝る。


「もう、仕方ないわね。もっとちゃんと授業に集中しなさい? その二国というのは、ハンガリー・オーストリア帝国とオスマントルコです――」


 そんなあたしを神谷先生は努めて冷徹な口調で淡々と注意し、まるで何事もなかったかのように再び授業へと戻ってゆくが、そうして先生に怒られたこともなんだか嬉しく思えてきてしまう。


 あたしの心の奥底には、そんな少しマゾヒズム的なところもあるのかもしれない……特に先生が相手ならば、たとえあんな変わった・・・・愛された方をするのだとしても、あたしは悦んでそれを受け入れるだろう。


 ……でも今の、あたしに対してなんの興味もないような素っ気ない対応……先生はあたしのことをどう思っているだろう? あたしは先生にとって、好きになる・・・・・対象でありえるのだろうか?


 そういえばこの前の部活の時、グラウンドの端に立っていた先生と目が合ったような気がする……もしも、あの時、先生があたしのことを見ていてくれたのだとしたら……。


 ……もう、このまま密かに思いを募らせているだけの状況には耐えられない……特に先生があたしと同じ・・・・・・タイプの女性であることを知ってからというもの、一つ大きなハードルを越えられたことによる未来への希望と淡い期待が、あたしのこの欲情を抑えきれないものにしている。


 あたしの思う通りなら、先生だってきっと同じ気持ちでいてくれているはずだ……でも、教師と生徒というもう一つの大きなハードルが、その気持ちに素直になることを踏み止まらせているのかもしれない……。


 教師という立場上、それが難しというのなら、生徒であるあたしの方からそのハードルを跳び越えて行ってあげる……もう一日だって待てない。今日の放課後、思い切って先生に告白しよう……。


「キリスト教世界の最端に位置していたルーマニアは、隣接するイスラム教国であるオスマントルコとカトリックの神聖ローマ皇帝を擁するハンガリー・オーストリア帝国との間で微妙な立場にあり――」


 あたしはそう決心を固めると、相変わらずクールに冷淡な声色で授業をする先生の静かな色気漂うその容姿を、もう一度改めてじっと見つめた――。

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