有川 真黒

女には脚が二本ある。

丸く整えられた爪先から細い指の集合体があり中足骨の美しい曲線から外踝の丸み、きゅっと締まった足首から柔らかなふくらはぎに向かう。磁器のような膝口とその裏の深い窪み、交差する筋肉の上に必要悪の脂肪がまなざしを向ける太腿。芍薬であり牡丹であり百合でもありその他のなんにでもなれる女の脚。

そして二本の間には、



私には日課があります。朝、目が覚めて白い天井を数秒見詰め昨夜の夢を思い出します。そうして日記に綴り、良い夢に眉を顰め悪い夢に安堵します。現象一つ一つが私の中を通り抜けて不変なる過去になっていく瞬間がとても好きな気がします。またこれは単なる備忘録でもあって、一日一日を私がきちんと生きているという証明にもなってくれるのです。ノートを閉じ、ルームシューズに右足から入れて台所に向かいます。みずいろの歯ブラシを手に取り歯磨きを済ませてガラスのコップで口をゆすぎます。そうして部屋の隅の一番大切なものがあるところへ行って、ひんやりする桐箪笥の取っ手に指をかけ引き出しをすべるように引き、さらに中の桐箱を初めてみるものかのようにまじまじと、そして愛を持つまなざしをそそぎ、中からあふれるものがあり早く、丁寧に開けなければいけないような手つきでふたを開けると、綿花に包まれた白いものがあるのです。それを当然のようにくちびるに押し付け、舌の上に乗せます。硬いものと唾液が絡まって目を閉じて、そうして永遠の時が流れたかのように感じたら舌の上からまた放して、大切に大切にしまっておくのです。それが私の日課です。あまりに白くて、ざらざらとしていて、味があるわけでもない、けれどこれは私にとって重要な、つまりあの人の一部をなしていたもの。

そう、骨をこっそり持ち帰ったのです。



 気味が悪いとお思いでしょう。確かに『ふつう』ではないかもしれません。けれど私にとってはこれが愛なのです。

 狂ったのでは決してありません、女は時に人を愛することさえ不器用を極めてしまうことがあるという事実だけなのです。

 先生と初めて会ったのは春泥が乾くころ。私のアパートの大家さんの知り合いのおうちの健ちゃんが中学生に上がって少し勉強を見てほしいということで、同じく大学生になったばかりの私が、教えるというほどきちんとしたものではありませんでしたが、毎週水曜日におうちに伺って、宿題を見てやるのでした。何回か先生のおうちの扉を開けたあと。初めて先生にお会いしたのです。台所の横で宿題を終わらせて暇を持て余している健ちゃんに詩歌の楽しさを話していると、後ろから急に「詩より小説じゃないか?」と声をかけられました。そのまま好きな小説家の話を続けるので私は少し嫌になりまして、机にジュースが置いてあったのにわざわざ台所へ行って水を一杯いただきました。健ちゃんは変な顔をしていました。テレビの笑い声がとても遠くに聞こえました。

 その日の帰りに、「健一郎のことで何かあったら連絡してくれ」とレシートの裏に連絡先を書いたものを渡してきました。家に帰ってからレシートを見ると赤面してしまうような、なんと夜の営みに使うものばかりであったので、何がしたいんだあの人はと思いました。

最初の印象は最悪。けれど連絡先をもらったので挨拶だけでもとメールをしました。それからも普通に週に一回健ちゃんのおうちへ伺って、眞沙子さんともとても仲良くなって、だんだんジュースだけでなくチーズケーキまで出てくるようになってしまったのでありがたい反面少し申し訳なく、けれどもやはり好物がしかも家族のような温かい場所で出てくるというのはとても嬉しいことなのでした。

 ある日友達が働いているスペインバルにご飯を食べに行きました。彼女は急に体調を崩したらしく働いてはいませんでしたので、一人カウンターでパエリアとアヒージョとサングリアを飲んでいました。店長さんは気さくな人で忙しいにもかかわらず私と話してくれました。からんと扉が鳴って、一つ席を空けて隣に座ったのは、先生でした。「オムレツとビール何かね」と注文してから私に気づき、「明季ちゃんじゃないか」と声をかけられた。「知り合いなの?この人ここの常連さんだよ」そうなんですか、とつぶやいた。「隣でのんでもいい?」と囁かれたのではいと応えた。驚いた。この人は私の中で単なる『健ちゃんのお父さん』であってそれ以外の何者でもない。しかしここで会ったことでこの人のそのものがわかってしまった。ネクタイはストライプ、今日はオムレツの気分でとりあえずビールとかいう人。何を忘れるためかお酒を飲むような場所に通い、そして子供もいるのにあんな買い物をしてそれを平気で私に渡す人で平気で私の隣に座ってしまう人。

 

もうだめだったのではないか。この時点でもう恋に落ちてしまっていたのではないか。

 先生は本当にここの常連さんで、店長と先生は本当に昔からの付き合いだった。健ちゃんが生まれた時の話もしていた。内容はあまり覚えていない。スペインオムレツの切り口から中の具が見えて、思わず凝視してしまった。お酒とこうやって先生と話せる嬉しさと、それでもしかしこの恋は秘密にしておかなければいけないこと、そして可笑しな情愛が汚いマーブル柄になっていたような気がする。自家製イチゴジャムを使った赤いグラデーションのカクテルが出てきて、同じぐちゃぐちゃでもこんなに綺麗ならいいのにね、と思った。

 健ちゃんの話だとか故郷の話だとか当たり障りのないことを話しながら先生はカウンターの下で手を握った。あんなことをしておいて今度はこんなことを、と呆れ嫌になってしまったのだが、指の間にきつくすべりこまされて、もうどうにもできなかったのだ。けしてこの選択がまともな、理性的な、今まで積み重ねてきた私の性格や本質や考え方ではなく、すこしの高揚感と嫌悪感がむしろこんな選択をしてしまった要因かもしれないと言い聞かせた。その日の下着は気持ちとおんなじ黒で、それでも先生は綺麗だよと言ってくれた。強引に唇を塞がれて肉がねじ込まれた。なぜか唾液が甘い味がして不思議だと思った。他の人にはそんなこと思わなかったのに。耳殻を噛まれて甘い唾液と赤い咬み痕が残った。荒い息がその熱とともに耳元にいつまでも残り、首筋に丁寧に口づけするので愛されている錯覚に陥った。まさに錯覚。幻想。お互い人が変わったように求め合った。最早人ではなかった。腰から背中に続く曲線の一番高いところから快感が上ってきて頭の真ん中でゆらゆら燃えていた。アイリッシュコーヒーを作るときウイスキーとコーヒーを混ぜて揮発したアルコールにマッチを近づけて燃やすというやり方をするそうで、一度見たことがあった。青い炎がゆらゆら静かに渦巻いている。そんな気分だった。


そのあともぼんやり日々を過ごしていたけれど、相変わらず健ちゃんのところには行っていたし授業も受けていたし私は何も変わりませんでした。この些細な変化はいうなればシャープペンシルの芯をHBからBに変えたくらいのもので、葛藤は最初からありませんでした。最初は『健ちゃんのお父さん』だった癖に都合の良い事、あの日からたった一人の『先生』になってしまったのです。

先生に会うたびに段々人というものから離れていった気がします、普通ではないこと、本来ならば奥さんや健ちゃんに罪悪感を覚え、後ろめたさに苛まれるはずなのに私は至って平常で、むしろ自分のためならあのチーズケーキの白い色を赤く染めてしまっても構わないとさえ思っていたのです。

先生はろくでもない人で、私が呼んでいる『先生』というのも、あの人が「明季って青春の思い出って何かあるかな」とかなんとか聞いてきて、そのままいかがわしいところでしか見たことがない薄っぺらいセーラー服を着させられて、当惑と少しの興奮に何もできないでいる私をよそに慣れた手つきでスカーフを外し、私の両手に回して後ろ手にわざと跡になるくらいにきつく結んで乱暴に地べたに跪かせました。ベッドから見下すあの目が忘れられない。先ほどあんなに乱暴だった手は柔らかい果物を触るように丁寧に私の顔を包んだ。指が唇に触れて、その指を唾液で汚したくて赤子が乳を吸うように必死に求めた。舌の肉で硬いものを包んだ感覚はどうしても情欲を掻き立て、爪の先が上顎を撫でると腰が撥ねてしまった。「先生、と呼ぶんだよ」と冷たい目で言われたので頭の後ろが少し痺れました。

先生は滑稽だと思う。あんなに幸せな家庭があるのに。眞沙子さんは昔地域のミスなんとかに選ばれたほどの美人だし料理もうまくて優しい。健ちゃんは科学に興味がある聡明な子。部活も頑張っているようだし聞いた話によると同じバドミントン部の後輩から告白されたようだ。先生自身も真面目な事務で、もし私が第三者で誰かから二回りも違う女と不倫しているなどと聞いても絶対に信じられないような。でも、そういう人だから、そう見えないからうまくやってこれたんだろうな。引っかかった私が一番馬鹿。




夏が隠し切れないそのまなざしを木々に向け始めたころ、その日はやってきた。虫さえ居眠りするような土曜日の昼過ぎ、緑が吐き出した息を吸うように肺いっぱいに空気を取り込んで勉強机に向かったものの結局やる気が出ずぼーっとしていたところに眞沙子さんから電話が掛かってきた。西瓜でも手に入ったのかなと呑気なことを考えながら電話に出ると、息せき切って言語とも嗚咽ともつかないような声が聞こえた。慌てて様子をうかがうと事故に巻き込まれて命さえどうかわからないから健ちゃんと一緒にいてほしいとのことだった。すぐに向かうと答え電話を切って足元を見た。何度か舐められたいつもの私の足があった。何度も意識的に呼吸をした。

神様はなんて幸運をくれたのだろう! 嬉しくて声が上ずるのを必死に抑えて眞沙子さんを落ち着かせ、すぐに向かうと電話を切った。あの時ほど自転車を必死に漕いだ日はないかもしれない。いつもの倍くらいの速さで家に着くと狼狽える眞沙子さんと不安げな顔の健ちゃんがいた。汗だくの私を見ると呆然としていた眞沙子さんははっとして入院用の着替えをもってバタバタと音を立ててすぐに家を出た。連絡がないまま夏の長い陽も顔を隠してしまったので冷蔵庫を勝手に開けて健ちゃんにご飯を作った。土曜日のバラエティー番組のうるさい笑い声の中健ちゃんがぽつりと「お父さんだめなのかな」と漏らしたので「大丈夫よ、きっと」と返した。クーラーの音がとても大きく聞こえた。私が作ったピラフはべちゃべちゃだった。私が教え始めてから二年と少し、目覚ましい成長を遂げたと思っていたが、そういう質問をするほどまだ健ちゃんは子供だった。その夜はソファーを借りて眠った。先生が誰のものでもなくなることを都会の、いるかいないかもわからないような星に願った。夢は見なかった。

翌朝、必要なかった入院用の着替えをもって眞沙子さんが帰ってきた。現代というのはひどいもので家族に悲しむ時間を与えてくれない。悲しむ家族の代わりにいろいろ世話をしてくれる親戚がいるほどここは田舎じゃない。眞沙子さんは役所に書類を出しに行き会社に連絡をして葬儀の準備をして学校にも連絡をした。当然二人は消沈していたけれど、私はいたって上機嫌で、落ち込んでいるふりもしたものの、悲しいながらも気丈に振る舞ういいお姉さんを演じた。


先生におぼれている途中にふと気が付きました。先生は救いようのないクズ、結局私のことは暇つぶしとしか思っていないだろうしただの若い女とセックスできる都合のいい『ビニールづくりのお人形さん』としか思っていないことを。一方私はそんな現実をここまでわかっていながらも自分自身の恋愛を正当化して、どうにかしてあの人を手に入れたいと思っていました。この状況下では略奪婚などとかいう話でもない気がしていました。もういっそ誰のものにもならなければいいのにと思っていました。結局、俗に言う「男の恋は別フォルダ保存」というのは誰が言い出したことか、的を射ていると思うのです。あの人にとっては毎日奥さんのフォルダを開くことも昔の女のフォルダを開くのも容易でしょうしそれが普通なのでしょう。

だから先生がもうこの世からいなくなったと聞いたとき私がどんなに嬉しかったか、どんなに高揚したかわかりません。私のフォルダから『NEW!』が消えることはないのですから。それは少しでも先生と私の距離を縮める一つ基準になりえますから。と、日記に書いた。その横に夏のみどりの小さな虫がいました。か細いその見えないくらいの足が動いているのを見ているとふいにこぼれた涙がちょうどその上にあたって動かなくなってしまいました。


なぜ、あんなに高い煙突が必要なのでしょうか。

「ここに火葬場があるよ!」とでも言いたいのでしょうか。私は家族でもないのに火葬にまで呼んでもらってしまって申し訳なかった。眞沙子さんに「もう明季ちゃんは家族みたいなものじゃないの、健一郎のそばにいてあげて」と言われて健ちゃんと話していた。もしかしたら眞沙子さんは私と先生のことを知っていたのかもしれないと思った。あまり多くはなかったけれど親戚ばかりの中で居場所がなかった私は隅でお茶をすすっていた。

本当に焼けるんだな有機物って、と思った。理科で習った通りだ。炭素は燃える。かさかさの骨は裏に骨髄の赤い色が残っていて不思議だった。いや、骨髄の色じゃないかもしれない。カルシウムの変色__などと考えていたら「明季ちゃんも、ほら」と言われて骨を拾った。そして何を考えたかその骨を手の隙間に滑り込ませた。熱くて皮膚が融けるんじゃないかと思った。焼く前に触った冷たすぎた皮膚とは真逆だった。皮膚は融けてはいなかったけれどいっそ融けてしまっていても何の問題もなかった。元素が交じり合うほど近くに居たかった。ありきたりな言葉だけど一緒になりたかった。涙があふれてきて、ほかの人はきっと悲しんでいるのだろうと思ったのかもしれない。

 ほしかったものを手に入れたものの、何の目的もなかったしなぜあのように行動したかわかりません。けれど結局先生の一部だと考えると大変愛おしくて、誰も触れたことのない骨に触れているかと思うとぞわぞわと昂る気持ちがあふれてきました。くちびるに押し付け、舌の上に乗せ、硬いものと唾液が絡まって目を閉じて、永遠の時が流れたかのような気がしました。その日はちょうど流星群の日でした。ここからは見えなかったけれど、どこかには必ずその星が見えていたでしょう。その日から私は毎日先生に触れるのでした。



 健ちゃんが高校受験を控えるということできちんとした塾に行くことになり私も役御免になりました。なんでも県外の有名な大学を目指しているそうで、出会った頃から目に見えてやつれた眞沙子さんはそこに生きる希望を見出して応援しているようでした。私も卒論をそろそろ詰め始めなければいけないと思っていたところでしたし、都合がよかったのかもしれません。いつでも来てね、と言った眞沙子さんでしたがきっともう二度と亡くした旦那を寝取った女など見たくないだろうなと思いました。あの味はとても気に入っていたけれど、もうチーズケーキは白くはないのです。最後に黒い石の表札についていた砂の汚れを払って立ち去りました。

 同じゼミの人たちと卒業旅行を計画していたとき、候補の一つが私の時を止めました。

それはあの先生とたった一度だけ一緒に行った場所だったのです。



県庁所在地から車で一時間ほどのところにある、隣県くらいまでは有名だがあとは知られていなさそうなところ。広い草原に大きな木が一本あり、その後ろには真ん中から対称になだらかに曲線を描く穏やかな休火山がある。あおあおとしたその色はやはりいつも見ている景色とは全く違った。『夏でも盛りになるまで山頂には白髪を冠し、県民を見守ってきた・・・』とガイドブックに書いてあった。その草原のそばには牧場があり親子連れがたくさん訪れるそうだ。絶対ばれそうにないし、きみ動物とか好きでしょ、と言われて連れられてきた。旅行なんて柄じゃないと思っていたしこの話だってとても急に言われてあたふたしたものだ。新幹線で二時間、大層立派な旅行じゃないか。

お金に余裕のある学生ではなかったので移動といえば長距離バスだったために、新幹線のホームに立つのはとても久しぶりの事だった。クーラーの効かない場所というのが少ないので仕切りのないじめっとした空間のように感じられたが、隣の席に先生がすわるということを考えるとやはりわくわくした。通過の新幹線が減速しながらもなお風を切って進んでいて、目の前を通るとき無風の空間を外側からぱりんと弾くような音がした。

目まぐるしく変わる外の景色がほぼ緑になるのにあまり時間はかからなかった。子供のころから灰色しか知らなかったから、ニュースやドラマで見る一面の緑にいつでも触れられる環境がうらやましかった。なんでわざわざ緑を捨てるんだろうなと上京した友達には思っていたがきっとそれは私と同じで灰色がうらやましく感じたからなんだろうなと思った。死ぬときは緑の中で死にたいとも思った。

先生は廊下側の席でゆっくりとコーヒーを飲みながら新聞を読んだり文庫本を読んだりしていた。ちょっとした変装というか印象操作なのか普段はあまりかけない眼鏡をかけていた。眼鏡のつるの奥のまなざしにどきどきした。至近距離で上から見下してくるあの目、急に動きを止めて、黙って私の手を固く握り見つめてくるとき、窓の外からの街灯の光に反射して銀色に輝いているように見えて忘れられない。私にしか見せない表情___。いや、眞沙子さんだって、他の数々の女だって見てきたか。しかしながら今だけは誰のものでもなく私のものだ。オーバーテーブルに置いてあったコーヒーを飲んだ。ブラックは苦手だ。

到着するとホームはまったく違った空間で、屋根があってそれこそ結構閉鎖された空間なのに続くレールがホームの中まで風の通り道ができていて、何百もの鉄製の風鈴を揺らして涼しげな音を奏でていた。

少し先まで行けば有名な温泉があると聞き、宿もそちらに行くのかと思っていたけど、この微妙に離れた年の男女が仲居さんにとってどんな関係に見えるのかとそのあとの井戸端会議の種にされることを想像しげんなりした。別に怪しまれないところならいいじゃないかと言われたのでどこかいいところを知っているのかと思ったら結局いつも通りの場所を口にしたため、これだから男は、と思った。

レンタカーを借りて北に進んだ。車内には先生が好きな少し古めのJpopが流れていて、どこの誰かもわからない人の歌うそのメロディだけがその時世らしく明るく陽気に陳腐な私たちを嗤っていた。


休日の農場には当然ながら子供連れの家族ばかりで、私たちは気にならないけれど少しだけ浮いていたかもしれない。目の前を特撮物の赤いTシャツを着た子供が走り抜けた。「お母さーん、アイスー!」と少し遠くにいる母親らしき人に向かって叫んだ。

「先生、アイス。」

真似をして真面目な顔で言うと、はいはい、と言って食堂へ向かった。

 食事をとって、名物らしい牧場のソフトクリームを舐めながら座っているとトイレから戻ってきた先生が「こっち」と歩き出した。私も慌てて後をついていった。ソフトクリームのコーンを食べ終わるくらいに先生が急に止まって振り向いた。「ここ」

 広い草原にはたった一本だけ木が佇んでいた。凛として優し気ででも淋しそうな。後ろにはぎりぎり雪が残った山が見えていた。木のたもとまで行って、それだけ。


せっかくこんなに遠くまで来たのだからゆっくり温泉にでも浸かっておいしい地物のご飯を食べてそよかぜの中愛し合いたかった・・・というのは贅沢だった。そもそも立場上は私がそんなわがままを言っていいはずがなかった。

田舎は田舎らしくひどくさびれたそういったホテルがたくさんあって困らなかった。

いつも、恋人らしくするのが嫌だった。気持ちが悪かった。自分の肌を滑る手が生暖かくて気持ちが悪い。内臓と外界を隔てる皮膚を、さもいとおしそうに撫でると、内臓にもその生暖かさは入ってきて、本能的な快楽はそのままに何か汚いものがそばにいるような気がしてならなかった。本当に私はこの人が好きなのだろうか、そういう気持ちにもなった。だからそれを確かめたくて、覆いかぶさっている肉に対して、

「首、首を、___絞めてください」

と言った。明季、と一瞬怯んだようにつぶやき、ごつごつした手が両方首に伸びてきて気道の両側の筋肉が抑えられて皮膚の穴から血が噴き出してしまうのではないか、頭と胴体が切り離されてしまったかのようだった。酸素が乖離していく感覚。太陽を見続けたときにできる緑の陰に燃やされていく視界。その最後の燃え残りに、やっと顔が見えた。

やっぱり好きな、先生だった。


「なんか少し前に流行った映画のワンシーンみたいだね」そういうホテルらしいきつい照明を落とす浴室でさっきまで重ねていた身体を洗いながら先生が呟いた。ほらあの、不倫して最後首を絞めて殺すんじゃなかったっけ、と付け足して。どうせその時の女が好きだった映画だから知ってるんでしょうがと思ったが何も言わなかった。

「びっくりしたけどね。きみ、そんな子に見えないから。」傍から見ればお互いこんなこと《不倫》するようには見えないですけどね、と思ったが軽く笑って、膝の横で揺れている消えかかった泡風呂の残滓を指で区切って遊んだ。

「そんなに俺に殺されたいの?」

そんなわけない、と答えてからふと考えた。果たして私はなぜあの時かのように懇願したのだろうか、考えるほど頭蓋骨からみどりの芽が骨を押しやって伸びてくるような頭痛に襲われた。


 どうも、死ななければいけないと思った。

 それは唐突で、しかしながらどうにもできない衝動であった。昔からあった反射のような、変えられない体躯の動きでもあった。

卒業旅行が終わっていよいよ卒業となった。私は春から書店員になる。けれどもやはりあの木の事が忘れられないのである。日課は続けていた。引っ越しの準備を進めていた時箱の底から櫛が出てきた。例のホテルのアメニティだった。

 車窓の景色は白くなっていった。灰色の街を雪が消していく。芽吹きも近いというのにまだ静かに寝息を立てていた。あの日の新聞の代わりに先生が教えてくれた小説の好きな言葉を拾ったノートを読んでいた。車内販売の女性が横を通り過ぎる。あの日をもう一度繰り返すようにコーヒーを頼んだ。いつの間にかブラックも飲めるようになっていた。

 恋とはここまで自分というものを見失ってしまうものなのかと思う。鬱屈として、大雨に濡れた服をずっと着ているような気持ち悪さ、肌の匂い、綺麗な花を手折りたくなる感覚、明らかな肯定と否定、救いの手が腐って融けてしまうような逃げられさ。平生どんなに理性があろうとも、どんなに自分を抑え込もうとしても砂上の城となってしまう。私は冷静でいたいだけなのにと思う。あの行為だってはたから見れば狂っていたのだ。それでもどうにか己を騙して、目を覆って、日々を過ごしていたように思う。とにかく一緒になりたかった。その感情は子供のそれに近いのかもしれない。先生の体が燃えたとき、分子のひとつひとつまで原子のひとつひとつまですぐ近くに。

先生、私の名前に丸を付けてくれますか。私の人生に丸を付けてくれますか。ノートの表紙のAKIの羅列を見た。こぼれた涙の輪がちょうど頭文字に当たった。



春が近いとはいえ雪国の冬はまだじっとしているようで、早い日暮れに逆らうように反射する真っ白な雪原に、今も淋しくあの木は佇んでいた。世界に誰もいない気がした。私さえも。じっとりとした雪の肌を足跡で汚していく。寒さと重たい足が酸素を奪っていって、全く感覚は違うのにあの時を思い出した。

 この気持ちは次の季節を迎えることができなかったんだな。何かの本で見た繭から出てこない蚕の話のような。幹に触れながらそう思った。

 幹から枝葉を伝って上を見上げると都会では見られないほど星が散っていた。そういえばこの牧場にはSLがあって、レールの先が空に向かっているようなライトアップがされていた。銀河鉄道の夜だ。

 昔読んだ気がするけれど内容はあまり覚えていない。綺麗な女の人が出てきたはずだ。死んだ人を乗せて銀河を走る列車、素敵じゃないか。

 先生の手が柔らかい果物を触るような手つきで頬を撫でたのを思い出した。そして骨を舌に乗せた時の感覚。

 そして、時が、止まる。



『___日未明、県民憩いの場である一本桜付近で身元不明の二十代とみられる女性の遺体が発見されました。首をロープで固定しており縊死とみられています。身分証明書などは携帯しておらず、近くに置かれていた鞄にはポリ袋に入れられた現金と桐箱がみつかっており、県警によると遺書などはないものの自殺とみて身元の確認を行っているとのことです。しかし司法解剖の結果遺体の口腔内から人の骨の一部とみられるものが見つかっていることから他の何らかの事件との関連があるとみて捜査を行っているようです。』







―終―

初出:sonnet90 2016/11/25


 

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