番外編 ツインの部屋

 新大阪から博多へ向かう新幹線の中、ぼくはこの旅で恋人ができはしないかと期待をしている。最後の恋人ははたちのときに別れたマイで、それ以来もう十年近く恋愛をしていない。三十代に入り、周りの友人たちも家庭を持ち始めている。焦るほどではないが、ものさびしさを感じないわけでもない。

 博多では大学時代の友人と会うことになっている。同じ学部、同じ軽音楽部だった男だ。大学を出てから実家の福岡で就職をした。ゴールデンウィークに遊びに来いよと誘ってきた。「どうせ暇を持て余すんだろ」と。

 ソイツが誘って来たのは二月の半ばだった。

「早めにホテル、とっておけよ」

 気が早いんじゃないかと思ったが、その時点でネットで部屋を探しても、既に満室のホテルがいくつかあった。何軒かさまよって、ようやくビジネスホテルにシングルルームを一部屋予約することができた。


「変わらんなあ」

 ソイツは会うなり大きな口を開けて笑う。

「お前もな」

 ぼくも言い返す。ソイツは昔から身長が百八十センチを超え、肥っていた。軽音楽部ではギターを担当していたが、同じギターでも、ソイツが持つと妙に小さく見えたものだった。体が太い分指にもたくさんの脂肪が付いていた。なのにギターの弦を弾く指はとても繊細で、鋭い音色を響かせることで評判が良かった。

「バンド、続けてるん?」

 ぼくは訊く。ソイツは目的を持った足取りでどこかへぼくを連れて行こうとしているようだ。このままついていってみよう。

「いやしてへん。お前は?」

「オレは、まあ、ウッシーらと集まりやすいからな」

「せやな。あのまま大阪に残ったヤツら多いもんな」

「ギター触ってる?」

「いいや」

 ソイツのことばに感情はこもっていない。未練もないのだろう。ぼくは、あれだけ人を魅了する演奏ができたのに、と、惜しく思う。

「あ、ここ」

 ソイツが足を止めたのは、ただのカラオケボックスだった。

 久しぶりに会ったのにいきなりカラオケかよ! こっちは旅行なんやから何かの名所へ案内してくれてもええんと違うんか。まあええわ。コイツはそういうヤツや。昔から気が利かんかった。

 ぼくは文句を心に封じ込め、ソイツのあとから店へ入った。


 ソイツもぼくも、最近の新しい歌を知らなかった。思えば働き始めてから、新しい音楽を聴く時間的な余裕を持つことができなくなっている。自然、歌う歌は大学時代によく聴いた歌になってしまう。ぼくたち、いわゆる団塊ジュニア世代の大学時代は、本当にヒマだった。

 ぼくは端末を操作して次に歌う歌を探す。

 と。

 懐かしいイントロダクション。

 特別に懐かしい旋律。

 顔を上げる。

 そうだ。この歌だ。

 コイツは知らないんだ。ぼくがマイへの思いをこの曲に重ねていたことを。

 ソイツはギターも上手かったが、歌も上手かった。体がデカい上に発声の方法もいいのだろう。腹の底から安定した太くていい声を出す。そして音域も広い。

 ぼくは思い出深いこの歌を、音程を外さずに歌い切ることができない。しかしソイツは音程も外さず、自分の不用意な過ちのために失ってしまった恋人への後悔を、ていねいな気持ちをこめて歌い上げた。

 ぼくの目の前は、ほかの人には見えないスクリーンで塞がれた。そこにはマイがいる。短い髪に細かいパーマをかけたマイ。顔の小さなマイ。色白のマイ。手脚の長いマイ。ぼくに向かって振り向きざまに微笑んで、遠くへ去って行くマイ。華奢な体からは想像もつかないほど、力強い音を立ててドラムを叩くマイ。そうしながら、溜め込んだ何かを暴力的にわめき散らすかのように、髪と汗を飛び散らし、ハスキーな低い声で激しく歌うマイ……。

「おい。次入れた?」

 歌は終わっていた。

「いや。お前続けて歌えや」

 ぼくが言うとソイツは腕時計に目を遣る。

「そろそろ晩メシ行くか」

「ああ」

 ぼくは自分の中に、マイへの気持ちがまだこんなにも強く残っていることに驚いていた。


 マジでコイツ、気が利かん……。

 せめて晩メシくらい福岡名物の、何か、知らんけど、ともかく美味い店へ連れて行ってくれるだろうと期待したぼくがバカだった。

 ソイツが連れて行ってくれたのは、大阪にも、出張で行ったことのある東京でも名古屋でも札幌でも、台北でさえ看板を見たことのある、チェーン店の居酒屋だった。

 のれんで区切られた座敷に上がる。四人席に向かい合う。この居酒屋チェーンは、店ごとのオリジナルメニューというものを持たない。ぼくはここが本当に福岡なのだろうかという錯覚を感じてしまう。

「お前もう食わんの?」

 ソイツが訊く。初めにオーダーしたものは、既に殆どなくなりつつある。

「食いモンはええわ」

 せめて九州の地酒か焼酎でも、と思ってメニューを見るが、やはり大阪で見るものと品揃えに違いはない。ぼくは生中を頼んだ。

 ぼくたちはあまりしゃべらなかった。ぼくはマイのことで頭がいっぱいだった。だから、なぜ目の前に座るデカい男が、この時期にぼくを福岡へ呼んだのかまで、考えを巡らせることができなかった。

 店を出る。

「お前ホテルまで一人で行けるか?」

「ああ。たぶん行けるやろ」

「そうか」ソイツは店の前で立ち止まっている。「オレな、結婚考えてる子がおるねん」

「へえ」

 どう反応していいのかわからない。

「その子も乗り気でな。秋くらいには式挙げると思うんや。ウッシーらにそのこと言うといてくれるか。式に呼ぶことはできひんと思うから」

 それでぼくを呼んだのかとやっと気づいた。

「ああ。良かったな」

 ぼくはソイツの分厚い肩を後ろから軽く叩いた。

「お前にもええ出会いがあったらええな」

 ソイツは、月も星もない、のっぺりとした雲に覆われた空を見上げながら言った。


 ビジネスホテルはすぐにわかった。

 フロントにはひょろりとした青年がいる。名前を告げると、

「シングルのお部屋をご予約でしたが生憎満室でして、ツインのお部屋をご用意させて頂いております」

 と、頭を下げる。

 これまでにも出張に出かけたときにそういうことは何度か経験している。同じ料金でツインの部屋に泊まれるならラッキーだ。カードキーを受け取り、エレベーターに乗った。


 シャワーを浴びて歯磨きも済ませ、窓際のベッドに横たわる。

 夕方思い出したマイの面影が、またぼくの目の前を覆っている。とても眠れそうにない。あれだけビールを飲んだのに。

 目を閉じる。

 やがてほのかに畳のイグサの香りが鼻を刺激することに気づく。

 懐かしい。なぜ?

 そうか。大学時代に暮らしていた文化住宅の部屋の匂いだ。

 その香りはまたマイを連想させる。あの部屋でマイを抱いた。何度も抱いた。初めて愛を以て抱いた女。お互いに本気だったから、お互いに許せずに終わってしまった女。

「ヒロシ」

 低い女の声。

 目を開けると、短い髪に細かいパーマをかけたマイの小さな顔が、ぼくの目の前にある。

 マイはぼくの顔に覆いかぶさり、唇を塞ぐ。

 嗚呼この柔らかさ、このぬくもり! 間違いなくマイだ。

 マイと舌を絡ませる。マイを自分の下に横たわらせる。

 小さな胸。痩せすぎて指でなぞることができるあばら骨。全てがいとおしい。

 ぼくは高校時代からよくモテた。告白してくる女の子とは全て付き合った。二股も、最大で六股をかけても平気だった。もちろん彼女らとは肉体関係ももった。しかしぼくは彼女らの誰一人、愛したことはなかった。だけどそれが「十代後半の恋愛なのだ」と思い込んでいた。

 大学に入ってもそれは変わらなかった。しかし次第に、同じ軽音楽部の一つ上の先輩であったマイだけが、特別な存在になってきた。

 独り占めしたい。ずっと離れたくない。

 そんな激しい感情をいだいたことは生まれて初めてのことだった。

 ぼくは自分からマイに告白をした。マイはOKをしてくれた。

 それまでのぼくにとってセックスは、playに過ぎなかったし、そういうもんだと思っていた。よく歌詞に出てくる「make love」というニュアンスが、ぼくにはさっぱりわからなかった。

「この程度のことで『愛を育む』なんて感覚、到底ならんよなあ」

 ぼくにはその英熟語が不思議でならなかった。セックスとマスターベーションがもたらす快楽に、あまり違いを感じられなかった。

 しかし初めてマイを抱いたとき。ぼくは自分の舌も、指も、脚も、全身が震えていることに気づいた。マイはやさしく笑った。

「どうしたん? アンタらしくもない」

 マイもぼくが遊んでいることを知っていた。

「愛した人はこれまでなかったから」

「じゃあ初体験?」

「うん」

「誰にでも言ってるんちゃうん」

「ううん。ほんまに初めて」

 するとマイから唇を重ねてくれた。

 マイはこれまで抱いた誰よりも、小さかった。そしてすぐに潤った。これまで抱いた誰よりも、たくさんの体液で潤った。マイの中はこれまで抱いた誰よりも、温かかった。

 それは今も変わらない。ぼくはすぐに射精してしまった。

「まだできる?」

 マイはやわらかな声で訊く。

「ああ」

 三十を過ぎても相手がマイならば、一晩中でも抱き続けることができそうに思える。

「来て」

 マイはぼくの背中に手を回す。

 学生のときのぼくは、マイが初めての特定の恋人だった。抱き合いながら幾度も「愛してる」と囁き合った。ときには叫びながらエクスタシーを迎えたこともあった。本当に愛していた。しあわせだった。

 だから、一度くらい軽い遊びでほかの女の人とネても、マイなら許してくれるだろうと考えた。誘ってきた人を抱いた。ぼくはその人と関係を持って改めて、これまでよくこんな刺激のないセックスで満足できていたものだなと感じた。

 ぼくは素直にそのことをマイに話した。だけどぼくには自信があった。その人とネたおかげで、マイが特別なのだとはっきりと認識することができたから。マイもきっとそのことを理解してくれる、許してくれるだろうと考えていた。

「もう信じられへん。ヒロシがほかの女の子としゃべっているのを見るだけでも、ヒロシはその子のネるんやろうなって想像してしまう。アタシに言うみたいに『愛してる』って言うんやろうなって疑ってしまう。

 ごめん。もう無理。アタシのことは特別やって言ってくれてたからこれまでは信じてたけど、だからこそ一回の裏切りで受けた傷は深いわ」

 マイの言うことももっともだと思った。

 でもぼくはぼくなりに、改めてマイでないとダメだと感じたことを伝えた。

「誰にでもそう言ってるんやろ、って思ってしまう。もうあかん。ヒロシとはもうあかん」

 マイは泣いた。泣きながらぼくの部屋から出て行った。畳の匂いのする部屋から去って行った……。

 畳の匂いがする。マイの使っていたシャンプーの香りがする。二十代のマイが今、三十を過ぎたぼくの胸へ、細かいパーマをかけた髪の毛を広げている。

「愛してる。マイしか愛せない。ずっと言いたかった」

 マイはぼくに軽く唇を重ねる。その感触があまりに心地良く……ぼくはそのまま深い眠りに落ちた。


 翌朝。

「え?」

 ぼくはシングルルームで目が覚めた。

 慌てて着換え、食事も済ませ、チェックアウトをする。

 フロントへ行くと、昨夜のひょろりとした青年が立っている。

「あの、佐藤ですけど。ぼくが昨夜泊まった部屋って、ツインに変更になったんですよね?」

「少々お待ちください」青年はカウンターの向こうでコンピュータを操作する。「佐藤ヒロシさま。いえ。シングルです」

「え、でもお兄ちゃんがシングルが埋まってるからツインで、って……」

「いいえ、シングルです」

 彼は、酔っ払ったせいで記憶違いしているオッサンを、煙たくあしらうように言う。

「すみません。お手数おかけしました。ゆっくり休めました。有り難う」

 ぼくは青年の機嫌を取るように言って、ホテルを出た。


 博多から新大阪までの新幹線の中。

 行くときは、ヨコシマな期待をいだいていたのに……アイツがあの歌を歌ったせいだ! マジで気が利かん。

 でもそれがただの八つ当たりに過ぎないことは、ぼく自身が一番よく知っている。

 マイが良かったなあ……。

 マイの中の温もりまで感じたきのうの夜。なんの証も残ってはいないけれど、幻と呼ぶには残酷過ぎたできごと。

 またこれでしばらくマイのことが忘れられなくなって、新しい恋愛どころではなくなりそうだ。

 ぼくの残念な独身生活は、まだまだ当分続くことになりそうだ。


四百字詰め原稿用紙換算 十六枚

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残念な佐藤さん CHARLIE @charlie1701

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