第6話 残念な佐藤さんと、病院のエレベーター(原稿用紙11枚)

 二〇一四年九月。秋分の日まで、四連休だ。連休の最終日であるきょう、九月二十三日火曜日の午後、ぼくは近所にある病院へ向かう。午前中は割と涼しかったのだが、午後になって陽が強くなり、歩いているとTシャツの背中を汗が垂れてくる。

 ぼくは、近所を走っている大阪中央環状道路の歩道を、北へ向かって歩いている。ぼくが住んでいるマンションから、通称「中環(ちゅうかん)」は、片側二車線の道路である。乗用車、軽自動車、トラック、タクシー、大型バイクや原動機付自転車など。きょうもたくさんの車が大量の排気ガスを吐き出しながら走っている。ときおりクラクション同士の短い会話が飛び交うこともある。

 中環に沿って北へ徒歩五分の所にある病院へ、会社の上司が入院している。盲腸をこじらせた腹膜炎にかかり、しばらく入院することになったと、昨夜電話がかかってきたのだ。

「どうせお前はタイクツしてるんやろ? 見舞いに来い」

 と、ふざけた上司の声は、病人とは思えなかった。

 ぼくは別に退屈はしていなかった。連休の真ん中の二日間で奈良へ行き、飛鳥地方の寺社や古跡を巡って来た。連休最後の日は、翌日からの仕事に備えて体を休めておこうと考えていた。旅のあいだの片づけもしないといけないし。

 でも、ま、マンションから徒歩五分の所にある病院へ上司を見舞う時間がないほどには、忙しくはない。

 ぼくは一旦マンションの南にあるスーパーへ寄った。親しいとは言え相手は上司だし、入院しているわけである。見舞いの花でも持って行かなければ、退院してから職場でまた、「サトウは気の利かないヤツだ。だからケッコンできないんだ」と、みんなの前でいじられるだろう。小さなひまわりが三本とかすみ草が束になっている、五百円ほどのものを右手に持ち、ぼくは北へ向かっている。いやがらせに菊を買おうかとも考えたけれど、そのせいで上司が悪くなったらさすがにシャレにならないと思い、やめた。

 上司は病院の六階にいた。四人部屋の窓辺に横たわっている。浅黒い顔がそれまでより縮んだように感じられ、嗚呼病人なんだなという実感が初めて湧いた。

 それでもその上司のユーモアは健在で、ぼくが花束を渡すと、

「お前、案外マトモなトコあるんやな」

 と微笑んだ。「ちょうど家族がメシ食いに行ってて、構われへんけどすまんな」

 連休はきょう、二十三日で終わる。上司の退院は、連休が明けて平日になり、二十六日の金曜日になりそうだとのことだ。

「また仕事の帰りにでも寄ってくれや。どうせお前、ヒマやろ? 手ぶらでええからさ」

「気が向いたらまた来ます」

 ぼくは笑って丸いパイプ椅子から立ち上がった。

 この病院の一階にある外来へは、風邪を引く度に訪れている。また、ぼくは目にアレルギーがあるから、二か月に一度、眼科にも世話になっている。重宝な病院なのだ。しかし一階以外の病室へ来るのは初めてだ。古い病院だから、蛍光灯が黄ばんでいる。白かったはずの廊下の壁も黄色っぽく見える。ほかはどこの病院とも同じように、ナースステーションがあり、看護師たちが詰めている。

 どこの病院とも同じように?

 ぼくは自分がどこの病院と比較したのだろうと、ふと、考える。

 考えながらエレベーターの前に立ち、下へ降りるボタンを押した。

 ポンという、古びた病院らしからぬ新鮮な音を立てて、エレベーターの扉が中央からひらく。中へ入り一階のボタンを押す。扉が閉じる。

 と。

 下へ向かって動き始めるはずのエレベーターは、上へも下へも、当然右にも左にも動き始めようとしない。

 どこかでもこんなことがあったな。

 そう感じたとき、ぼくの頭がぐらりとゆれた。床もゆれている。弱い地震が起きたような感覚、めまいだ。

 これもどこかで経験した。デジャヴではない。あのときはどうしたのだったか? あれはいつの、どこの病院だったのか? 思い出せない。

 少なくとも今は、今のぼくにできる限りのことをしようと思う。

 もう一度下へ降りるボタンを押す。一階のボタンを押す。

 何ごともなかったかのように、エレベーターは降下をし始め、薄情なほどにあっさりと、ぼくを一階でその内部から追い出した。

 大阪中央環状道路を南へ向かいながら、ぼくは考える。

 四十歳を過ぎてはいるが、身内で入院をした人はそれほどいない。幸い、実家の両親も健在だ。見舞いに行ったことと言えば……。

 そうだ。姉だ。

 ぼくには六つ年上の姉がいる。ぼくが大学に入った年に二十四歳で結婚し、ぼくが大学三年の夏――あれもちょうど今と同じ九月だった――に、初めての子どもを出産したのだ。ぼくは、当時暮らしていた、大阪府南東部にある南大阪市から、兵庫県の瀬戸内海側、明石市の西隣にある播州市へと、車で帰って来た。大学時代は軽音楽部の活動をしながら、アルバイトもかなりしていた。バイトで貯めた金で車を買った。ぼくたちの時代はそういうのがまだ当たり前だったのだ。

 姉の出産の知らせを母から電話で受けた翌日、ちょうどバイトが休みだった。大学はまだ夏休み期間だったので、ぼくは阪神高速から第二神明高速道路を経由して、姉が入院している病院を訪れた。

 姉は五階に入院していた。ぼくははたちそこそこで「おじさん」になった。今ではこのときに産まれた甥からも、「残念なヒロシ」とからかわれている。姉のしつけが良くないのだ!

 姉には両親が付き添っていたし、義兄さんもいた。義父母も近くに住んでいて顔を出すことがあると聞いていたから、ぼくは姉と甥の顔を見て、両親にあいさつをしただけで、病室を出た。

 そのときだった。エレベーターがゆれ、ぼくに「反抗した」のは。

 だんだん思い出してきた。あのあと、病院から高速道路の入口へ行くために、えらく時間がかかったのだった。

 その道は、その数年前、地元で教習所へ通ったときの、路上教習のコースだった。走りなれていて、迷うはずのない道だった。病院はインターを降りてすぐ南に位置していた。だからぼくは病院の前の道を、ただ五分ほど、北へ向かえばいいだけのことだった。

 なのに。行けども行けども高速の乗り口へ辿り着かない。それどころか、車窓から見える景色に、だんだんと田んぼが見えて来る。刈り取りを間近に控えた稲の群衆が、不安がっているぼくを嘲るように、みんなで揃ってぼくに背を向けているみたいに感じられた。

 こんな道、走ったことがない……おかしい……。

 ぼくは、播州市の北に位置する、稲多(いなだ)市を走っていることに気づいた。

 当然入ったことのないスーパーを見つけ、その駐車場で元来た道へと方向転換をする。道路標識に従って、なんとか高速道路に乗ることができたのだった。

 戻りながらぼくは、病院から出るときに、一本西にある道に入ってしまっていたのだなと気づいた。

 それにしても、あの病院からインターチェンジの乗り口は、あんなにわかりやすい立地にあるのに、どうして違う道に入り込んでしまったものか……。

 大阪中央環状道路を南へ向かって歩きながら、ぼくは若い頃の自分を苦笑する。大学を出てからずっと大阪に暮らしていて、地元へ帰ることはあまりない。だけど、地元で道に迷ったことなど、あとにも先にもあれ一度きりだ。

 と。

 あれ? いつの間にか左手に走っていた環状道路が見えない!

 それどころか、ぼくが住むマンションよりも、さらに南にあるはずの、環状道路からさらに奥まった場所にあるスーパーの、白地にオレンジ色のロゴが入った看板が近づいている!

 そのスーパーは、さっき上司のために花を買った店よりも、少し高いが新鮮なものを置いているから、散歩がてらにたまに来ることがある。だけどきょうは別に必要なものはない。もちろん、来るつもりなどなかった。なんでぼくは今この道を歩いているのか……?

 スーパーの手前の道を左に曲がる。府営住宅の前の細い道を歩くと、五分ほどで中央環状道路へ出る。ぼくはその歩道を北へ向かう。さらに十分ほどして、ようやくマンションへ戻ることができた。

 言い訳ではないが、ぼくは霊感などちっともないと思っている。寺社巡りを趣味にしている人には、霊感がある人もいると聞いたことがある。しかし残念なことに、ぼくにはそのような特殊能力が身に着く気配は微塵もない。

 半年ほど前、バンドの練習を、ある貸会議室でしていた。練習が終わったあと、めいめいに楽器を片づけているとき、ほかの三人は同時に手を止めて、「あっ!」と、短い声を出した。その声には、驚きと恐怖が入り混じっていた。なんでも、ミシリという、いわゆるラップ音だ聞こえたそうだ。ぼくだけに、その不可思議な音は聞こえず、さらにぼくは仲間たちから残念呼ばわりをされるようになったのであった。

 それにも関わらず。入院している人を見舞い、エレベーターに乗るたびにめまいを起こし、エレベーターはぼくの指示に従わず、その帰り道には、ぼくは道に迷うようだ。

 まだ陽が傾く気配はない。ただただ暑い。もう汗だくだ。

 上司の見舞いからすぐに戻るつもりだったから、クーラーをつけっぱなしで外出しておいて、良かった。

 ぼくはエアコンが効いた部屋に帰るなり、冷蔵庫から缶ビールを取り出し、立ったまま一気に飲み干した。

 残念で奇妙なできごとに巻き込まれやすいぼくにとって、それが至福のときなのである。


四百字詰め原稿用紙十一枚 了

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