第5話 男たちが消えるわけ(原稿用紙19枚)
二〇一四年二月十六日日曜日の午後。四十歳独身のぼくは、毎週恒例になっている部屋の大掃除を終え、テレビでソチオリンピックのダイジェストを眺めていた。今夜はバンドの練習がある。もしなくなったらオリンピックを生中継で楽しむことができるのにな、と思っていたとき、目の前の黒いテーブルに載せていたブルーのスマートフォンが鳴った。ウッシーと表示されている。電話に出る。
「ヒロシィ? きょうの練習なぁ、悪いんやけど休みにしてええかぁ?」
ウッシーの、上を向いた鼻の穴が目に浮かぶような、のんきな口調だ。
「ああええで」
ぼくとしては嬉しいことだ。でもなぜ急に休みになるのだろう。珍しいことでもないのではあるが。
「いきなりヨメが買いものに連れて行ってくれって命令して来てな……オレは前からきょうはバンドの練習やって言うてたのに……さっきケンに電話かけたらなんや『助かるワ!』ってエラい喜ばれたし……お前もええって言うてくれたらこのあとコウちゃんにもオレから連絡して、スタジオにもオレから電話しとくけど」
「せやからええ、ってば」
苦笑しながら言う。
「じゃああとはまかせて。済まんな。じゃ」
ウッシーは通話を終える。
バンドの練習が急遽休みになるのは、いつも大体こんな理由だ。子どもがキャンプに行きたいと言い出したから、とか、実家に帰ることになってしまったから、とか。
それにしても。
ケンがきょうの休みを喜んだって?
ケンの家庭の事情が原因で練習が休みになったことは……そう言えば一度もないなぁ。まあそれはぼくにしても同じだ。
そして、ぼくは独身で、今は特に付き合っている相手がいないせいもあるのだけれど、ケンの場合は家庭で一種の「虐待」を受けていて――でもケンは、そういう待遇に悦びを感じている、かなりのヘンタイなのである――、とは言え、バンドの練習のために家を抜け出せることを唯一の息抜きとして楽しみにしていると言っていたことも記憶している。
と。
また電話が鳴る。今度はケンからだ! さっきのウッシーからといい今回のケンからといい、考えている相手から考えているとおりの電話がかかってくる! 超能力が身に付いたんじゃないかと、興奮を覚える。
「どないしてん」
ぼくの声は、明るい。
「ウッシーから電話あったか?」
「ああ」
「お前、今晩、ヒマやろ?」
「決めつけんなや」
「なんか用事あるんか?」
「いやないけど」
「オレんちの近所で一緒に晩メシ食わへんか?」
「それやったらオレんち来いや。手料理食わしたるで」
「……」
ケンはしばらく黙り込む。
ケンの長方形の輪郭をした、肌が浅黒く、彫りの深い目元、横から見ると二等辺三角形の形をした高い鼻を思い浮かべる。
オトコマエやのに「残念」なんは、ケンもオレも似たようなもんヤナ。
そう考えていたとき、
「いや。やっぱりお前が来てくれ」
ケンの声にはどこか、とても重大な決心をしたような、切羽詰まった響きがある。
「なんかあったんか?」
心配になるじゃないか。
「大したことやない」ケンの口調は相変わらず重い。「まあ、会(お)うてみて、なりゆき次第で話すか話さんか、その程度のことや」
「ん」
ぼくは二十年来の友人のことばを信じる。
ケンは午後六時に、ケンの家――マンションではなく一戸建てに家族で住んでいるのだ。大阪市内への通勤圏内に家を持てることは、裕福な証拠である――の最寄り駅である、阪急西茨木駅の高架下にある、書店で待ち合わせることが決まった。
「ああ!」通話を終えてから、叫ぶ。「オリンピックが見られへん!」
でも特に応援している選手がいるわけでもなく、好きな競技が今夜行われるわけでもないので、
「まあええわ」
とぼくは、テレビでつづいているオリンピックのダイジェストを眺め始めた。
午後五時半にマンションを出る。きのうは午後にみぞれが降るほど寒かった。しかし、夜に散歩に出たときには、みぞれを含んだ雲は大阪市北東部に位置する中新庄(なかしんじょう)の上空からは離れていて、真ん丸な満月を見ることができた。
「今夜は十六夜(いざよい)やなぁ」
駅へ歩きながらつぶやく。まだ陽は沈んでいない。お天気キャスターのお姉さんが言っていたとおり、前の日に低気圧が通り過ぎて空気が入れ替わったようで、きょうは夕方になってもまだあたたかい。セーターの中に着る服を一枚減らし、コートを羽織って来た。
まだ空に月は昇らない。
電車で東へ向かいながら、考える。ケンのことだ。
もう三年半ほど前になるか。確か二〇〇九年のことだったから、ぼくは三十六歳だったはずだ。ちょうどぼくが最後の恋人と別れて気落ちしていたのと同じくらいの時期だった。
ケンは十年間同棲していた彼女に部屋を追い出された。そして、赤サビがあちこちにこびりついた自転車に乗って、ぼくのマンションへ住み着いた。
しかしその三か月あとには、取り引き先の部長という、ケンより五つ年上で、バツイチで、当時小学五年生だった娘のいる女の人とデキてしまい、その人が暮らしていた西茨木の一軒家――今ケンが住んでいる家だ――へ、あっさりと引っ越してしまった。ボロい自転車は、今もぼくのマンションの駐輪場に残っていて、年に一度くらい管理人のおじさんから、どないかしてくれとイヤミを言われている。
部長さんは、営業で自分の会社を訪れたケンが、イケメンだからという理由で興味を持った。次第にケンの、ノリが軽くてお調子者なところに癒やされるようになってきたと言って、部長さんのほうからケンにプロポーズをしたそうだ。娘さんもケンのことを、「おもろいおっちゃん」と捉え、よくいじっていたらしい。
しかし、相手は年上の部長さん。四十歳になるかならないかで、母子家庭だというのに、茨木市に一軒家をかまえることができるほどの高給取りだ。一方のケンは、いまだに営業の平社員(ぼくでさえ「主任」という肩書きがあるのだから、ぼくだけが「残念」と呼ばれるのは、不本意だ!)。
家事はもともとケンの担当だった。始めのうちこそ娘と一緒に料理をしたり洗たくものを畳んだりしていたそうだが、その娘も今では中学二年生。反抗期の最中だ。ケンとは口をきかなくなり、家事を手伝うこともしなくなったうえに、ケンに対して、
「ハンカチのアイロンのあてかたが違う」
「洗たくもののニオイ、これじゃイヤ。洗剤前のんに戻して」
「このみそ汁、だしが薄くてマズい」
などなど、命令を下すようになった。
ケンは――これを当人に指摘すると頑なに否定するのだが、バンド仲間の意見は一致している――かなりのマゾだから、そういう家庭を楽しんでいる。月に一度のバンドの練習を唯一の逃げ場にしているというのは嘘ではないだろうが、家族内での自分の立場について、それほど苦痛も感じておらず、我慢しているという実感もなさそうで、ぼくに対しては、
「ケッコンってええぞぉ。はよお前もケッコンできたらエエのになぁ」
と、自慢までして来る始末。
ウッシーやコウちゃんの家族ならともかく、ケンみたいに虐待されるくらいなら、独身のままのほうがよほどしあわせだと思うけど、ケンには言わない。
阪急電車のロングシートの後ろの窓。まだ暮れきらない空の低い位置に、真珠のような光沢がかすかに見え始めている。
西茨木駅に着いた。
自転車の処遇を、今夜こそ相談しよう。
ここへはこれまでにも何度か来たことがある。ケンが指定する待ち合わせ場所は、いつも同じだ。このワンパターンなタンジュンさは、「残念」なぼくでもかなわない。改札が二階にある。階段で一階へ下りる。高架下に当たる部分にコンビニエンスストアと書店が並んでいる。
狭い書店だ。背中合わせに置かれた本棚の隙間は、五つほどしかない。奥へ向かって並んでいる棚も、それぞれ三つほどだ。
だからぼくは、背の高いケンを、すぐに見つけることができた。
ケンはぼくに気づくなり、腕を取り、店員に顔を見られたら具合が悪いとでも思っているのか、まるで警官を恐れる指名手配犯のように身をかがめ、こげ茶色のコートのフードで顔を隠し、店を出る。却って挙動不審だ。バカか、こいつは。
「ハンバーガーでええやろ?」
ケンは店の前で言う。ケンの視線は、左斜め前のスーパーを見ている。前にもそのなかのハンバーガーショップへ連れて行かれた記憶がある。
「お前、ほかの店知らんのか」
この二階、改札を出た隣に、ファミリーレストランののぼりが立っているのを、さっきも見た。
「い……いややったらよそでもええで」
ケンが言い澱んでいる。
「ええで」
ファストフードでなければならない理由があるのだろう。
「悪いな」
ケンはスーパーのほうへ歩き始めた。
「今夜の練習が休みになって、オレ、マジで助かったわ」
そう言えばウッシーからも、そのようなことを聞いていたなと思い出す。
「なんでなん?」
虐待家族から逃げ出したいのではないのか?
「オレ今全然金ないねん」
「じゃあなんでオレを誘うねん」
「月に一度は息抜きせんとアカンやろ?」
ケンは苦笑いをする。
こんなに家に近い所で息抜きか?
冷やかしたいが、黙っておく。
日曜の夕方のスーパーは、家族連れで賑わっている。ぼくらはそのあいだをゆっくりと歩く。
一階の一番奥、隅の薄暗い場所に、ハンバーガーショップがある。
「いらっしゃいませぇ」
女性の店員の明るい声が出迎える。
店はすいている。右手奥を覗く。制服を着た女子高生が四人はしゃいでいる。
レジには並んでいる客はいない。
「何にしよっかなぁ……」
ぼくはレジから三歩ほど離れた位置から、店員さんの背後、頭の上に、電光掲示されているメニューを見上げる。
「オレ、ハンバーガーセット。ホットコーヒーで」
ケンはぼくに言う。
「ああ勝手にせぇや」
とぼくは隣を見る。
そこにはケンがいるはずだった。
が。
そこにいるはずの、ケンがいない!
「おいケン!」
「何ぃ?」
ケンののんきな声がする。
しかし。
姿は見えない。少なくともぼくには見えない。
店員の女の子は、カウンターのなかでほかの年配の女性店員と談笑していて、ケンの消失には気づいていないようだ。
振り返る。
ハンバーガーショップの自動ドアは薄茶色のガラスでできていて、スーパーのなかの景色ははっきりとは見えない。
奥にいる女子高生たちも、自分たちの話題に夢中で、冴えない中年のおじさんたちには見向きもしない……。
「お前決まったんか?」
ケンがいるべき場所から、ケンの声だけが聞こえる。
「ああ……お前……姿が見えへんぞ……」
「アホか! 何しょうもないこと言うてんねん。
すいません。ハンバーガーセット、ホットで」
ケンが店員の女の子に言う。
彼女は、驚いて、前後左右をきょろきょろと見回している。
「お前は黙っとけ」
ぼくは、これは良くない事態だと察したので、自分の分の注文と一緒に、ケンのオーダーも彼女に伝える。
「かしこまりました」
店員の女の子は、「ゼロ円」のスマイルをぼくに向け、厨房に注文を通す。
「なんでや?」ケンの声は戸惑っている。「最近よう店員に無視されるねん。あと、牛丼屋で順番抜かしされたり……」
「お前が消えてるからや」
「そうやったんか……」
「おい。三百五十円、出せや」
「おお」 ケンの返事とともに、さいふのなかで小銭をいじっているコチコチという音が聞こえる。「嗚呼……」
ケンは突然叫ぶ。
「どないしてん」
ぼくは、ケンの声をほかの人には聞かせてはいけないと思う。
「十円足りひん……悪い。十円貸してくれへんか……?」
ぼくはめんどくさいので、全部を立て替えておくことにした。交通費を払ってわざわざここまでやって来たのだから、おごりにはしなかった。ぼくはケチか?
商品を受け取り支払いを済ませる。
「有り難う」
礼を伝えると店員の女の子は頭を下げる。
と。
ケンの姿が隣に戻っている!
顔を上げた女の子はケンのことを新しく入って来た客だと勘違いしたようで、
「いらっしゃいませぇ」
と明るい声を掛ける。
「あ、コレ、オレのツレ」
ぼくは苦笑いをして、奥のテーブル席へトレイを運んだ。
「お前のその現象、何なん?」
「わからん……」ケンの彫りの深い目は、ぼくがかぶりついているビッグサイズのハンバーガーを、うらめしそうに見ている。「そう言えば……金欠のときに、よう順番抜かしされる気がする……」
「クレジットカードは?」
「カード払いのときは、大丈夫」
「周りの人から怪しまれたことはないんか?」
「なかった……と思う……」
「今夜バンドの練習が休みにならんかったらどないするつもりやってん」
「ヨメから借金するはずやった」
「よう借りるんか?」
「……まあな」
ケンはドM特有の、抑圧にうっとりした、不気味な微笑みを浮かべる。
「お前さぁ」ぼくは確認する。「電車代ケチって、オレんちに来るの、断った?」
ケンの職場はぼくのマンションとは逆方向にある。だから定期が使えないのだ。
「……ああ」
「そう言えばお前の会社、給料日二十日やったよなぁ?」
ぼくと同じと記憶していた。
「嗚呼……あと四日もある……」
「あしたからは弁当持参やな」
「……」
数か月後。
ぼくは出張に出た。打ち合わせが終わったのは夕方で、食事を済ませてから中新庄へ戻ることにした。
ファストフード店に入る。
紺色のスーツを着た男性の後ろに並ぶ。
例によってメニューを見上げる。
注文するものが決まったので、ブリーフケースからさいふを取り出す、うつむく。
と。
前にいたはずの、紺色のスーツの男性が、いない!
もしかして、と、ぼくはケンのことを思い出す。
「並んでますか?」
男性がいるはずの、彼の耳元に当たる場所で、小さな声で、尋ねる。
「はい」
怒ったような返事。
「お手伝いしましょうか?」
「え!」男性は冷や汗をかいているのではないかと思わせるほど、驚いている。「また消えてるんですか!」
「ええ。ぼくのツレにも同じ症状の男が一人おりまして……」
食事を済ませて中新庄へ戻る阪急電車のなか。
「オレもいつかケッコンしたら、ヨメさんにさいふ握られて、給料日前に『消える』ようになるんかなぁ……」
夏の陽は、まだ明るい。
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