第4話 プラス・マイナス 後編(原稿用紙20枚)
わけもなくゴキゲンなコウちゃんの無駄に長い話を、わけもなく不機嫌なぼくは、
「いつまでつづくねん。せやからナニやねん」
とますます苛立ちながら聞いている。
しかし、ぼくらに対して言いにくそうなことでも上手に指摘できるコウちゃんが、後輩に対して上手く指導することができないという欠点を知ることができたのは……今のぼくにとっては、
「ざまあみろ!」
という、ひねくれて意地悪な快感を呼び覚ましてくれる発見だ。
しかも、コウちゃんは、お父さんが新潟県の市長をしているとあって、育ちがいい。ぼくらの前では情緒も安定しているように思っていた。なのに、前の日に起きたいやなことを翌日にひきずる性質だということも意外で、ぼくのほうがそういう面では強いじゃないかと……コウちゃんの弱みを一つ握れた、暗い悦びが心に充満して行くのを感じている。
「ここからが大事なんです」コウちゃんは普段よりも三分の一くらいゆっくりな調子で言う。「もう少しで終わりますから、聞いてください」
コウちゃんの視線がぼくではなく、ケンに向いていることに、ぼくはまた腹が立つ。
しかし、コウちゃんがぼくらを招集したきっかけになったのは、ボーカルのケンがむしゃくしゃして歌を中断したのが直接のきっかけだったわけで、ぼくがここまで得体の知れない不快感をいだいていることは、まだ誰にも打ち明けてはいないのだから仕方のないことだ……と、怒鳴り出しそうになる自分を抑えた。
* * *
いつも見る職場。大して内容の違わない書類で、ゴミゴミしている職場です。しかしそこにも冬の朝の透明な光が射し込んで、まるで違った景色に見えました。
と。
「課長」と、局長が言いました。局長は五十代半ばの男性です。「なんできのうの日報がまだ残ってるんですか」
前日の日報を前日のうちにポストへ投函し忘れて、翌日の朝に投函するということは、しょっちゅうあることなんです。
「朝一番の便(びん)で送ればいいじゃないですか」
五十代初めで女性の課長が言い返しました。
「こんないい加減な仕事を見せるから、新人が伸びないんじゃないですか」
局長は額(ひたい)に青筋を立て怒っています。ちなみにこの局長は、日ごろはいるのかいないかもわからないくらい無口で、局にかかって来る電話に出る以外、めったにしゃべらない人です。いつもにこやかで、却って何を考えているかわからないほどなんです。
だから、ぼくと新人くんと、ほかにもう二人いる女性の職員は、二人の上司が言い争うところなどこれまでに見たことがなく、掃除する手を止めて二人の様子に見入りました。
「何を見ているんですか。さっさと掃除しなさい!」
局長はぼくたちに命令をして、課長との口論の続きに戻ります。
「これまでのウップンが爆発してもたんかなぁ」
女性の職員は二人でコソコソしゃべります。
ぼくも単純に、そうなのかなぁと思いました。
九時になると局があきます。タイマーで自動ドアがひらく仕組みになっています。とたんに、貯金・保険の窓口で使われる番号札が次々に引かれ、あっという間に五人待ち。
ぼくはその日、前の日と同じで、郵便の窓口の担当でした。郵便の窓口にはまだそんなに客は来ていませんでした。
ぼくの勤める局では、貯金・保険の窓口は、つねに五人待ち、月末の給料日あとなどは十人待ちをこえることも普通で、お客さんもそれを覚悟で来ているみたいです。
そのころには局長と課長との口論もおさまっていましたけど、職員同士のやりとりは、どことなくぎこちなさが残っていました。とは言えみんななれた仕事だから、お客さんにそんな素振りを感じさせるほどでもありませんでした。
十一時を過ぎたとき、それは起こりました。
「もう! いつまで待たせるんよ!」
よく来る近所の女性でした。いつもにこにこしていて、職員たちとも顔なじみで、みんな名前を覚えている。覚えていないのは新人くんくらいのものでしょう。
窓口の奥で事務仕事をしていた課長が、窓口に出て来ます。
「大変申し訳ありません」
課長は、窓口の職員の仕事を一瞬で見て取りました。ぼくのいる郵便の窓口は相変わらずそれほど混まなかったので、貯金・保険の窓口の様子を横目で見ていたんです。
まず女性の一人のところへ貯金と保険の相続の相談が来ています。これは非常に時間がかかります。小一時間はかかるんです。
その次に、別の女性職員のところへは、保険の入院請求の手続きが来ています。これも三十分はかかる作業です。
残るは新人くん。彼のところには保険の貸付の手続きが来ていました。これはなれればどうということはない処理なんですけど、何せ問題の「新人くん」。もたもたしていて一向に機械処理まで辿り着かないんです。
「どの窓口もややこしいことをしておりまして……」
「郵便の窓口にいる人や、あなたが手伝えば済む話でしょう」
お客さんがつなになく居丈高に言うので、課長もムっとした表情を見せて一瞬ことばをとめました。
「かしこまりました」
課長は、仕事をする職員たちの隙間の狭いところを縫って、次々と客を裁き始めました。
課長が呼ぶお客さんたちは幸いに、振り込みとか入金とかの簡単な手続きだったので、ようやく窓口が動き出しました。
ぼくは十一時十五分から休憩を取ることになっていました。局長が、
「休憩に行っておいで」
と言いながら、ぼくに近づいて来ました。その口調は、今朝課長とけんかをしたときの口ぶりとはまったく違っていて、普段どおりのおだやかな、局長の言いかたに戻っていました。
近所のコンビニエンスストアへお弁当を買いに行きました。
娘の中学では給食が出るし、妻は介護士としてパートに出ていて忙しいので、ぼくの弁当を作ってくれないんですよ。それにぼくの職場の周りには、ファストフードのお店も二つあるし、コンビニエンス・ストアも二軒あるから、妻はそこで済ませてくれと言うんです。
お昼前のコンビニエンス・ストアは混みかけてはいたけれど、まだまあすいていました。適当な弁当とおにぎりとお茶を持ってレジに行きました。
レジには、郵便局にもよくやってくるおばさんがいました。その人は、短い髪にパーマをかけ、銀ぶちのめがねを掛けています。そしていつもおだやかに微笑んでいて、どこか頭の良さそうな感じを与える人です。
おばさんは、
「いらっしゃいませ」
と笑います。けれど、ぼくにはどうもそれが作り笑いに見えました。商売柄作り笑いになるのは仕方がないけれど、この人からそんな表情を見るのはこれまでなかったことなので、おかしいな、と感じたのです。
おばさんは三つの商品のバーコードをスキャンしながら、
「なんかいいことありました?」
と言います。
「いえ特に」
ぼくは、周りの景色がすがすがしく見えることが「いいこと」に入るのかもしれないけれど、敢えて言うほどのことでもないかなと心の中で考えていました。
「わたしは今朝起きた時から気分が最悪なんですよ。なのに周りの人たちは、わたしを見るととたんにみんなにこにこと笑顔になって……ますます腹が立つんですよ」
「あ、そう言えば……」
ぼくは、その反対なのではないか? と、目覚めてからのいくつかのできことを思い起こしました。
朝食の席での妻と娘の口論、散歩中の犬と飼い主のけんか、電車のなかでの言い争い、ひいては局での局長と課長とのいさかい、突然怒り始めた常連のお客さん……。
「もしかして……ぼくのせいなのかな……」
「ねえねえ」おばさんは、商品の入った茶色いビニール袋を差し出しながら、カウンターに身を乗り出してきます。「お仕事のあと、隣の喫茶店でお話しませんか?」
妻には残業が長引いたと言い訳すればいい。ぼくとしても、自分だけ心おだやかで周りの人たちが機嫌を損ねて行く状況には、これ以上耐えられそうになかったんで、たいした因果関係を見出せそうには思えませんでしたがともかく、
「そうしましょうか」
と承知しました。
午後四時。貯金・保険の窓口が閉まりました。ただし。貯金・保険の窓口の仕事は、四時以降が勝負で。窓口の現金と客から受け取った書類の入金・出金との金額を合わせたり、また書類を第三者が再度チェックしたり、さらにそれらをしかるべき送付先――例えば各地方自治体への公金に関わる書類など――へ送る処理をしたりと、にわかに殺気立ちます。
そんなとき。
一人の女性職員が、とんでもないものを見つけてしまったんです。
普通貯金の出金伝票に、印鑑が押されていない、と言うんです。
扱ったのは例によって新人くんだったんですけど、お客さんに支払いをする前に、別の女性職員がチェックをした跡がある、と言っています。
「確認ミスやろ」見つけた女性の甲高い声がします。
「受けた人の責任やわ」チェックした女性は新人くんを責めます。
「こんなこと前代未聞やわ!」後ろで事務仕事をしていた課長が出て来ます。
「これまで我慢してきたが、限界や!」局長が、指の長い両手で顔を覆っています……。
書類を見た課長が、
「近所なんやから、走って印鑑をもらって来なさい」
と言っています。当然の処置です。そして、本来あってはいけないことなのですが、案外よくあることなんです。
新人くんはすぐに戻って来ましたが、例によってお詫びのことばはありません。
しかしともかく貯金・保険はそれ以外の不備はなく、五時三十五分の定時を前に業務を終えました。
ぼくのほうも、五時に窓口を閉めて、定時までにはお金を合わせて職場をあとにすることができました。
着替えを済ませたぼくは昼休みの約束どおり、コンビニエンスストアの隣にある喫茶店に入った。
「こっちです!」
例のおばさんは、店に入って来たぼくを見るなり、立ち上がってこちらへ手を振りました。そう。この人は普段からとても気さくな人なのです。
「お仕事お疲れさまです」
おばさんは、席につく僕を見ながら頭を下げました。
「いえいえ。お互いさまです」
ぼくは苦笑します。そして店員を呼んでホットコーヒーを注文しました。
頼んだコーヒーが出てくるまで、ぼくたちは黙っていました。おばさんの前には紅茶の入ったカップがありましたが、そこからはもう湯気も立っていないのに、口を付けた様子もありません。
ぼくの前にコーヒーカップが置かれて、初めておばさんは口をひらきました。
「うちね、きのう娘に子どもが生まれたって電話がかかって来たんです。わたしにとっては初孫でね。きのうの夜、『こんなにしあわせでええんかしら』って、なんだか不安で不安で、何度も何度も目が覚めたんです。
せやのに朝起きたら、なんだかむしゃくしゃむしゃくしゃしてしまって……。
なのに、わたしに近づく人は機嫌が良くなるじゃないですか。何が何やらわからなくって……」
その話を聞いてぼくは、昨晩眠る前に唱えた呪文のことや、今朝目覚めたときの気分、家族のけんかなど、ぼくの周りの人たちが苛々するみたいだ、と話しました。
「やっぱり!」その人は言って、初めて紅茶に口を付けました。「あなたを見たとき、何か感じたんですよ、わたしとは逆な何かを。
イオン、ってあるじゃないですか。マイナス・イオンとかプラス・イオンとか」
「ああ。でもあれに科学的根拠はないって……」
「ええ。でもね、それに似た何か、周波数みたいなものは実際にあるんじゃないかってわたしは思ってたんですよ。わたしを苛立たせる周波数が反射するか何かして、周りの人を落ち着かせる周波数に変化している、とか。あなたの場合は逆やね」
「じゃあぼくたちが一種の中和、みたいなものをすればいいってことですか? でもどうやって?」
「一緒に居るだけでいいんじゃないですか?
お茶一杯飲む時間くらい。アカンかったらまた何か考えましょう。
わたしはあなたが来はってから、少し落ち着いて来たように感じてるんですけど、あなたはいかがですか?」
「うーん……」ぼくは自分の心の中を探ります。
疲れていました。そして、周りの人たちが怒ったストレスを感じていました。さらに、少しむしゃくしゃしているのを感じられました。
「確かに。少しもとに戻ってきたようです。
周りでけんかが絶えないのは気詰まりですが、これまでのようにむしゃくしゃしっぱなし、というのも……せっかくいったんはおだやかな心持ちになれたのに……」
「それは、これからのあなたの心の持ち方次第でしょう」
おばさんの笑顔は、普段のおだやかさを取り戻していました……。
* * *
「長くなって、すみません」
コウちゃんが頭を下げる。
スタジオには暖房が入っていたけれど、外はこの冬一番の寒さ。楽器をいじらず床にあぐらを組んでいるあいだに、体の芯まで冷えを感じる。
「実はな……オレ、しゃべってええか?」
ウッシーが、天然パーマの短い髪をかきむしる。
膝を貧乏ゆすりさせているケンが、尖ったあごでうなずく。
「オレもコウちゃんと似たトコがあってな……きのう仕事でおもんないコトがあって、やってられんなぁって思いながら寝たんや。
でも目が覚めたら、これまでなかったほどに気持ちが透明になってて……」
「ぼくはきのうも新人くんにてこずらされて、イヤな思いをかかえて眠りにつきました」コウちゃんが苦笑する。「じゃあケンさんは?」
「オレは……」ケンは誰とも目を合わせない。「きょうの練習が楽しみやった。先月、十二月は、みんな家の用事や仕事が忙しかったから集まられへんかったやろ? ウチさぁ、ヨメが強いから、オレの逃げ場って、ここしかないんや……」
ぼくは以前から、ぼくよりもケンのほうが「残念」な人間なんじゃないかと感じていて、なのにぼくだけが「残念な佐藤さん」とからかわれることを若干不快に思っていたのだけれど……こらえられなくなった。
「お前が一番『残念』なんとちゃうんかい!」
ぼくは立ち上がり、左隣にあぐらを組むケンの肩を、片足で蹴飛ばす。
「ヒロシやめろ」
ウッシーがおだやかな声で言い、ぼくを背後から羽交い絞めにする。
「ヒロシさんもそっちですか……何か心当たりは?」
コウちゃんの優等生顔にも、異様に腹が立って来る。
「お前もケンと一緒なんやろ?」ウッシーが言う。「バンドの集まりが唯一の楽しみなんやろ?」
「離せや!」
ぼくは後ろにいるウッシーの脇腹を、軽く肘でこづいた。
「ヒロシさん。座りましょう」
「勝手に仕切るなや」
「でも今のお前やケンにこの場を仕切ることができるんか?」
「クソッ!」
ドスンと音を立てて座る。ケツのかなり広い範囲を床に打ち付けて、痛い。ますます腹が立つ。
と。
右隣からウッシーの手が伸びて来た。
ウッシーはぼくの横顔を、おだやかな目で伺っている。
ぼくはウッシーの手を握り、左手をケンに差し出す。
そうして四人のオッサンたちは円になって手をつなぎ、いつしかそろって目を閉じていた。
だんだんと、気持ちが中和されて来るのが、わかる……。
「よっしゃ!」
ケンが立ち上がったのは、ぼくが目をひらいたのと同時だった。ケンの、窪んだ彫りに埋もれた大きな目は、普段どおりにぎらぎらと輝いている。
「いいですねぇ!」コウちゃんが笑う。「ぼくもいいカンジにイライラして来ました」
「オレもや」
ウッシーがぼくの肩をポンと叩き、ことばを促す。
「どーせ」ぼくは立ち上がりながら、ボヤく。「苛立ってようが多少おだやかにもどろーが、オレには『残念』がつきまとってるんや」
口にしたとたん、大きなくしゃみが三回、つづけて出た。
「ほんまにお前は『残念』やのぅ」
仲間の笑い声からも、安心しているのが感じられた。
原稿用紙二十枚
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