第3話 プラス・マイナス 前編(原稿用紙18枚)

 二〇一四年一月十九日土曜日。

 昼前に目が覚めた。部屋は薄暗い。

 夕方からことしに入って初めての、バンドの練習がある。それまでに部屋の掃除をしたいから、そろそろ起きたほうがいい。

 そうわかってはいるのだけれど……。

 なんなのだ、この言いようのない、憂うつでむしゃくしゃした気持ち!

 四十歳のぼくは、これまでの人生、比較的情緒は安定している人間だと思っていた。こんなに気分が沈んでいると感じるのは……大学生のころ、人生で初めて自分から好きになって付き合っていた女性に振られて以来、初めてのような気がする。

 それにも増して不可解なのは、この自分の不機嫌について、理由に心当たりがないことだ。

「嗚呼めんどくせぇ!」ぼくは、用事のない土曜日にはすると決めている部屋の掃除を、今週はサボることにして、ベッドに潜る。「どうせオレなんか、あしたもヒマやから、ええねん」

 と。

 突然激しい尿意を覚える。

「クソ!」

 ふとんをよけてベッドから出る。

 ひどく寒い日だ。

 用を済ませてふとトイレの窓をあけてみる。

 大阪市北東部、中新庄(なかしんじょう)の、マンションが建ち並ぶ一画。裏の建物の灰色の壁のあいだを、大きなぼたん雪がゆっくりと舞い降りている。

「夕方出かけるの、イヤやなぁ……」

 心のなかで文句を言いながら、寝室に戻った。

 夕方には雪はやんだ。

 しかし、風が出てひどく気温が下がっている。

 ぼくはベースを背負って駅へ向かう途中、

「なんでこんな日に外へ出なアカンねん。誰か気ぃきかせてきょうは休みにしようって思わんのかねぇ」

 と、愚痴をこぼす。

 足元に小石が転がっている。

「フン!」

 軽く、革靴で蹴飛ばす。

 と……。

 歩道の縁石に、蹴り上げた足がひっかかり……みごとに尻もちをついた。

 周りの人たちが口を抑えて、ぼくを笑って通り過ぎて行く。

 そんな、普段なら、

「嗚呼残念!」

 と笑い飛ばせることでさえ、きょうのぼくには苛立ちを募らせるのだ。


 阪急電車に乗って梅田まで出る。JR大阪駅まで少し歩き、大阪環状線に乗る。あいている席がないことに、また腹が立つ。

 理由のわからない不快感をかかえたまま、ぼくはいつものスタジオに入った。


「アカン! 悪い。とめてくれ」

 ボーカルのケンが、肌の浅黒い顔をしかめる。

「何が気に入らんねん」リーダーでもあるギターのウッシーが、ケンに近寄る。「お前らしくないぞ。きょうはどないしてん。別にお前の歌、悪くなかったぞ」

 おや、と思う。

 心なしか、ウッシーの話すテンポが、普段よりゆっくりな気がする。

 そして、鼻の穴がうえを向いたウッシーの表情も、いつもよりおだやかに見える、のは、自分がイライラしているせいかもしれない。

「ヒロシさんもきょうはちょっと速いですよ。ベースでリズム取るんですから、ぼくのドラムと合わせてくれなくちゃ」

 唯一ぼくたちよりも二つ年下の、コウちゃんが、例によって言いにくいことをサラリと、いやみなく、標準語で言う。

 いつもなら、コウちゃんに悪気がないのはわかっているから気にしないのだけれど……。

「悪かったな」

 ぼくは思わず、背後にいるコウちゃんに駆け寄って、その色白の整った顔を、力いっぱい殴ってやろうか、という気になる。

「ヒロシさん……」コウちゃんのことを、ぼくは知らないうちに、キツい目で睨んでいたのだろう。「もしかして、意味もなく苛立ってます?」

「……まあな」

「ケンさんも、ですか?」コウちゃんがつづける。

「……すまん」

 ケンはそっぽを向く。

「もしかして」コウちゃんの声のトーンが上がる。「ウッシーさんはわけもなく気持ちがおだやか、ですか?」

「そうやねん」ウッシーは、天然パーマの短い髪を、ぐちゃぐちゃとかく。照れたときのクセだ。「別にええことがあったわけやないんやけどな。朝起きたときからゴッツい気分がええんや。ほんまやったらこんな寒い日はレッスン休みにしてもええんやろうけど……オレの気分がええもんやから……勝手、してもたんかなぁ?」

「ちょっと」コウちゃんがドラムの前の椅子から下りて、前へ出て来る。「聞いて欲しい話があるんです」

 コウちゃんが率先してぼくらを集めることは、滅多にない。

 コウちゃんがリノリウムの床に腰を下ろす。

 ぼくらはコウちゃんを囲んで円になって座った……。


 *   *   *


 思えば発端は火曜日のことでした。

 去年の春に、ぼくが課長代理をしてる特定郵便局に、新人の男の子が入って来たってよく言うでしょ? ミスばっかりして、ぼくだけじゃなく、課長や局長にまで平謝りをさせてるのに、ちっとも反省する様子がなくて、

「すみません」

 も、

「すいません」

 も言わず、

「ありがとう」

 って、当たり前のことをしてもらったみたいに、ニタニタ笑う。敬語の使いかたもわかってないし、そもそも、まったく自力で仕事を覚えようとしてないんだって、グチ聞いてもらってるじゃないですか。

 その日ぼくは郵便の窓口にいました。

 貯金・保険の窓口がしまって、最後のお客さん――常連の、近所の内科の奥さん――の手続きが終わったとき、その奥さんが、暇そうにしてるぼくの所に来て、

「あの新人さん、どないかならへんの? 振込一件するだけやのに、なんで十五分もかかるん? ほかの職員さんやったらもっとテキパキしてくれはるのに……これやったらコンビニで済ませたほうが良かったわ」

 と……おっとりした人なのに、小さな声でぼくにこぼしました。

 ぼくには、新人くんのとろとろした作業の風景を、簡単に想像することができました。

「すみません。根本的に鍛え直しますんで、またいらしてください」

 ぼくが言うとその人は、

「いえいえ。あなたに言うても仕方なかったわね。ごめんなさいね」

 と恐縮をして局舎から出て行きました。

 鍛え直すとは言ったものの……彼と一緒に働くようになってから、もうすぐ一年近くになります。仕事に対する姿勢については、ぼくだけでなく、課長からも、局長直々にも、あと二人いる女性の職員たちからも、順番を決めて昼休みに二人に休憩室でなったときなどを使って、話して来ましたた。全員で業務のあと、ミーティングをしたこともあります。みんなが彼について、なんとかしないといけないと思っているんです。だけど、誰にも、彼の意識改革には成功できていないまま、今まで来ています。

 常連のお客さんにああは言ったものの、結局その日、新人くんに対して何も言えないままに、仕事は終わりました。着替えるときは二人きりで男子更衣室に閉じこもっていたのに、そのときもぼくには切り出しかたがわからなくて、結局何も言わないまま彼と別れました。

 大学時代までに知り合った人たちには、バンドのみなさんにしても、わりと言いたいことを上手く言えるんですが、社会に出てから知り合った人たちってのは、どうも苦手です。特に同僚となると、へんに気兼ねしてしまって、いけません。

 その夜のぼくは、確かにむしゃくしゃしていました。でもそれは、仕事に対する意欲を持ってくれそうにない新人くんであったり、彼をまるで、てこの原理でも使うみたいに、軽々と、重い意識を変革できる知恵の働かない自分に向かってであったり、確実に原因があったんです。その自覚を持っていたんです。

「お父さん」妻が寝室に来て、隣のベッドに潜り込みながら、僕に言いました。「娘の高校受験がもうすぐなんやから、ええ加減仕事のイライラを家に持ち込むの、やめてくれへん? 娘にもお父さんのむしゃくしゃが写って、勉強が手につかへんってぼやいていたんよ、あの子のことやから、どこまで本音か知らんけどね」

 娘は来月、二月に、本命である私立高校の入試を控えています。

「勉強が手につかないのは本人の問題だろう。おれのせいにされても困るよ」

 ぼくは妻に背中を向けて目を閉じました。

 ぼくだって、自分の気持ちをコントロールできない、大人げのない自分に苛立ちを覚えているんです。長年連れ添っているんだから、それくらい察してくれよと、今度は妻に腹が立って来ました。

 何か、自分の心が湖の水面(みなも)のように澄み渡るような、そんな魔法でもあればいいのにと、何度も何度も、呪文のように唱えながら眠りにつきました。


 異変が起きたのは、その翌朝のことでした。

 水曜日の朝。

 普段なら、前の日のイライラを引きずって、憂うつに目覚めるぼくが――ぼくはまだまだ幼稚で、なかなか自分の感情の制御ができないんです――、これまでになくおだやかな気持ちで目を覚ますことができたんです。

 妻はもう寝室を出ています。

 目玉焼きのにおいが寝室に届いています。

 ぼくは急に空腹を覚え、ベッドを出ました。

「おはよう」

 ぼくは、キッチンのテーブルについていた娘に言いました。

「おはよう」

 娘は、他の家には珍しいそうですけれど、十五歳になってもぼくに反抗したりしません。素直に育ったのは妻の功績なのだと思います。だってぼくはまだまだこんなに情緒不安定な人間なんですから。

 小学六年生の息子も、おだやかにぼくに「おはよう」と微笑みかけます。この子も妻に似て、いい子です。あ、ノロケじゃないですよ。

「いやおはよう。珍しいやん! 今起こしに行こうと思ってたトコやったのに」

 キッチンから妻が言います。

 そうなんです!

 ぼくは毎朝妻に揺り起こされるまで、自分からベッドを出たことなんて、恥ずかしい話ですが、ここ十年近くなかったんです。

 妻が目玉焼きの載った皿を四枚持ってテーブルにやって来て席につきます。

 その日の朝食も、目玉焼きとトーストとサラダとコーヒーでした。

 マンションの窓から明るい冬の朝の光が射し込んでいて、ぼくはただ、すがすがしさを感じました。

「いい天気だな」

 ぼくはトーストをかじりながら、言いました。

「お母さん」娘の声は、これまでぼくが聞いたことがないほど、怒気を含んでいます。「アタシ、目玉焼きは固めがええねん。こんな半熟の目玉焼き、ほんまはいつも、気持ち悪くていやいや食べてるねんで!」

「はあ?」妻も当然怒ります。「あんたが固めが好きやなんて、今朝初めて聞いたで。なんでもっと早くに言わへんのよ」

「言うたわよ」

「言うてないわよ」

「言うた!」

「言うてない!」

 ……。

 ぼくは心底くだらないことだなぁと思い、苦笑してしまいました。

「お父さん!」

 二人が同時にぼくに怒鳴ります。

 そして妻が、

「笑ってんとなんとかしてよ!」

 と文句を言います。

 ぼくは妻の、ぼくに対するヒステリーにはなれています。

「ま、今朝はそれで我慢して。お前、あしたから固めのを作ってやれ」

 ぼくは微笑みました。

「はーい」

 二人は異口同音に言いましたが、視線を合わせようとはしません。

 そのあとの時間は誰も口をひらかず、気まずい空気が漂いました。

 つけていたテレビで、地方のユニークなお祭りのニュースが流れました。

「ははは……」

 ぼくは笑いました。

 妻と娘はそんなぼくを、憎々しげに睨みます。

 ぼくは一つ咳払いをしました。

「二人ともどうしたんだ? 今朝は二人ともおかしいぞ」

「おかしいんはお父さんよ!」

 またしても異口同音。

 確かに……。

 その朝のぼくは、あまりにも機嫌が良すぎます。自分でも気味が悪いほどでした……。


 朝食を終えて着替えて、僕は家を出ました。毎日同じ道を通ります。寒い冬の朝でした。なのに、気分はこの上もなくすがすがしいんです!

 川沿いの道に出ます。

 向こうから、小型犬を連れた老人男性が近付いて来ました。

 その犬が、ぼくを見るなり、吠え出しました。

 ぼくは、何か悪いことをしただろうかと自問しました。しかし思い当たることはありません。

 よく見るとその犬は、ぼくの背後に向かって吠えたてているようなんです。

 ぼくが振り向くと、大型犬を連れた若い女性が歩いています。その犬も小型犬に向かって、低い声で唸り声を上げています。

 ぼくが小型犬の横を通り過ぎ、小型犬と大型犬が接近すると、二匹は吠え合ってけんかを始めましたた。

 それだけでは済まなくて、飼い主同士まで、

「そっちがそんな大きな犬を連れているから!」

 とか、

「小型犬はすぐ吠えるから嫌いなんです」

 とか、口げんかを始めたんです!

 ぼくは、こんなこともあるものかと不思議に思いながら、駅に向かって歩きつづけました。


 通勤の電車は、いつものとおり混んでいました。ぼくは吊り革を持って立っていました。職場までは二駅です。

 と。

「今触ったでしょ!」

 ぼくの隣に立つ女性が、その後ろに立つ男性を睨み上げています。

「触ってませんよ」男性は反論する。「何か触れたんなら、ぼくのかばんか何かじゃないですか?」

「いいえ。あなたの手です。ぬくかったですもん」

「そんなにぶくぶくにコートを着込んでて、温度なんかわかるもんですか?」

「わかるものはわかるんです」

「ぼくは触ってない」

「いいえ触りました」

「触ってない」

「触りました」

 ……。

 ぼくは、どこかで見た光景だなと思いました。

 そうです!

 その日の朝の、キッチンです。

 妻と娘の「言ってない」「言った」の押し問答……。

 その言い争いが終わらないうちに、目的の駅に着いたので、ぼくは電車を降りました。

 その「事件」がどういう決着を迎えるのか、少し気にはなりましたが、ぼくは相変わらず、目覚めたときのままのすがすがしい気持ちで、職場へと歩き始めました。

 でもやはり、あまりに気持ちがおだやかすぎて、その根拠もわからず――まさか眠る前に唱えた呪文が効いたとも思えなくて――、どこかで何かの落とし穴があったらどうしようと、逆に軽い不安を覚えるほどでした。

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