終章
終章
それから、数週間たったある日のこと。
常子は、ピアノを弾いている母武津子の部屋に入った。
「あら、常子。どうしたの?あたしとは話したくないってさんざん言っていた子が、自分から来るとは?」
武津子は、いたずらっぽく笑って、演奏をやめ、こっちを向いてくれた。それだけでもまだ、よかったなと常子は思った。
「お母さん。お願いがあるんだけど。」
「何?改まって。」
ちょっと緊張して、常子は「お願い」を言い渡す。
「小野君、退院したら、ピアノのレッスンしてやってくれないかしら。彼、もう高校には戻らないと思うから。出席日数が足りなくて、もう学校に復帰することは無理だって、校長もはっきりそういったわ。彼も、片方の足が不自由になって、これから片方の足が使えないでピアノを弾くことになるから、もうあたしじゃピアノを教えられない。それなら、同じように足が悪いお母さんにピアノを教えてもらえばいい。影浦先生には、小野君の状態が落ち着いてきたら、うちへ連れてきてもらうように言ってあるから。先生も気持ちよく承諾してくれたわよ。」
これは、常子が先日の恵子さんのエピソードと、水穂から言われたことを踏まえて考えたものだった。
「全く、どうしたの。レッスンだなんて。あたしのことを、さんざん悪く言っていたのに。ほら、よく言っていたでしょ。正確な演奏じゃないって。」
「ううん、あたしがいくら教えても、彼にはその通りにはできないでしょ。きっとあたしが教え続けても、その通りにできなくて、悲しくなることになると思う。それでは、ただ可哀相なだけだし。いっそのこと、お母さんみたいな人のほうが、小野君にから見たら、何十倍も信頼のおける人になれると思うの。それに、お母さんはあたしが知らない苦労も知っているから、あたしよりもっと大事なこと、そしてあたしには教えられないこともたくさん教えられる。そのほうがずっといい。」
「そうね。あたしなんて、たいしたことでもないわよ。あんたが一番知っているじゃないの。」
武津子は、そっとため息をついた。
「なんで?お母さんのしていることは、十分すごいことじゃない。この前ね、あたし、家を飛び出した後、なぜか水穂さんの住んでいるところにいったのよ。何か用事があったわけじゃないわ。ただ、どこかに行きたかっただけの話。でも、そこですごいもの見ちゃった。食事作ってる恵子さんが、料理教室しているおばあさんに、アドバイスされて、もう天にも昇るように喜んでた。あれは、おばあさんでなければぜったい提供できないことだった。だから、私思ったの。年長者でなければできない事、苦労した人でなければできない事。そういうことはまだまだ山ほどあるんだなって。その前に、水穂さんに言われたの。できない人は、できる人に譲り渡すことが最善の道だって。私も、そうすることにする。だから、お母さんに、小野君のレッスンをお願いしたいの。」
なんだか、こんな発言して、うれしいというか、吹っ切れたような感じがした。
「きっと、小野君のような人は、あたしよりも、お母さんのほうがよっぽど役に立つわよ。もう彼は、これから、高校からつまみ出されて、社会からも白い目で見られる立場になるんだし。だから、同じように、音楽業界からつまみ出されたお母さんがそばについててあげてよ。」
「わかったわよ。常子。でも、あんたはどうするの?これからも高校で講師を続けるの?」
「ううん、私は、高校はやめるつもり。転勤の話も断るつもりよ。」
母は、またため息をついたが、決してがっかりしたというため息ではなかった。
「で、そのあとはどうするつもり?」
「うん、都内の講習会とか、そういうところへ通って、ちょっと心理学とか、そういう癒しの勉強をしたいかな。そして、もうちょっと年を取ったら、どこかでピアノをレッスンして、悩んでいる人たちが、音楽で癒されてくれるような、そんな大人になりたいかな。初めのころは、大学へ行ける子を、できるだけたくさん作れるような人が、偉い人だと思ってたんだけど、今は、そういうことはかえって誰でもできるのかも、と思うようになったわ。それよりも、外れちゃった人を何とかしてやる方がよほど難しいんだなって思うようになった。今は、お母さんにしかできなくて、あたしはまだできないけど、その文一生懸命勉強して、お母さんに追いつけるような大人になりたい。」
「わかった。」
武津子は、うれしいのか、それとも照れくさいのかわからないような表情で、そういったのだった。
「あんたが、そう決めたんだからそうしなさい。でも、決めたことは必ずやり遂げなきゃだめよ。それが、お母さんからの第一条件。だって、あんたは、お母さんと違って、職業選択に制約はないんだから。そこをしっかり考えて行動してね。あと、それから、お母さんは決してお手本になるような人生を歩んできたわけじゃないから、決してお母さんと同じようには、ならないでね。これはお母さんからのお願いかな。」
「そんな、お母さんや、あの料理のおばあさんたちと同じことができるような大人になろうと決断したのに。」
「いいえ、あたしがしていたことは、決して立派なことじゃありません。ただ、生活のためにピアノを教えていただけのことです。あたしは、社会的に言ったらただの弱者に過ぎない。基本的に国の恩恵にあずかって、ほんのちょっとだけピアノを教えていただけの事。きっと、そのおばあさんだってそうだと思うの。」
母は、また余計なことを言い始めるのか、と常子は思った。しかし、今回は違った。
「いい、常子。当たり前のことを商売にするって、決して世の中がいい状態というわけじゃないのよ。だって、一番の幸せは、当たり前のことを当たり前に行えることだもの。だから、本来は商売になんかならないの。当たり前のことをお金を出して買うなんて、買う人は、そのありがたさを知らない、つまり不幸であるということなのよ。だから、それを売りにして、偉そうに生きるのはやめなさい。そうじゃなくて、本来売る必要がなくなるような、そんなことができる大人になりなさいね。」
常子は、この言葉の意味を少し考えて、
「はい、わかったわ。じゃあ、これからはしばらく、勉強ばかりの生活になるけど、お母さんのことは、娘として、責任をもって、しっかりやるから。無理に施設にぶち込んでしまうことは、絶対にしないからね。」
と言った。
「バカねえ、それとこれとは話が別よ。」
武津子は笑ってそう言ったが、
「いいえ、別じゃないわ。お母さんは、小野君のレッスンしてもらわなきゃならないんだから、これからもここで生きていくでしょ。そのためにはどうしても、誰かの助けも必要だしね。だから、あたしがそばにいるんじゃない。それに、あたし、今まで家事とか一切やってこなかったから、そういうこともやってみたくなったしね。もちろん、それができるからと言って、変に自慢したりはしないわよ。お母さんがいった通り、当たり前のことなんだからね。その代わり、具体的な成果が出るように、一生懸命勉強するから、これからもよろしくね。お母さん。」
常子はにこやかに言った。
「もうちょっとしたら、校長先生にも話してみるわ。たぶん、先生は悲しむと思うけど、あたしは、後悔しないし、寧ろ、これからが本当の自分になるんだと思って頑張るから。まだ、この年では、勉強の年としてもいいんじゃない。本当に人にものを教えるようになれるのは、おばあさんになってからのほうがいいわよ。」
「成長したね。常子。」
世間的に言ったら、もしかしたら退化したという人もいるかもしれない。でも、母は、常子の発言を退化したのではなくて、成長したと受け取ってくれた。それはやっぱり苦労した母だったからではないだろうか。常子は、母に感謝して、うれし涙を拭いた。
夜、常子は自身のブログに、サイトを閉鎖するという書き込みを書いた。音楽高校の非常勤講師として、音楽大学志望者に、受験のヒントなどを掲載したブログを運営していたが、もう、音楽学校の先生をやめるので、ブログを書く資格がなくなったのだ。最後の挨拶として、自分の愛弟子のつもりで接していた小野君を、救い出すことは何もできなかったこと、いくら音大卒のエリートを育てても、
自慢になることは何もないと知ったことを嘘偽りなく丁寧に書き、拝見してくれてありがとうございました、という文句でブログを締めくくった。
一方、そのブログをこっそりスマートフォンで拝見する習慣をつけていた蘭は、スマートフォンがブログが更新されたと知らせてくれたので、今日は何を書いてくれているのか、ブラウザを開いて拝見した。
すると、いきなり、ブログを閉鎖するという文字が飛び込んできたので、蘭は腰が抜けるほど驚いてしまう。理由を読んでみると、ある生徒を救い出せず、自分は音楽教師としての自信を喪失してしまったので、教師を辞めるからと書かれていた。これを見て、蘭は、全身の力が抜けた。
「もうどうして、勝手にやめちゃうんだよ。ほかの生徒さんを伸ばそうとか、そういうことは考えなかったのか。なんで一人だめになると、その責任を負うようにやめるかな。ほかの生徒で補おうとか、そういう考えは浮かばないのだろうか?」
また続きを読んでみると、自分はまだ若すぎて、知らないことが多すぎる、だから、生徒を教える必要はない、なんていう記述もある。
「自信のなさすぎるやつだな。少なくとも教師なんだから、学問に対しての知識は僕たちよりも十分にあるはずなのに。そういう専門的な教育だって、沢山受けてきたはずなのに。つまり、僕たちよりも偉いはずじゃないか。」
偉い人間とは、頭がいいということではない、当たり前のことを、幸せだと思って実行できることだ、とも書かれていた。それが、商売として成り立ってしまったら、世の中の人たちは、それができないので、不幸であるという記述もあった。
「だって、頭がよくなければ、当たり前のことを発明できないじゃないか!それを生み出すのは学問であることを忘れているんだろうか?」
自分だって、そのためにベルリン芸術大学の大学院まで行ったのだ。現在は刺青師としてやっているけれど、少なくとも、ベルリンで学ばせてもらったことは、悪いこととか無駄なこととは一度も思ったことはない。当たり前と言われていることの多くは、学問の積み重ねでできている。蘭はその教えを今でも信じている。
「最後になりましたが、この日本が、当たり前のことを当たり前にできる、幸せな国家になるには、まだまだ時間がかかりそうです。私は、それを実現できるような、そんな大人になりたいと思います。そのためには、音楽高校の非常勤講師という職業では、実現できそうにありません。なので、このブログを閉鎖します。もっと色んなことを教えられる人間になったら、また違う媒体を通して語ろうと思います。本当にありがとうございました。それでは皆さん、どうもありがとう。って、そんなことを平気で言える、経済力もあるのなら、どうか僕のお願いを聞いてもらえんだろうか、、、。」
蘭は、声に出して読み、そうため息をついた。本当なら、このブログの筆者と接触をもち、その人物に声掛けをして、水穂に接触させようとたくらんでいたのだ。このブログの自己紹介欄で、筆者は女性であること、桐朋学園大学の卒業生であることが推量できたし、ブログ本文から、静岡市清水区にある、音楽高校として名高い立花高校の、非常勤講師としてピアノを教えている人物と突き止めていた。清水区であれば、比較的近いところに住んでいる可能性もあるし。もしかしたら、水穂と接触は可能であるかもしれない。ブログを読み始めてから、何回かコメントを投稿しており、すでにこの女性からの返答も得ていたので、もしかしたらいけるかもしれない、と思い始めていたが、急にブログが閉鎖になってしまった。
「結局、この女もただの吐き出し程度しか、ブログを使っていなかったんだろうな。」
教室なんかをしているとわかるが、インターネットは結構重要な宣伝媒体となるときがある。時折、ネットを通じて、新しい生徒さんが入ってくる時もあるし、すでにいる生徒さんと連絡用にインターネットを使うことも多い。最近は「先生はどのような人か」を知らせるために、教室の様子をブログに書いて知らせる人も少なくない。これもある意味では、閲覧者が間接的にどんな教室なのかを知る一つの手段になるので、結構重大なものになる。しかし、ブログはあくまでも日記で、自分の思いなどを延々とつづっているだけの人も結構いる。長文を投稿できるというところから、芸術関係者にはその傾向が強いという話も聞く。このブログの筆者がどちらに属するかは、本人に聞いてみないとわからないが、蘭が見た限りでは彼女は後者の方だった。
結局、自分の作戦は、また失敗に終わった。蘭は大きくため息をつく。
「あいつは、どうしているかな、、、。」
今でも青柳教授から、製鉄所に立ち入ってはいけないと言われている蘭は、水穂の様子はすべて杉三の話を聞いて把握している状態である。少なくとも、杉三の話では回復したという話は聞いたことはなかった。しかし、ある介護食品を提供してくれる、弁当会社と契約し始めたようで、そこの社長さんが持ってきてくれた弁当が結構気に入ったらしく、うまそうに食っているぞ、と杉ちゃんは話していたっけ。本当は、その弁当会社があるということを、誰が水穂や恵子さんたちに情報提供したのか、を蘭は詳しく教えてもらいたかったが、杉三はそこのところは話してくれなかった。聞こうとすれば、さて晩御飯の支度をしなきゃ、とか言って、話をそらしてしまうのだ。もしかしたら、頭も心も共産主義の塊だと母が言っていた波布が、持ち込んできた話なのかもしれない。そこだけはどうしても避けたかった。そうなったら、その会社の弁当は、本当に弁当ではなくて、波布が持ってきた、毒饅頭と言えるかもしれない。
「いいか!絶対に共産主義者に騙されちゃだめだ!どうせあの、ソビエト連邦とか、北朝鮮の最高権力者みたいに、自分のことを偉いと思い込んで、結局弱い奴を不幸にさせるだけなんだから!」
蘭はそういってテーブルをばあんとたたいた。
「ちょっと蘭。共産主義者がどうのこうのなんて、バカなことを怒鳴ってないで、掃除の邪魔になるから、ちょっとそこをどいて。」
いきなりアリスから声をかけられて、蘭はハッと振り向いた。
「ほらあ、どいて頂戴よ。テーブルの下を掃除したいのに、そこに居たらできなくなるでしょう?」
アリスは、掃除機のコンセントを、コード穴に差し込みながら、不機嫌そうにそういった。
「もう一回言うけど、そこをどいて。テレビ見るなら、悪いけど、ほかの部屋で見て頂戴。うちにはテレビが一台しかないなんてことはないんだし。それに、明日は午前中からお客さんが来るんでしょう?仕事場、少しきれいにしたほうがいいわよ。最近は風が強いし、いくら掃除しても、すぐにほこりがたまるんだから。」
「はい、すみません。」
蘭は、スマートフォンを車いすのポケットに入れて、すごすごと部屋を出て行った。
「退職?ですか?」
校長先生は、目を丸くして、常子を見つめる。
「はい、小野君が退学になった責任は、私の指導不足でもあるわけですから、ちゃんと責任を取って、この学校を退職させていただきます。」
常子の目に、迷いは無かった。
「でもがっかりすると思うわ。来年は、大学のほうで、ピアノを教えてくれるはずでしたのに。先生の教えを待っている大学生もたくさんいると思うのに、、、。」
「いいえ、校長先生。私は、高校生の少年一人に、教えてやれることは何も在りませんでした。だから、またおなじような生徒が来た場合、かえってその子にとって有害な存在になりかねないかもしれない。だから、この高校にいることはもうできないと思ったのです。」
「有害な存在って、ピアノの技術だって十分にあるんだし、先生は、教師として、今までもしっかりやってくれましたよ。ただ一人失敗しただけで、そんなに気を落とさないで。もう少し、ここで頑張ってみたらどうですか?」
校長先生は、常子が小野君の失敗で自信をなくしてしまい、それで辞表を出したのかと思ったらしく、そういう励まし方をしてくれたが、
「いいえ。私は、一人の生徒を育てられなかったんです。教育と言いますのは、大勢のエリートを出すより、一人の劣等生に自信を持たせるほうが、はるかに重要なことですし、教師としての能力もそこにあるのではないでしょうか。今回私は、それができなかったので、その能力がなかったということになりますから、まずは、それを十分に勉強させていただいて、それを生徒に教えてやれるほどの知識と能力を獲得したら、また教育者に戻ろうと確信しております。まだ、この年齢では、教育者という称号は、とても持てません。」
常子は、しっかりとそういった。校長先生は、そういう常子に対して、何もいうことはなくなってしまったらしく、そうですかと一言言って、辞表を受け取った。
校長室を出て、職員室に戻ってくると、例の学年主任が、うらやましそうに話しかけた。
「いいですなあ。ピアノとか、音楽関係の先生は。学校という箱を捨てても、自分の技術さえあれば、いくらでも生徒は取れるんですからなあ。僕たちは、いくら教科の知識はあっても、学校という箱に入れてもらえないと、生徒はやってきませんよ。そうしなければ、頭でっかちのただのおじさんになってしまう。」
この最後の言葉はおそらく、非常勤なのでいつでもやめられていいなというやっかみの言葉も入っていると思う。なので常子は、学年主任に次のように言い返した。
「ええ、でも肝心なことはね。いつでもどこでも、誰とでも、当たり前のことを当たり前にできるようになることじゃないかしら?」
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