第九章
第九章
その翌日から、小野君は積極的に外へ出たがった。あのおばあさんに会いに行くんだと言って、外へ出るのを楽しみにしてくれるようになった。武津子も彼の訪問を楽しみにしていたし、二人でバロック音楽について話すのが、何よりも楽しそうだった。この様子を見ていた影浦も、少しずつ精神状態が安定してきたので、薬を減らしてもいいかな、なんていうようになっていた。
ある日、常子がレッスンを終了して、職員室へ戻ってきたときのことである。
その日は、なんだかとても寒い日だった。私立高校なのですべての教室にエアコンは設置されていたが、廊下にはしていないので、教室から出るとことのほか寒かった。なので職員室は暖かいなあ、なんていいながら、ドアを開けると、
「そうですか。残念ですね。もう退学は免れないという事ですか。」
校長先生が、話している声がした。悪い予感がした。一学年に一人は退学していく時代と言われるが、
ほかに該当者はおらず、たぶん、小野君の事、、、?
「ええ、規定の出席日数に足りていませんので。これには逆らえませんよ。法律で設けられた決まりですからな。」
あの、学年主任がそう話していた。
「でもねえ、これからも一生懸命勉強すると病院で発言していたようですし、意欲のある生徒でしたのに、何とか食い止めることはできないかしらね、、、。」
「だって、校長。退学の勧告書も出したんですから、もう彼も納得して、決断したのではないですか?」
勧告書はまだ、小野君に渡していない。あの後、杉三が破って捨ててしまったためだ。
「そうなんですけどね。返事はまだ来ていません。私は、正直、先生のやり方は反対でした。精神が傷ついている生徒に、ああして退学を促すなんて、やりたくありません。」
校長先生は、思わず本音が飛び出してしまったようだ。と、いうことはあの勧告書は、校長先生が自らの意思で書いたものではなかったのである。そこは常子もうれしかったが、学年主任は厳しい顔をして、校長先生に言った。
「でもですねえ、校長。よく考えてくださいよ。この高校にいるのは、小野君だけではありませんよ。もちろん、一人一人の生徒を大事にしたいという校長の方針はよくわかりますけど、ほかの生徒だって、大事にしてもらわないと。小野君だけにひいきしてどうするんです?ほかの生徒たちだって、進路を決める大事な時期ではないですか。そうしたら、ほかの生徒のほうが哀れということになりますよ。」
「そうねえ、、、。」
校長先生はがっかりと落ち込んだ。女性という人は、こういうときに踏ん切りがつかないことが多い。だから自動的にリーダーには向かないということになり、やっぱり女はだめだと言われる原因でもある。
「仕方ないわね。学校も、学校で、メンツを保たなければいけないという時代でもあるしね。学校の名さえ通せば通用するという時代ではないから。」
校長先生は大きなため息をついた。
「じゃあ、病院に行って、本人にこの決定を話してきますから。いいですね。」
学年主任がそういうと、
「ええ、なるべく穏便に話が進むようにお願いしますね。」
と、校長先生が申し訳なさそうに言った。
「あの、もしよかったら、私も一緒に行ってもいいでしょうか!」
思わず常子はそういった。校長先生は一緒に行ってほしいような顔をしたが、
「いや、非常勤の財前先生が来られても、何も説得にはなりません。財前先生は、もともとそういう権威はないのですから。こういうことは私たち、正規職員のやることですから、財前先生はかかわらないでください。」
と、学年主任に一蹴されてしまい、同行はできなかった。
「じゃあ、行ってきます。」
そそくさと、学年主任は職員室を出て行った。
その後、病院では、小野君の部屋の前で、看護師たちが交代交代で見張りをするようになった。命令を下したのは影浦だ。なんでも学年主任の先生が来訪した後、小野君は再び不安定になり、ちょっとのことで激しく泣くなどし、もしかしたら自殺を図ってしまう可能性もあるから、というのが理由だった。これだから学校っていうところは、有害なのよね。と、看護師たちは、見張りをしながら、言いあっていた。
数日後の夜。常子が自宅に帰って、誰もいない居間で、夕食を食べていた時のことだった。もう一緒にご飯を食べることなんてとっくにやめていたと思っていた武津子が、悪い足を引きずりながら、部屋へ入ってきた。
「ねえ、常子。」
武津子は隣の椅子に座った。
「何よ。お母さん。」
「あの子、来なくなっちゃったわね。ほら、常子が受け持っていたという男の子。」
小野君のことはできれば、話したくなかったが、武津子は心配そうな様子だった。
「どうしちゃったのかしらね。悪くなってなければいいけど。」
「もう、学年主任が退学を言い渡したのよ。だから、あたしの受け持ちではないわ。あたしなんて、非常勤だし、学年主任に反抗もできないし、何にも言えないわよ。」
「そうなのねえ。いわれたショックは計り知れないでしょうね。学校から、降ろされるというか、削られてしまうんでしょう?」
武津子はがっかりと落ち込んだ。
「かわいそうに、今の学校は一度躓いた生徒は、面倒を見ないで排除してしまうのね。昔の学校では、ちゃんと、生徒のことを考えて、一生懸命サポートしてくれたんだけどね。」
「お母さんも、そんなことで嘆かないでよ!そんな昔のこと言ったって、意味ないでしょ。あたしにできることは、もうなくなったのよ!」
思わずやけになって、常子は言った。
「あんたを責めてるわけじゃないわ。誰のせいでもないけれど、あきらめなくちゃいけない事って、本当にたくさんあるのよね。」
母のセリフは、本当にイライラした。
「でも、それを受け入れるには、一人でできないのも人間よ。まして、若い子だったら一層の事。誰かがそばにいてくれればいいんだけど。」
年より特有の説教は聞きたくなかった。常子は本当にいら立って、もうお母さんのセリフは聞きたくないとイライラし、自宅の外へ飛び出した。
一方、同じころ。
製鉄所には、例の弁当会社ぽかほんたすの社長、土師煕子さんが来訪していた。
「今日はね、ご飯ではなくて、そばの実を煮た蕎麦がゆを持ってきたわよ。いつもお米のおかゆばかりでは、面白くないでしょう。」
蕎麦がゆという料理は日本にはあまり普及していないが、ヨーロッパではよく見られた。持ってきた弁当の中身は、いわゆるカーシャに近いもので、蕎麦の実をブイヨンで煮た料理が入っていた。これは実に珍しいもので、今までこの会社を毛嫌いしていた恵子さんも、興味を示して、見物にやってきた。
「ロシアとか、ウクライナでよく食べられるおかゆなのよ。寒い国家の料理ということもあり、栄養価もあって、おいしいわよ。ほら、どうぞ。」
煕子さんはそっと水穂の前に匙を差し出す。水穂は少し躊躇したが、思い切ってそれを口にした。
「やっぱり今の人は、塩味よりも、こういう味付けのほうがよかったかしらね。」
そう言って、様子を見ながら、もう一度匙を差しだした。また食してくれた。
もう一度やってみるとまた同じ。さらにこれを何回か繰り返した。
「はあ、よく食べるわねえ。あたしが出す料理よりずっとよく食べる。」
今まで白がゆばかりだしていたせいなのだろうか。それともほかの味を出してくれてうれしいんだろうか。
「このまま食べ続けてくれれば、六貫は脱出できるかな。頑張って七貫までは行かなくちゃ。うーん、それも足りないかな。八、いや、九貫は行かなくちゃ。九貫でさえまだがりがりよ。せめて十貫はほしいわね。」
「そうね、身長が五尺一寸なのに、六貫はあまりにもやせすぎというか、ひどすぎるわね。戦時中の子供と大して変わらないわよ。」
「そうかあ、やっぱり、食べ物は大切なことなのねえ、、、。」
恵子さんは、煕子さんの発言に腕組みをして考え込んだ。
「それにしても、おかゆ一つとっても、こんなにバリエーションがあるなんて知らなかった。ただのご飯がゆどころか、蕎麦とか、トウモロコシとか、いろんな材料があるなんて。やっぱり、昔の人は、いろいろ知っててすごいわねえ。」
やっぱり年上の人にはかなわないなあ、、、。恵子さんはそう考えなおした。
「次は、珍しいおかゆとして、ちぽろさよとかそういうのも教えてあげるからね。さよは薄いから、具合が悪くても食べやすいわよ。」
「なんですか、ちぽろさよって。」
恵子さんは思わず口を挟んだ。
「山菜といくらを入れたアイヌ民族のおかゆなの。いくらのしょうゆ漬けは、栄養あるし、さよは薄味で有名なおかゆなので、食べやすいって評判なのよ。」
そんな料理、名前も、存在すら知らなかった。これでは改めて、おかゆの種類を勉強しなおしたいくらいだ。恵子さんはすっかり圧倒されてしまう。
「すごいわねえ、煕子さんは。あたしも材料さえ手に入れば、作ってみたいなあ。いままでなんて、たくあん一つでおしまいになっちゃうし、あたしが食べさせても、二口三口でおしまいなのよ。でも、こんなにバリエーションがあれば、飽きずに続けられそうだし。」
「そう?じゃあ、うちの会社で教室もやっているから、参加してみる?たまには介護する人から離れて、外へ出るのもいいかもよ。」
恵子さんが発言すると煕子さんは答えた。
「そうねえ。あたしも、ほかの利用者の食事作りで結構忙しいけど、時間を作っていってみようかな。でも、年寄りばかりじゃ、ちょっと気が引けるかなあ。」
「あら、気にしないでいいわよ。講師はみんなおばあさんばっかりだけど、習いに来る人は若い人も大勢いるから。知りたくなったらいつでも習いに行けばそれでいいわ。習いたいっていう気持ちが一番大事なのに、年齢でそれを否定するようではやっぱり駄目ね。」
確かに、日本では若い人が勉強したいとなると、ちょっと否定的になってしまう傾向があるようだ。カルチャーとか、料理教室に来て、何か勉強したがる人は、大体仕事をリタイヤした人であることが多い。若い人が、必要に迫られて習いに行くと、仕事がどうしたのとか、そういうことを言われてしまって、逆に来てはいけないというような風潮があるようなのだ。どうも、それは、年齢による、一種の人種差別なのかもしれなかった。
「ほんとはね、年寄りからならうなんて、当たり前のことなのにね。」
そこの部分で恵子さんの決断は決まった。
「そうよねえ。なんで年長者と若い人はこうして断絶しあっているんだろう。それより、教えてもらうのは当たり前のことだと思わなきゃ。よし、あたしも改めて習いに行こう。」
「本当に恵子さんは、やることなすことが早いですね。なんでもそうやって潔く決めちゃうんですから。」
水穂は、恵子さんの発言にそういうと、またせき込んでしまうのであった。
「ほらあ、しっかりしてよ。食べる方だって、ちゃんと食べるように努力してもらわないと、あたしがやる気をなくしちゃうわよ。」
そういう恵子さんはやっと朗らかになってくれたようだ。たぶん、自分でも何をしたらいいのか、わからなくなっていたのだろう。そういうときは誰だって、助けを求めるのが当たり前であるけれど、今は残念ながら、インターネットしか答えを与えてくれないということが多い。人にきけば、そんなこと自分でやれとか、どこかで調べて見ろとか、そういう結果になってしまうことが数多くある。あるいは、私は知らないのでごめんなさいと丁寧に断られる場合もある。答えを知らないというのも、ある程度は本当なのかもしれないが、実はそうでもなくて、答えるのが面倒くさい、つまり誰かとかかわりを持ちたくないという人のほうが圧倒的に多いのである。そうなると、他人に迷惑をかけた質問者のほうが悪人ということにされてしまい、もはや質問はやってはいけない行為に変わっていくのかもしれない。そのためにインターネットというものがあるが、それで答えがすんなりと頭にはいるのか、というと、入らないのはなぜだろう?
「あたしは、パソコンで講座とかそういうことはできないから、生徒さんには、必ず教室に来てもらうことになっているの。教室は吉原で、富士市立体育館の近くなんだけど、来られるかしら?」
「ああ、あたしは持っていないんだけど、バスかタクシーもあるから、それで行くようにするわね。パソコンなんかで教わるより、お馬鹿さんなあたしには、そのほうがよほど頭にはいるわよ。」
煕子さんがそういうと、恵子さんは即答した。そう、教えてくれるのは、当然のごとく年長者であるのだが、こういう風に使えない道具などが出てくることもある。そこを教わる側が古臭いと思わないか。それも、バカにされない秘訣かもしれない。恵子さんの発言のように解釈することができれば、そういうことも逃れられるが。それにしても、便利な道具を、なぜ誰でも使えるようにしようという考え方は沸いてこないのだろうか。どうしても、道具は若い人だけに偏ってしまっているらしい。
「まあでも、いずれにしても、食べることはだれでもするんだから、やっぱり百聞は一見にしかずだわ。じゃあ、場所を教えて頂戴よ。」
「あ、えーとね。」
煕子さんは鞄の中から、レポート用紙を取り出して、地図を描き始めた。
この時。
ガラッと音がして、製鉄所の玄関の戸が開く。
「ごめんください。」
しかし誰も反応がない。入ってきたのは常子だ。この製鉄所ではインターフォンがなく、勝手に中へ入ってしまうのは、よくあることであると聞いたことがあったので、常子は中に入ってしまった。
四畳半では、恵子さんが、教室の場所とか雰囲気とか、しきりに煕子さんに質問していた。一方の水穂は、疲れ切ってしまったのか、時々せき込みながら、布団であおむけに寝てうとうとしていた。
「あの、すみません。」
急にふすまが開いて、常子が入ってきた。
「あ、常子さん。何かお届け物でもあったんですか?」
ふっと目が覚めた水穂が、そう声をかけて、全員が常子の存在に気が付く。
「どうしたのその顔。常子さんらしくないわよ。また学校で何かあったの?先生は、トラブル続きで大変ね。」
恵子さんが、今までとはうって違った顔でそういった。常子は、恵子さんの変わりぶりに驚いてしまう。あれ、こんなに明るい顔をしていたんだろうか?
「まあ、そこに座りなさいよ。幸い、水穂ちゃんも、最近よく食べてくれるから、こっちも大助かりなのよ。全くねえ。せめて、九貫は獲得したいわね。そのくらいないと、座布団から立ち上がることだってできないわ。それじゃあいけないものね、水穂ちゃん。」
恵子さんは、また昔のようなおしゃべりを始めた。本当は杉ちゃんに負けないくらいおしゃべりとして有名で、「おしゃんべくり」なんて呼ばれるくらいの女性だったのだ。
「へえ、よかったじゃないですか。恵子さんどうしたんです?何かうれしいことでもあったんですか?」
思わず常子はそう尋ねた。
「ええ、ほんとにうれしいわよ。この、煕子さんがね、お料理のレッスンしてくれることになったのよ。さっきも言ったけど、水穂ちゃんが、煕子さんの料理を喜んで食べてるから、あたしにも教えてってお願いしたら、快く承諾してくれたのよ。ほんとに、おかゆだけでもこんなにバリエーションがあるなんて、あたし、何にも知らなかった。水穂ちゃんも食べるものが増えれば、もうちょっと体重増やしてくれるでしょうし、あたしだって教わりに行く楽しみができるから、一石二鳥ということになるわねえ。」
恵子さんが長々と解説すると、隣に座っていた、80過ぎのおばあさんが、ちょっと照れくさそうに頭を下げた。
「もうねえ、やっぱり亀の甲より年の功とはこういうことをいうのねえ。ほんと、困ったときはね、年長者に聞くのが一番ね。あたしもさあ、質問するのも恥ずかしいなってずっと思ってたんだけど、思い切ってお願いしたら、すっと楽になっちゃったわ。煕子さんが来てくれて、本当によかった。」
「嫌ねえ、恵子さんは。そんなオーバーに言うと照れるわよ。あたしたちから見たら、ただ、うちの子が亡くなる前に、看病した時作ってたのを、そのまま教えてるだけなんだから。ほら、今みたいに、便利な食事もないし、薬もなかったしね。だから食べ物で栄養とるしかないでしょう。それで、おかゆの本見てあれやこれやと試行錯誤していただけなのよ。そんな当たり前のことを教えて、こんなに感動されるなんて、あたしたちから見たら、驚きというか、戸惑っちゃうわよ。」
まあ確かにそれはそうだろう。お年寄りから見れば、料理なんて当たり前のことだ。それがこうして商売になってしまうなんて、考えてもみなかっただろう。煕子さんは、恵子さんの賞賛に、なんだか違和感を感じてしまったようだ。
本当は、煕子さんの料理が、恵子さんたちに伝承されていいはずだ。でも、今の若い人は、そういうことを拒み続けているというか、ダサいとか、古臭いとか、そういって軽視している。
「じゃあ、これから、あたしも煕子さんたちに料理習って、いろんなもの作ってあげるから、しっかり食べて頂戴ね。」
「はい。」
恵子さんに言われて、水穂は素直に頷いた。
「ほんとはもっと早くこういうところに行きつきたかったわ。ま、でも今こうして習う機会をもらえたんだから良しとしよう。あーよかった。せめて、生きててくれている間に、こうして助けてくれる人が現れてくれたから、そこはラッキー!」
恵子さんのその顔は、いかにもラッキーということを示している。水穂は少し大げさではないですか、という顔で眺めていた。煕子さんは、うれしいのか、照れくさいのか、よくわからない顔をしている。
きっと、煕子さんという年長者が現れてくれなかったら、恵子さんも水穂も助からなかったと、常子は思った。たぶんこれ、インターネットでは、提供しきれないだろうなということもわかる。たぶん、自分が抱えている問題も、こういう年長者でないと、解決はできないだろうなと思われた。同時に、自分のような教育者にも限界があるということを、初めて知った。
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