第八章

第八章

そのまま、小野君と母武津子との会話は続いた。味方になってくれた人がもう一人増えたのが、よほどうれしかったのか、小野君は、学校や家で感じてきたことを話した。内容を聞くと、常子が学校で想像していた時の小野君とはまた別に、繊細で家族思いであり、優しい少年という小野君が浮かび上がってくる。

武津子もそれに乗じて、ピアノレッスンをしていた頃の、生徒さんたちの話を語って聞かせた。小野君は、興味深そうにその話を聞いている。

「今日は、まだ不安定なので、外出許可は出していませんが、もし許可されたら、このおばあさんのお宅へ行ってみますか?」

不意に、影浦がそんなことを話し始めた。

「ええ、いつでも来て頂戴。ちょっと散らかっているけど、日付が決まったら、掃除しておくわ。」

ちょっと照れくさそうにいう武津子。

「わあ、よかった。先生、いつ頃であれば、そとへ出られるようになるんでしょう?」

小野君は若い人らしく、感情丸出しでそう影浦に聞く。影浦にしても、やっと前向きな発言をしてくれたか、と、ほっと胸を撫でおろしたようだ。

「そうですね。人の発言に過激に反応しないで、ゆっくり構えていられたら、かな。」

「わかりました。僕もできるように努力します。」

影浦の立場から見ると、看護師の多少の発言で、一日一度は気分が落ち込み、ふさぎ込んでしまうという症状を、何とか治してもらいたかった。精神関係の患者さんというのは、回復するのがなかなか難しいので、味方が一人増えるというのは、非常に大きな武器を入手したことになる。

「はいはい。いつでも待っているから、うちに遊びに来て。」

にこやかにそういってくれる武津子を、小野君は味方と認識してくれたようだ。武津子は、手帳を取り出して、自身の名と、住所、電話番号を書いて彼に渡した。

「あれれ、この電話番号って、財前先生の電話番号では?」

「そうよ、私の母なの。」

常子が思わずそう言うと、小野君は、常子を軽蔑するような、汚いものでも見るような、そんな目で見た。

「やっぱり、財前先生とぜんぜん違うのは、足が悪いからですかね。」

その目は、先生は、お母さんのことを尊敬する気持ちもないんだな、と言っているような気がする。そして、もっと見習った方がよいのでは?と言いたげな感じだった。

「すぐにとは言わないけど、うちへ遊びに来て頂戴ね。まあ、大したものはないけれど。常子は、いつも高校へ行っているし、昼間は私一人だから。」

「はい、必ず行きます。」

武津子が優しく言うと、小野君は、決断した様に答えた。

その約束を取り交わしたのと同時にサンドイッチがやってきたので、話し合いはここでおひらきになったが、常子は母がこうして、小野君を慰めてやれたことに腹が立つ。自分も教育者として、小野君に指導をしてきたつもりだったのに。なんで、母は、小野君の本音まで聞き出せたのだろう。

隣で、サンドイッチを食べながら、この病院の食事について話している母が、何だか憎たらしく見えた。

武津子がサンドイッチを食べ終えると、小野君と影浦先生は、丁重に礼を言って、病棟へ戻っていった。そのうれしそうに歩いていく姿を見て、さらに憎しみは倍増した。

常子たちも、カフェスペースにお金を払って、病院を後にした。


「お母さん。」

家に帰る車の中で、常子は母にこう切り出す。

「なんで、又そういう風に、聖人ぶって、小野君と話していたのよ。」

「ああ、そんなことしないわよ。彼のほうが、話してくれたんじゃないの。」

「お母さんっていやね。」

答えを出した武津子に、常子はそう言った。

「家の中では、人に世話になってばかりいるのに、なんでそう弱い人達に声をかけて、味方になるような、言い方をするの?今日だって、病院に一人でいけないから、あたしが付きそってやっているんでしょ。誰かの助けを借りないといけないくせに、ああして弱い子を慰めたり、しないでもらえないかしら。」

「そうね。でも、常子たちでは絶対にできなかったと思うわよ。彼の話を聞かなかったの?自分は学校のプロパガンダになるしか、生きていく道がないのかって。学校って、本当に密室だし、常に成績で甲乙付けられちゃうでしょ。その波にうまく乗っていければいいけれど、それを嫌だと感じると、もうだめよね。」

「お母さん、お母さんは、社会の福祉制度とか、足が悪いのを理解して習いに来てくれたお弟子さんのおかげで生きてきたのよ。だから、あんな発言して、なんだか恩を仇で返すような、態度をとっているように見えるんだけど?」

常子は、足の悪い母に、詰め寄るように言った。

「確かにそうかもしれないわね。でも、健康な人の世界になじめなくて、傷ついてしまった彼には、そっちの方が正しいんだから、そっちへ行きなさいなんて、言えるかしら?それよりも、彼の思いをしっかり受け止めることの方が大切よ。それはね、足が悪くないと、わからない事でもあるのよ。」

それならそうすればいいと、はっきり割り切れれば、母に嫉妬する必要はないのかもしれない。でも、学校で、他人に迷惑をかけないことの大切さを、さんざん教えている常子にとっては、母の発言は受け入れられなかった。

「お母さんから見ると、あたしたちは間違っていると思うかもしれないけど、本当は、お母さんはあたしたちのおかげで生かされているってことを忘れないで頂戴ね!」

常子は強く言ったが、母は何も言わなかった。


その数日後。

「じゃあ行ってみますかね。武津子さんも、待っていてくれるそうです。まあ、車なので、さほど他人と顔を合わせることは多くないと思いますが、もしちょっとでも気分が悪かったら、すぐ言ってくださいよ。」

病院の玄関先で、影浦は小野君に言った。あの後、小野君は何かが変わったようで、誰かの発言を聞いて泣いてしまうということは非常に少なくなった。

「先生、富士方面でいいんですね。」

病院の車を持ってきてくれた看護師が、運転席からそういった。しっかりと病院の名前が呈された、護送車みたいな車だったが、小野君は何も文句を言わなかった。

「はい。お願いします。なんでもお宅に車を止める場所がないそうなので、近隣の有料駐車場に止めてくださいとのことです。駐車場からは、歩いて数分程度だそうです。」

「あ、わかりました。えーと富士までは、高速道路を利用すればいいんですね。」

「ええ、そうですね。あまり人と顔を会わせないところがいいと思いますのでね。」

そういいながら、影浦は後部座席に乗り込み、隣の席に小野君を座らせた。

「じゃあ、行きましょう。」

「はい。」

看護師が車を走らせて、富士方面に向かった。普通、車で遠方に向かうのなら、車窓から見える景色について、いろいろ語ることも多いのだが、小野君は全く外は眺めなかった。時折、影浦も声をかけるが、まったく反応もしない。

「えーと、インターを出たら、この角を曲がるんでしたっけね、先生。」

運転席から、若い看護師の明るい声がした。

「ええ、そこから暫く道なりに走っていただければつくそうです。もう少しでつきますよ。」

影浦が小野君に話しかけると、ここで初めて小野君は笑顔になった。

その通りに道路を走って、信号機の角を右に曲がると、有料駐車場が見えた。ここですね、と看護師はそこに入って車を止める。

「じゃあ先生、私、車で待ってますから行ってきてください。何かあったらすぐに駆け付けますから、連絡ください。」

「はい。その時はよろしくです。」

影浦は、静かに小野君の手を引っ張って車からおろした。

「初めて、道路を歩くわけですけれども、何も怖くありませんからね。風を感じて、ゆっくり歩きましょうね。」

もちろん、小野君の年齢から言うと、道路というものを初めて歩くなんていう言い方は、おかしいと思われる。でも、精神医学的に言うと、こういう言い方をしなければならない。精神科というのは、一度人生をリセットしたような気持ちで考えないと、まったく進歩しないのだ。

「じゃあ、ゆっくり行きましょうね。さっきも言った通り、怖くありませんよ。」

影浦に促されながら、小野君は静かに歩き始めた。駐車場から財前先生の家まで、本当に近くだったのに、何十分もかかってしまうような気がした。

「はい、ここですね。」

財前と表札がある、小さな家で止まる。

「押しますよ。」

小野君が疲れていないかを考慮しながら、インターフォンを押した。

「こんにちは。約束通り、来させてもらいました。」

なるべく、明るさを失わずに、つまり人が怖いという考えを与えないように、影浦はあえて明るくいうように心がけている。

「はあい、待ってたわ。どうぞ、上がって頂戴。」

また明るい声がして、ガチャっと戸が開いた。

「はい、いらっしゃい。待ってたのよ。」

武津子が、にこやかに笑って、二人を迎え入れてくれたので、小野君は初めて笑顔になった。

「ほら上がって。ケーキ、用意してあるの。若い男の子だから、イチゴショートでは嫌かなと思って、チョコレートにした。あと、紅茶も用意してあるわ。」

そういって、二人を中へ入れ、居間のテーブルに座らせた。

「はい、どうぞ。食べて頂戴。」

そういって、ガトーショコラを目の前に置く。いただきまあすと小野君は恐る恐る口にした。結構高級品だったらしく、一口食べると、すぐ食べてしまった。

「あの、先生。」

ふいに食べ終わると小野君はそういった。

「先生じゃないわよ。もうレッスンは引退してるし、武津子さんでかまわないわよ、武津子さんで。」

「あ、あの、隣の部屋にピアノありましたよね。」

「ええ、あるわよ。それがどうしたの?」

確かに、ドアの隙間からグランドピアノが見えた。

「どこのメーカーなんですか?」

「ええ、ベヒシュタイン。中古だけど、手ごろな値段で売っていたのでよさそうだなと。」

「もしよろしかったら、弾いてみたいんですが。そんな珍しいメーカー、弾いたことないので。」

やっぱり小野君だ。音楽高校に行くだけあって、ピアノを見ると弾いてみたくなるようだ。

「いいわよ。行きましょ。」

武津子はそういって、ピアノのある部屋に案内した。この反応は意外であったので、影浦も注意深く見守る。

「へえ、結構いろんな楽譜があるんですね。でもみんなバロックとか、古典派が多いんですね。」

小野君はピアノに置かれている楽譜を見て、そう言った。

「そうなのよ。ほら、ペダリングできないでしょ、あたし。だから、使わなくていい曲ばっかり教えてたの。そうすると、どうしても、バッハとかヘンデルと言った、そういう古い時代の曲が多くなるのよ。」

「そうですか。でも、それだけでは成り立たないのでは?」

武津子の言葉に小野君はそう反応した。

「ほら、先生は何でもできるって思う人のほうが多いのではないですか?そんなバロックばかり教えていて、何か批判されることも多かったでしょ。」

「まあねえ。そういうわけで、教えていたけど、先生とは名ばかりだわ。あんまり現代的すぎる曲を教えてくれという人は、断ったこともあったわよ。」

「でもそれでは生活できないのではありませんか?もう、生きていくにはお金もかかるし、お金のためにはなんだってしないといけないし。だって、世の中で一番必要なのはそれじゃないんですか?」

「そうね、確かにお金を得ることは必要なのかもしれないけど、それよりも、お金を作れるものを作っていくことをしないと、やっていけないのよ。だって、仕事をしたくても、何をしたらいいのかわからないのでは仕事に就けないでしょ。その手段として、あたしはピアノを選んでいたのかな。確かにあたしは、足が不自由だし、どうしてもできない事は出るから、そこを批判されたことはたくさんあったわよ。でも、あたしはほかに働ける手段も何もなかったしね。だから、ピアノで何とかするしか、なかったの。」

武津子は少し自虐的ではあったが、でもしっかりと言った。

「常子には、足が動かせるという点では恵まれていると思ったから、そこをうまく使って、あたしができない音楽を作ってほしかったんだけど、なぜか方向が違ってしまったようね。あたしが、そこらへん、もうちょっとしっかり伝えればよかった。ごめんなさい。」

本当は、武津子が悪いわけではない。ただ、音楽に学校教育というものが加わると、本来の音楽というものから離れてしまうらしい。それが、音楽指導者がよくやる間違いである。

「そんなこと、言わないでください。謝るのは頭の悪かった僕ですよ。とにかく、本当に珍しいピアノですから、」

まあ確かに、ベヒシュタインというと、比較的日本では知られていないピアノメーカーであり、設置してあるホールも少ない。日本で圧倒的に知られているのは、ステインウェイアンドサンズばかりである。小野君は、若者らしく、ベヒシュタインに対して、好奇心を隠せないでいるようだ。特に、こういう障害を持っていると、抑えきれないことも一層のこと。

「いいわよ。すきなだけ、弾いてくれてかまわないわよ。あたしばかり弾いていたから、たまにはほかの人が弾いてくれて、ピアノも喜ぶでしょ。」

「はい。ありがとうございます。」

武津子にそういわれる前に小野君は、椅子に座っていた。直ちに蓋を開け、ピアノを弾き始めた。弾いたのは、よく知られている、ショパンのバラード三番である。比較的穏やかな曲であるが、途中で激しい一面を見せる必要もあり、結構演奏技術がいる。

始めは、どこかのんびりした、牧歌的な曲であるが、途中から、だんだんに激しくなってきて、激情的になってくる。それを経て、また穏やかに戻っていくのであるが、ここの落差がかなり難しい曲と言える。

影浦は、弾いているうちに、小野君の顔が悲しそうになってくるのが、とても気になっていた。

とりあえず、バラードは終了した。武津子は特に感想も漏らさない。小野君は、大変がっかりした顔で、ピアノから手を離す。

「やっぱり、ダメですね。」

さっきとは、打って変わった表情で、小野君は言った。影浦が、看護師に連絡を取ろうかと、持っていた鞄の中に入っていたスマートフォンをとる。

「僕、やっぱり足が効かないですね。前みたいにペダリングが思うようにいかなくなりましたよ。素早くペダルを押したり離したりすることがどうしてもできないんですよ。それじゃあ、いくら指が動いても、ダメですよ。これでは、もうピアノは弾けませんね。」

そのまま放置すると、声を上げて自傷行為をするなどし、暴れだすことも十分あり得るので、影浦は捕まえようと身構えるが、同時に武津子も声をかけた。

「そうか。それじゃあ、ショパンではなくて、別のものにしてみたら?ほら、例えばね、バッハのこの曲なんかどう?これであればペダリングも必要なく弾けるわよ。その代わり、指で滑らかに弾く必要はあるけどね。」

影浦は、武津子さんが危ないのではと思ったが、武津子は平気な顔をしていた。

「どう?これならたぶんすぐできちゃうんじゃないかしら。ほら、素敵な曲よ。ただ、演奏技術を見せるようなものではなくて、もっと崇高な、神聖さが感じられるから、あたしと一緒にやってみよう。」

楽譜は、バッハのゴルドベルグ変奏曲だ。もともとはチェンバロか、クラヴィコードなどで演奏する曲だが、ピアノでやっても十分演奏価値がある。

武津子は泣いている小野君の肩をそっと撫でながら、譜面台に楽譜を置いた。

「ほら、ちょっと弾いてみてごらん。たぶん、難しくはないから、すぐできちゃうんじゃないかしら。何なら今日はアリアだけでもいいわ。」

小野君は、顔中涙をこぼしながらピアノを弾き始めた。

そのなんとも言えない優しいメロディは、落ち込んでいる心を慰めるには、最適なのかもしれない。チェンバロやクラヴィコードで演奏すると、非常に素朴で純朴さをアピールすることになるが、ピアノで演奏すると、ゴージャスな芸術作品という感じのする、文字通り、崇高なアリアに変貌するのだ。

どちらも、共通して言えることは、悲しんでいる人物に人生って捨てたもんじゃないよ、と語り掛けているようなメロディであることである。弾いていると、何となく落ち着いてきて、まさしく音楽に慰めてもらったようだ。

「ほら、いいじゃないの。もともといい感性を持っているから、すごく表現力があると思うわよ。こうしてさ、ただ技巧を見せびらかすような曲もいいけれど、そういう誰かを慰めてやれる音楽を作れるってすごいよね。それでも、すごいことだと思うし、そこを強調してもいいんじゃない?」

優しいおばあさん、という感じで武津子は語り掛ける。影浦は、もうしばらく手を出すのを待ってみることにした。

「もう一回やってごらん。落ち着くまで何回もやってごらん。あたしたちにはできない事も、音楽なら慰めてくれるから。」

しっかり頷いて、小野君はまた弾き始めた。まだ涙をこぼしてはいるが、幾分落ち着いてきたようだ。

「今度は、ただ弾くだけではなく、メロディの綺麗さを感じてほしいな。そうすればもっと、心が穏やかになるから。」

また、演奏を始めて、三度弾き終わったときは、もう涙も止まっていた。

「ほら、よかったでしょう。音楽に慰めてもらえたね。よかったね。」

こうなればたぶん、連絡は必要ないな、と思って、影浦はスマートフォンを鞄の中へ戻した。

そのあとは、ちょっと音楽の専門用語にあふれた会話が続き、たぶんバッハの音楽の話をしているのだろうなと思われたが、ちょっと音楽に詳しい人でないとわからない会話が続く。でも、小野君はとてもうれしそうで、もう暴れる危険はなさそうだ。そこだけは、医者の影浦も、はっきりとわかった。

きっと、武津子さんは、ピアノ自体を教えようとしたのではなく、困っている人を慰めるのに、ピアノという道具を使っていたのではないかと、影浦は推測した。彼女のお弟子さんたちは、それを求めて、彼女に師事し続けたのではないだろうか。

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