第七章
第七章
そのまま、駅長さんに手配してもらったタクシーで、二人は製鉄所までいった。杉三は、このリンゴは元々誰にあげるのか、については言及しなかった。そこだけでも、常子は、よかったと思った。
「こんばんは。」
運転手におろしてもらって、杉三は、製鉄所の玄関をあけた。
「水穂さんいる?こないだの、サーターアンダギーのお礼に、リンゴをいただいたので、お裾分け。」
「はいはい、いま寝てる。起こしてこようか?最近、あのおばあさんのごはんが美味しいらしくて、よく寝てるわ。」
そういう、恵子さんは、なんとなく明るかった。やっと解放されたからだろうか?
「あ、そうなのね。あの弁当屋さん、意外に役にたつんだね。じゃあ、上がらしてもらうよ。この、常子さんも一緒だ。二人揃って、入らしてもらうからな。」
そういって、杉三は常子にも入るように促した。常子は、そとに残るつもりだったので、はじめは遠慮したが、杉三に言われて、仕方なく中にはいった。
「おい、起きろ。いいもん持ってきたぞ。あのぽかほんたすって会社のお陰で、少し食えるようになったそうじゃないか。そのうち、七貫までいけるかな?」
そういいながら、杉三は水穂を起こした。遅れてきた常子も、枕元に座った。
「あ、どうもすみません。」
水穂は常子に気がつき、咳き込みながら起きた。
「あ、それじゃあ七貫は無理だねえ。まあいい。偶然富士駅で常子さんに、リンゴをいただいたので、お裾分けに持ってきたぞ。すりおろすか、ロシア風に蜂蜜でにて食べようぜ。」
「ああ、すみません。ありがとうございます。じゃあ、いただきますよ。」
「よし、開けような。」
杉三はそういうと、箱をパカンと開けた。
「あれ、こりゃなんだろう?」
箱の中には、一枚の封筒が入っている。
たぶん校長先生が書いたものだ。小野君を心配してかいたのだろうか。常子は返してと言いかけたが、その前に、杉三が封を破いて中身を出してしまった。
「これなんて読むんだ?ちょっと読んでくれよ。」
杉三は中身を水穂に渡してしまう。筆跡は女のもので、間違いなく校長先生の筆跡だが、
「これは酷い文句だね。きっとこれをもらった生徒は、かわいそうだ。なんだか、悪いことでもしたのかな。校則を破ってしまったとか。」
と、水穂は読んでみて、悲しそうな顔をし、ため息をついた。
「なんだ、なんて書いてあるんだ?」
「どうも内容は教えたくないよ。」
「水穂さん、何を書いてあるのか、教えてください。せめてその手紙だけは、お渡ししてもいいじゃないですか。影浦先生も許可してくれるかもしれないわ。」
常子もそういったが、水穂は、これは見せないほうが良いと、表情で示した。
「どうして?だって、小野君を心配して校長先生が書いたんだと思うし。」
「内容、ぜんぜん違いますよ。校長は、心配なんかしていません。これ以上騒ぎを大きくしないために、小野君の方から辞退するように、と、書かれています。」
と、内容をいった。つまり、退学の勧告書だったのだ。
「酷いもんだねえ。高校は。面倒なことを起こした生徒は、すぐに退学かあ、こんなんだもん、高校生が大人を信じられるなんて、無理なことだ。」
そうか、そういうことをみて、影浦先生はああいう発言をしたんだ。なんだか申し訳ない気がしてしまった。
「まあねえ、どこの国でも、使えない人は排除しようと言う傾向はあるけど、日本は、その傾向が特に強いんだろうね。」
水穂も、これは酷いとため息をついた。
「とにかく、これはその生徒には、渡すわけにはいかんよ。このリンゴも渡さなくてよかったな。もったいないから、僕たち三人で食ってしまおう。すぐにすりおろして食べちゃうか。」
杉三の、すぐに食べようと言う言葉の意味が、わかってしまったような気がした。
「それなら、蜂蜜でにたほうがいいな。すりおろすと、喉に引っ掛かると嫌だから。」
水穂が、杉三にお願いすると、ああそうか、と杉三も考え直して、
「わかったよ。恵子さんに蜂蜜あるかどうか聞いてみて、すぐに作ってくるわ。一時間ほど待っててや。」
と、リンゴの箱を持って、台所へいってしまった。
あとには、水穂と、常子、それに勧告書がのこった。
「思いませんでした。校長先生が、まさかこんなことするなんて。」
「いや、まさかというか、高校であればこんなことしょっちゅうやってますよ。やっぱり高校は、義務教育ではないと言う以上、ある程度高校自体で学校の評判を作らなければなりませんからね。それを汚すような生徒は、やっぱりできればいてほしくないでしょう。」
常子がため息をつくと、水穂は当然のようにいった。
「でも、校長先生は、ちゃんと小野君の面倒を見ようと話していましたけど、それは違うのでしょうか?」
「違います。」
水穂ははっきりといった。
「学校は、もはや教育機関ではありません。ただ、先生の思う通りに生徒を操作しているだけです。いまの時代、だれでも、教育を受けられることを喜ぶ人なんて、どこにもおりません。」
「それじゃあ、小野君は、どうしたらよいのでしょうか?このままだと、退学を迫られて、どこにも居場所がなくなってしまって。」
「文字どおり、敗北ですよ。学校にみすてられたら、その時点で敗けです。日本人はそういうものです。」
「なんとか、できないのでしょうか?」
「できませんね。そうなったら、教育者は撤退するべきでしょう。」
水穂はそういって、また咳き込んだ。
「じゃあ、あたしができることは、もうないということなんでしょうか。」
「はい、ありません。」
咳き込みながら水穂はそう答えた。
「そうですか。でも、あたしは小野君にたいしては、やっぱりかわいそうだと思ってしまうんです。このまま、学校から追い出されて、どんどん転落の人生しか用意されていないのであれば、彼はなんのために生まれてきたんでしょうか。たんに、敗北するためだけに、生まれてきたのなら、あまりにもかわいそうで。」
そういうものが、いわゆる愛情なのかもしれなかったが、いまは、それは軽視されつつある。
「そうですね。いまは、一度つまずいたら、二度と立ち上がれないのが、日本社会なんじゃないですか。いやなら、どこか外国へいくしか、方法はないでしょう。」
水穂さん、そんな残酷なこと、若い生徒に口に出して言えるのかしら、と、常子は、頭のなかで泣いた。
「そうならないために、なんとか、あたしができることってないの?」
もう一度改めてそうきくと、水穂は少し考え込んで、
「潔く撤退することじゃないですか。そして、有力な人物に託すことだとおもいます。」
といった。
「おい、リンゴが煮えたぞ。これ、煮汁もおいしいからな。思いっきり食べような。」
杉三が、深鉢型のさらに、よく煮えたリンゴを入れて持ってきた。部屋は、甘酸っぱい、リンゴの匂いが充満した。
「さて、悪い奴をやっつけたつもりで食っちまおうな。」
二人の目の前に皿がどんと置かれる。なんだか、悪人がくれたものをこうして栄養にしてしまえるなんて、料理するってやっぱりすごいことでもあった。
「いただきまあす!」
そういって、べらりべらりと平らげてしまう杉ちゃんも、健康そのものだなと思った。
そして、その週末。今日は母武津子を連れて総合病院に行く日だった。足の悪い母は、足の健康を確かめるため、こうして定期的に病院に行っている。一人でいけないということはないのだが、途中で転倒などが心配なので、常子も一緒に行くようにしていた。
とりあえず受付を済ませ、母が診察を終えるまで、常子は待合室でまった。ちょうどその時、待合室を、二人の人物が通りかかった。この病院では、時折、歩行困難な患者などが、看護師に付き添われて、待合室などを使って歩く練習を行うことがある。それは大体、脳梗塞などで半身不随になった中年以上の男性であることが多いが、今回やってきた患者は、中年ではなく、引率していたのは、看護師ではなくて、影浦であった。
「あ、小野君!」
常子は思わず声を上げてしまった。
「だから、すぐに声をかけないでやってくれますか。少しずつ、部屋の外へ出て、人に慣れてもらう練習なんですよ。これを30分、一時間と時間を延長して、人間とは怖くないんだと再確認してもらうんです。」
影浦にそういわれても、常子は引っ込む気になれず、
「せめてお話くらいさせてもらえませんか!」
と詰め寄った。
「いいえ、無理ですよ。そうやって、すぐに手を出さないでください。こういうときは、僕たち医療従事者の役目であることをお忘れなく。」
影浦に言われて、次の反論を考えていると、反対方向から、
「常子、何をやっているの?もう薬局行って帰るわよ。」
不自由な足の膝に片手を添えて、よちよちと歩きながら武津子がやってきた。
「あ、あら。すみません。娘の常子が勝手に手を出したりして。こんな大変な患者さんに、おせっかいを出したらだめですよ。きっと大変な問題を抱えているんでしょうし。若いんだけど、そうなるほど、大変だと感じちゃうものなのよね。そういうときは、しっかり年長者が支えてあげなきゃだめなのにね。」
常子は憤慨するが、患者の小野君は、武津子の歩き方とその口調に何か別のものを感じたらしい。武津子をじっと見つめ、少し何か考えるしぐさをした後に、
「おばあさん、ありがとうございます。僕もまだまだダメだけど、頑張ってみます。」
と、静かに言った。
「いいえ、気にしないで頂戴。あたしも、年を取って、何もできなくなっちゃったけど、まだ何かやれるかなと思って、それを探しているところなのよ。」
武津子はにこやかにわらって、そう返した。小野君の顔に、大人を激しく警戒するような表情が見られないので、影浦が、
「小野君、もしよかったら、このおばあさんと話をしてみましょうか。ちょっと時間ありますでしょうかね。彼の治療のため、協力していいただけませんか?」
と、聞く。武津子はいいですよ、とにこやかに笑って、協力すると言った。
「それでは、ちょっとこちらにいらしてください。」
影浦の指示で、武津子と小野君は病院のカフェスペースへ向かう。常子も母が心配なのでついていくことにした。
全員、少し離れたところにある、病院のカフェスペースへ入った。幸い、スペースは混雑しておらず、調理のおばさんも、ウエイトレスも、必要最小限しか声をかけないので、安心して話すことができるようになっていた。ここでカウンセリングを行っている患者も少なくない。
「さあどうぞ。」
と、影浦が、カフェスペースの一番奥にある椅子に、全員を座らせた。
「さて、何にしようかな。あら、軽食もあるのねえ。じゃあ、サンドイッチとコーヒーをお願いしようかしら。」
武津子はウエイトレスに、注文を言った。影浦が自分と小野君にコーヒー一杯といい、常子はなんだか置いてきぼりにされてしまったみたいだったので、オレンジジュースといった。ウエイトレスはにこやかに笑って、注文を繰り返すと、厨房へ戻っていった。
「ここの病院は遠方から来る人も多くて、それで軽食も用意してあるそうなんです。なんでも、診察に二時間以上待たされてしまって、お昼の支度に間に合わないって。」
小野君がそんなことを言い出した。影浦は、それを注意深く観察している。
「そうなのよねえ。私も嫌なのよ。もうちょっと、待ち時間を短くしてもらえないかしらねえ。そんなに長く待たされたら、退屈でしょうがないわ。ねえ先生、どうなんでしょう?」
「あ、はい。僕は嘱託なのでよくわかりませんが、最近はどこの病院でも、何時間も待つのはざらにあります。患者さんに負担をかけてしまうことになりますし、何とかしなければならないなとおもっれいるんですが、最近、患者さんが増える一方で。」
影浦は、申し訳なさそうに答えた。
「あら、先生は、正式なお医者さんではなかったんですか?」
どうしても、そういうところにこだわってしまう人は多い。何か対立するとそれを利用してしまうことがある。
「ええ、普段は別の場所で開業しています。時折要請があると、こうして総合病院などに赴くことはありますが、きっと医師不足が深刻なんでしょう。医者が患者さんを見きれないんでしょうね。」
「でも、先生は、いつも味方になってくれるじゃないですか。この間だって、僕が会いたくないと言った人たちをちゃんと退けてくれました。」
影浦が正直に答えると、小野君が彼を擁護するように言った。
「だって僕、学校の先生なんて、本当に嫌な存在だなと思っていたんですよ。先生であるからと言って、何でも通ってしまうでしょう?たとえそれが、嫌なことであっても、先生の言うことであれば、誰も、従えというし。みんな、先生と言えば、聖人みたいな態度で接するし。本当に嫌だったんです。」
「そうかあ、確かに、そうやって偉い人扱いされてしまうと、いつの間にか自分が偉くなったように見えて、わがままを通してしまうのよね。特に何不自由なく暮らしてきた人って、そうなっちゃうのよ。もっと反省してもらいたいわねえ。」
武津子はいかにも障碍者らしい発言をした。こういう発言は常子は嫌いだった。私は私なりに、一生懸命やってきたのよ、と、思ってしまうが、
「はい、学校の先生って、そういうところが嫌いです。何かしてやっているとか、教えてやっているとか、そういう態度で接してくるので、いざこちらが意見を提示すると、そういう言葉でつぶされちゃう。」
「そうね。小野君。まさしくそうなっちゃうのよ。あたしも、音楽やってて、いろんなところでそういう現場を見てきたの。そして、あたしが、改善した方がいいのではと言うと、足の悪い癖に何を言うんだって、まくし立てられちゃうのよ。」
「そう、そうなんですよね!僕もよく言われるんです。若いくせに何を言っているんだって。かといって、家の役に立とうと思った時には、母に、せっかくのことを放棄して何をやっているんだって、叱られるし。もう、あの時は、自分なんて、何になるんだと思いましたよ。学校では、成績が悪いことで、この学校のメンツがつぶれると叱られますし、家では、母に、自慢すべきものがなくなるじゃないの、って叱られて。僕は、学校や家をかっこよく見せるための道具でしかないのかと思って。それなら、もう、僕が僕として動いても、何の意味もないんだなって、それでもう生きていても、しょうがないんだってわかって。どうせ、学校や家の宣伝用の看板とでしか生きる道がないんだって、本当に絶望したんですよ。僕たちくらいの年齢って、言ってみればプロパガンダのような形で生きていくしか、ないんですかね。」
小野君はここまでを一気に語った。常子は一度も聞いたことのない発言だ。常子には、従順で扱いやすくて、自分が教えればすぐに覚えてくれる、そんな優等生にしか見えなかったのに。
「だから、誰も僕の気持ちなんてわかってくれませんでした。先生に従っていればいい、家の人に従っていればいい、それだけ教えられて、もう苦痛で仕方なかった。そんな学校にいて、なにも楽しくなかったんです。かといって家の役に立とうと思えば、こうして自慢できる要素をとるなと怒鳴られますし。僕が、僕の意思を持ってやろうとしたことは、みんな丸つぶれになるんだなと、はっきりわかったから、僕はもう生きていても仕方ない。」
「そうかそうか。あたしは、そんなことおもったことなかったわ。誰かの役に立ちたいとか、そういうことも思ったことも無かった。それよりも、足が悪いのはどうしても避けられないから、それを踏まえて、できることは何かなって考えてた。」
「おばあさんは、それがはっきりわかっているからいいんです。僕はそうじゃなくて、学校や、家の大人たちが、自分のことを自慢する道具としか見てもらえません。それに、飛び降りたときに、後遺症が残ってしまって、もうピアノが弾けないから、自分のよりどころもなくしたんですよ。」
武津子がそういうと小野君はそう答えた。ここまで固まってしまうと、常子はもう反論のしようがないが、武津子は、まだ何か意見があるようだった。
「ええ、でも、指は効くんでしょう?」
武津子はそう質問する。
「はい、でも、ピアノって手だけでは弾けないじゃないですか。やっぱりペダルの踏み方を考えないと。」
「そんなことないわよ。」
武津子は、にこやかに言った。
「あたしは、左足がほとんど使えないから、セカンドペダルなんてほとんど踏めないけど、ちゃんとピアノをやっていたんだもの。」
「ああ、そうなんですか。お体が不自由なのに、ピアノなんかされていたんですね。そういえば、日本初のピアニストと言われた久野久子さんでしたっけ?あの方も確か足が不自由だったそうですね。僕は、彼女が録音した、月光ソナタのレコードを、聞かせてもらったことがありましたが、確かに不自由さはあるものの、きっちりしていて上手だなと思いましたけどね。」
影浦が、医者らしい話をした。やはり医者というだけあって、こういう高尚なものに触れる機会が多いのだろう。
「そうでしょう。私も、ほかの演奏者から足のことをいわれる度に、彼女の話をして、対抗したんですよ。」
武津子は、懐かしそうに笑った。
「でも、足に障害があって、ピアノをあきらめようとは思わなかったんですか?僕は、もうだめなのかなと思っていました。でも、果たしてピアノ以外に何があるかなと考えると、何もないことも確かなので、いつも悩んでいます。」
小野君が、若い人らしく単刀直入に質問してきた。
「そうねえ。あたしは、ほかに考えられなかったからなあ。ピアノ以外に何かしようなんて。足が悪かったら、その代わりに何とかしようとは思ったけど。それを打ち出してピアノ教室やってたけど、お弟子さんたちは、ちゃんとそのあたり、理解してくれたしね。そんな、ピアノをやめてほかの道へ行かなければならないかと考えたことは一度もなかったわよ。答えになってなくて、本当にごめんなさいね。あたしは、とにかくピアノが好きだったし、離れたくなかったという気持ちのほうがつよかったかなあ。」
お母さんたら、ずいぶん役に立たない答えを言って、やっぱり障碍者はかっこいいセリフを言うべきじゃないのよ、なんて、常子が考えていると、
「いえ、ありがとうございます。答えは得られなかったけれど、もう一人自分のことをわかってくれる人ができたというだけで、とてもうれしく思いました。」
と、丁寧に答える小野君。その穏やかな顔を見て、常子は教育者には、こういう顔をさせてやることはできないのではないか、と思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます