第六章

第六章

いつも通り、常子が立花高校で、ピアノのレッスンをして、職員室に戻ってきたときのことだった。

丁度、校長先生が、電話で何か話していた。

「そうですか。わかりました。ええ。この度は誠に、ありがとうございます。」

周りには、ほかの教師たちも詰め掛けている。

「ね、ねえ。どうしたの?」

常子は、用務員のおばさんを引き留めて、電話の内容を聞いた。

「ええ、病院の先生からで、なんとも、小野君が、やっと落ち着きを取り戻してくれたので、外部の方との面会が許されたそうです。」

「えっ、本当!じゃあもう病院に行ってもいいってこと?」

おばさんの話を聞いて、常子は思わず声を上げた。

「わかんないわよ。とにかく、すごい錯乱状態で、大変だったって、病院のなかでも、すごい問題になったらしいから。」

そうか、それであれほど面会を拒否されたのか。理由がこれでやっとわかった常子だった。

「でも、落ち着いてくれたんだから、もう行ってもいいんでしょう?少なくとも子どもじゃあるまいし、話ぐらいできるでしょ?」

「何にもわかってないのね。財前先生は。そういう状態になるってのは、子どもも大人も関係ないの。欲望という名の電車、だったかな、あの映画を見ればわかるでしょ?」

「そんな古い映画を出されても、わかんないわよ。ちゃんと教えてよ。」

「もう、本当に世間知らずよね、財前先生は。この時代であれば、そのくらい知ってなきゃ。」

ちょっとまって、という前に用務員のおばさんは、嫌そうな顔をして、職員室を出て行ってしまった。それと同時に校長先生が、がちゃんと電話を切る。

「ええ、小野徹平君が、錯乱状態から落ち着きを取り戻したそうです。でも、少しの発言でまた元に戻ってしまう可能性もまだまだあるということで、面会は必要最小限にとどめたいそうです。ただ、皆さんの心配もあるでしょうから、どなたか代表の方に一人、病院に行ってもらうことにしましょう。とりあえず、担任の先生には行ってもらいますが、ほかに誰かお会いしたい方はいらっしゃいますか?」

校長先生がそう言ったが、おかしなことに、誰も手を挙げなかった。若い女の先生たちは、私、錯乱となった人には会いたくないわ、と口々に言う。そこで、常子は真っ先に

「はい!私が行きます!」

と手を挙げた。後はほかに誰もいなかった。担任の先生でさえも嫌そうな顔をしていた。

「じゃあ、そうしましょう。財前先生、お願いします。今日の放課後、さっそく病院に行って、小野君の顔を見てあげてください。」

校長先生は、本当は常子ではなくて、別の教師に行ってもらいたいと思っていたようだが、手を挙げた物が常子しかいなかったので、しぶしぶ許可した。

放課後、常子は校長室に呼び出された。

「じゃあ、よろしくお願いしますね。食べ物の差し入れが許可されたら、校長からと言って、これを渡してちょうだい。」

校長先生は、果物の入った箱を常子に渡した。

「ええ、わかりました。しかし校長先生、あの時、先生が立候補を求めたとき、なぜ先生方は誰も手を挙げなかったんでしょうね。私は、真っ先に小野君に会いたいと思っていたのですが。」

あの時に感じていた疑問を、常子は校長先生に話した。

「そうねえ、こうなってしまったら、もはや教育者は限界なのかもしれないわね。」

校長先生は、何か寂しげに言った。常子はこの時点では意味が分からず、この言葉は聞き流していた。

「もし、それがわかったら、私たちは潔く撤退しましょうね。でも、それまではしっかり小野君を受け止めましょう。」

撤退なんて、常子はその時は考えてもみなかった。

「わかりました。とにかく、そのようなことはないと思いますが、とりあえず行ってきます。」

「よろしくお願いしますね。」

校長先生の寂しそうな表情を無視して、常子は、校長室を出た。


学校を出ると、冷たい風がピーっと吹いてきた。それだけではなく、ぽつりぽつりと雨も降ってくる。そんなことは無視して、常子はいつも通り電車に乗り、病院の最寄り駅で下車した。病院までは雨が降っていたせいか、いつもの道路がとにかく歩きにくく、常子が病院に到着するまで、20分近くの時間がかかった。

とりあえず、病院の前へ到着すると、まだ面会時間は終了していなかった。受付に、小野徹平君に会いに来たと告げると、とりあえずどうぞと嫌そうな顔をされて、中に通された。

よし、今度は絶対に小野君と話をしよう。そう思いながら、常子は小野君の病室の前に立ち、ドアをたたく。と同時に、はい、と声が聞こえてきたが、その相手は影浦だった。

「何ですか。先生、また来たんですか。」

「また来たんですかって、だって今日学校に電話があって、もう面会が許可されたと聞いたので、急いでやってきたのですけれども。」

常子が、また面食らってそういうと、

「そうですか。では僕も立ち会わせていただきます。いくら外見では落ち着いたように見えますけれども、精神医学上では、まだ心配な面がたくさんありますので。」

と、きっぱりとした表情で影浦は言った。

「そうであっても、許可されたわけですから、小野君に会わせてください。」

常子も負けじと言い返すと、

「それではどうぞ。」

やっと常子は部屋に入らせてもらえた。なんだか検問所の警察とやり取りしているみたいだった。

「徹平君、君のピアノの先生が、心配になって見に来てくれたそうです。少しだけでいいですから、顔を見せてやってくれませんか。」

ところが、ベッドで寝ているのは間違いなく小野君であるのだが、決して常子のほうを見ようとはしない。

「ああ、そうですか。つまり、お会いしたくないですか?」

小野君の返事はないが、影浦はそれを肯定と受け取ったのか、

「失礼ですが、先生とはお話したくないそうです。」

と、言った。

「何ですか。まるで、通辞みたいですね。そうではなくて、本人はどう考えているのか聞くべきなのでは?」

「当り前じゃないですか。こういう場合、通辞というか、信頼できる大人を、一人作っておくことが必要なんですよ。治療というのはそこから始まります。特に彼の場合、そこが一番深刻だと思うので。」

常子が驚いてそういうと、影浦は当然のように言った。

「もともとね、学校の先生なんて、こういう病気の若い人には一番有害であることは、疑いありません。彼も含めて、僕が見てきた患者さんは、大体他人に対して不信感をもっていることが多いんです。それを取り払うには非常に時間がかかります。そうなれば、初めは通辞代わりに見えるのも仕方ないんですよ。」

「有害って、あたしが何をしたというんです?あたしはちゃんと、彼にピアノを教えてきただけのことで、彼の人格を否定するような発言をした覚えはありませんよ。」

「具体的になんといったかは関係ありませんよ。徹平君は、あなたがあまりにも期待をするので、その重圧に耐えられなかったと錯乱状態の中、そういっていましたよ。精神疾患患者の妄想を信じてはいけないと言われることが多いですが、僕はその逆だと思うんです。むしろ、妄想と言いますのは、一皮むけば、重大な本音であり、真実である場合が多い。ですから、あなたのような学校の先生は、有害にこの上ないわけです。」

「ま、まあ、先生は、そういって教育者を侮辱しているわけですか。あたしは、そんなこと一度もしたことありません。」

「侮辱何かしていませんよ。僕が見る限り、患者さんは嘘がつけない場合が多いです。ですから、本人が話したくないというのなら、その通りにしてやってくれますか。学校の先生というのはですね、はっきり言ってしまえば、病原菌と大して変わらないんですよ!」

「そんな、病原菌だなんて!」

思わず常子が怒りに任せて怒鳴ると、

「財前先生、ありがとうございます。財前先生が来てくれたのはうれしいんですが、僕はまだ、影浦先生でないと、大人の人が信じられません。大人って、僕たちのことを、道具としかみてないじゃないですか。どうせ僕なんて、大人の人がいいかっこうをするための道具にすぎなかったんですから。」

小野君が、小さい声でそういった。常子は、そんなことない、あたしは、小野君のためを思ってやってきたのよ。と言おうとしたが、

「そうですね。きっとそういう人も少なからずいます。本当に誰かのためを思ってくれる人なんて、ほとんどおりません。誰だって、自分が可愛くて、そのために生きているんですから。そこで、あなたも大いに傷ついたわけですから、今はこちらで休んでいましょうね。」

と、影浦に言われて、さらにカチンときた。

「悪いのですが、先生だって、この病院で働いているわけでしょう?それでは大して変わらないのではないですか!」

思わず怒鳴ると、

「ええ、僕は事実的には嘱託です。この病院で正式に雇われているわけではありません。」

影浦はあっさりと答えた。そうなると、正式職員ではないということになるので、小野君が反応を示したことも、筋が通っていた。

「まあ、嘱託のくせに、、、。」

常子は、この医師に、嫉妬心を持ってしまう。私がしてきたことを、簡単に全否定されてしまうとは。

「そんなこと言わないで。先生は、どうせ、自分が大学の先生になれなかったことの腹いせに、僕にピアノを教え込んで、自分の自慢にしようとしていただけすよね。それだけなんですよ。ほかに何も教えてくれなかったじゃないですか。」

「そんなことないわ!あたしは、小野君には才能があって、そこを伸ばしてあげたくて、一生懸命教えていたのよ!それに、あたしが大学に進まなかったのは、別の事情があったから。それよりも、高校で、精いっぱいピアノを弾いてもらうために、教えてきただけの事よ。あたしは、小野君をはじめとして、生徒が、音楽学校へしっかり進学してもらうまでは、できる限りのことは教えていこうと決めていたのに、なんでそういうこと言うのよ!」

「そうですか?先生は、そういうところ、僕には全く見せませんでしたね。先生は、いつまでもこの学校に勤めてて、いつまでも出世できないから、僕をその道具にしようとして、ピアノを教えているんだって、それしか言いませんよね。」

「失礼ですけど、小野君、今の話は誰がしていたんですか?この、財前先生ですか?それとも、クラスメイトですか?」

常子と小野君の話に、影浦が口を挟んだ。

「あたしが、そんなことした覚えはありませんわ!」

「財前先生は、黙ってください。少し彼の話を聞きましょう。」

影浦は常子を黙らせると、

「もう一度聞きますよ。あなたを、出世の道具として見ていた人物は誰ですか?」

「はい、財前先生です。」

あっさりと肯定する小野君。

「それは、誰から聞きましたか?財前先生が、直接小野君にそういったのですか?それとも、クラスメイトがそういっていたのですか?」

「いえ、同級生ではありません。」

「じゃあ、財前先生が、そう口に出していったのですか?」

影浦が、そう質問すると、

「違います。」

と、小野君は答えた。

「じゃあ、誰がそういったのですか?あなたのお母様とか、ご家族の方ですか?」

もう一度影浦が質問すると、

「いえ、口に出しているわけではないのですが、先生がそう言っているんです。」

と小野君は答えを出した。

「どういうことよ!口に出していったわけではないのに、先生がそう言っているって!あなた、表現力がまるでないの!」

「だから、財前先生は黙ってください。口に出した言葉がすべてではありません。先生も、音楽をされているからわかると思うんですが、周りの雰囲気や、言葉の口調などから、いくら反対の言葉を口にしても、本音が読み取れてしまうことはあるじゃないですか。たとえば、音楽を聞いて、短調を嬉しそうだと思う人はいないでしょう?それと一緒ですよ。そこを読み取るというのはある意味優れてた機能であって、人間はそれのおかげで平和な生活ができると言っても、過言ではないでしょう。ところが、周りの環境があまりに劣悪だと、こういう風に、認識能力がくるってしまうんです。それの真っただ中にいるんですよ、小野君は!」

そんなことって、あるんだろうか。ただ、言葉通り信じれば、平穏な日々など容易に獲得できるものだろう。それが狂うなんて、あり得るはなしだろうか?

何よりも、私が、その元凶を作ったとでもいうのだろうか?

だから、教育関係者は有害で、私は病原菌といわれてしまうのか!

でも、私は、一生懸命やってきたつもりなのに、、、。

「じゃあ、あたしは、どうしたらよかったんですか。一生懸命小野君の指導をやってきたつもりなのに。」

「だから、そのやってきたとか、やってやったとか、そういう思いは捨ててください。そういうところが、間違いなんです。」

反論のしようがなかった。小野君は、そのくらいしか、私の事を見ていなかったのか。

「わかりました。もう、今日はこれで帰ります。もう病原菌といわれてしまったので、出る幕じゃないですね。ただ、これだけは、校長が渡してくれと言っていたので、置いていってもいいですか?」

常子は、校長先生から渡された箱を差し出したが、

「いえ、有害なものは受け取れません。関連するものを見ただけでも、錯乱状態を再び起こす可能性があります。今の時点では、小野君を、学校からできるだけ引き離すことが肝要だと思います。」

と、影浦に拒否されてしまった。

「そうですか。わかりました。もう帰りますが、私は、病原菌とは違いますから!」

もうやけくそになって、常子は、部屋を出て行った。挨拶するのも、お辞儀をするのも忘れていた。


常子は再び電車に乗り、自宅のある、富士駅へ戻った。校長先生から渡された果物は、もう駅のごみ箱に捨ててしまいたくなった。そこで、ごみ箱のある方へ向かうと、

「おい、何処へ行くんだよ。ごみ箱はそこじゃないぞ。」

と、声がした。

「すみませんお客様、ごみ箱は、改札を出て左手にございます。先日駅の改良工事を行いました際、わざわざ改札に入らないとごみを捨てられないのは困ると、ほかのお客様から、苦情が出ましたので、ごみ箱は改札の外に移転しました。」

振り向くと、杉三が、年をとった駅長さんと一緒に声をかけたのだった。

「あ、そうですか。すみません。ありがとうございます。」

常子が駅長さんにお礼を言って、自動改札のほうへ向かっていくと、杉三も駅長さんと一緒についてきた。

「ど、どうしたの。なんでついてくるのよ。」

「だって僕、手伝ってもらわないと改札はできないのよ。」

ああそうか、歩けないと、自動改札機を通ることができないのか。そのまま、一緒に改札に向かって行って、常子は自動改札機で、杉三は駅長さんに切符を切ってもらって、改札を出た。

「まあ、今年は寒いなあ。あ、そうだ、ミカンの皮を捨てなくちゃ。電車の中で食べたんだ。駅長さんよ、悪いけど、新しいごみ箱まで連れて行って頂戴な。」

え、そこまで一緒に来るの?常子は困ってしまったが、

「よろしければ、ご案内しますので、一緒にどうぞ。」

親切な老駅長さんがそういってくれるので、一緒に行くことになってしまった。駅長さんが、杉三の車いすを押して、ごみ箱の前に連れて行ってくれた。常子もしぶしぶついて行く。新しいごみ箱は、確かに改札口を出て、左に曲がったところに設置されていた。杉三は、すぐに、持っていたミカンの皮を、ごみ箱に捨てた。

「常子さんは何を捨てるんだ?」

まさか、校長にもらったものを捨てるとは言えない。

「これなんだけど、生徒のおやごさんにもらったもので、もらいすぎちゃって。」

と、はこを取り出して、捨てようとするが、

「はあ、今時の若い人は、そういう物を平気で捨てるんですか。日本も飽食国家とはよくいったものだ。わしが若いころは、こんなに高級な果物をもらったら、誰でも家に持って帰って、目を輝かせて食べたものだけど、、、。」

老駅長が、そう愚痴を漏らしたので、常子は捨てるということができなくなってしまった。そういうことを言われると、なんだか悪いことをしているようで。

「ああ、でも、常子さんの家は、二人しかいないから、食べきれないんだろうな。」

杉三の解説で救われたとおもった。

「ああ、母は甘いものが苦手で、其れで、もらっても腐ってしまえば、宝の持ち腐れだなとおもったの。」

常子は自身でもそういってごまかそうとしたが、

「そうか、それなら僕に分けてくれよ。お母さんが苦手なら僕がもらうわ。高級なリンゴだもん、栄養もあるだろうし、もったいない。製鉄所に持って行って、水穂さんにすりおろして食わせてやるか。丁度な、こないだ、水穂さんにサーターアンダーギーをもらったので、どうせ礼をしないといけないんだわ。」

と、杉三は言った。

「よし、すぐに届けに行かなくちゃな。こういう場合善は急げだ。明日になってからじゃ、リンゴは生鮮食品ということもあり、遅すぎる。駅長さん、悪いけど、タクシー乗り場まで運んでくれるか?」

「はい、わかったよ。バスはもうすぐ終いだが、最近は遅くまでやっててくれているタクシーもあるから、こういうときに便利だね。」

駅長さんは、車いすの方向を変えた。じゃあ私はこれで、といおうとしたとその時、

「おい、あんたも来るかい?どうせな、水穂さんも、一人で一日中布団に寝かされて寂しいと思うからな、こういう時の訪問は多ければ多いほどいいんだよ。」

と、杉三に呼び止められた。

「あ、そうだね。杉ちゃん。それはいいかもしれない。確かに大勢の人が来てくれた方が、にぎやかで楽しいと思うよ。」

え、駅長さんまで、、、。

まるで飴と鞭をくらわされた気分だった。

「わかったわ。」

常子は、仕方なく今日は杉三についていくことにした。

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