第五章
第五章
その日。常子は心配になって、例の小野君のいる総合病院まで行ってみることにした。
とりあえず、受付に行って、小野徹平君はどこに?と聞いてみたところ、担任教師ですかと聞かれる。嘘をつくわけにもいかず、違いますと答えると、それでは無理ですと断られてしまった。そこで、立花高校のシステムを話し、担任教師ではないが、ピアノ講師として小野君と関わっていたと答えると、ちょっと待ってくれと言って、一度受付係は奥に消え、数分後にやっと許可してくれた。
受付に言われた通り、総合病院の廊下を歩いて、小野君のいる病室に向かったが、そこですれ違った患者たちから、ずいぶん派手な格好してまんなあ、なんてからかわれてしまい、少々ムカッとしてしまう。ど、どうもここは、私みたいな人は来てはいけないような、そういう雰囲気がある。
やっと小野徹平と書かれた病室の部屋にたどり着いたのではあるが、ドアの前で一個、ため息が出た。
「こんにちは。」
一言、ごあいさつした。
「あ、誰かが来たみたいですね。」
あれ、中にいるのは小野君ではなかったのだろうか?間違いなくドアに貼られているのは小野君の名前なのに?
「入らせてもいいですかね。」
その人物がそう聞いているので、小野君も間違いなくいるんだなということがわかる。でも、こういうような言い方はちょっと頭にくることがある。
暫く常子が複雑な気持ちでドアの前に立っていると、二人の人物が何か会話しているのが聞こえてきて、二言三言交わした後、
「はいどうぞ。」
と、いう声が聞こえてきて、やっと常子は入らせてもらうことができた。
がちゃんとドアを開けて、中へ入ると、真っ先に小野君の顔が現れるのかと思ったら、応答したのは、影浦であった。こうしてみると、なんだか会いたい人に会う前に、その人を厳重に守っている、護衛のように見えた。
「あの、私、小野君の、」
「あれ、担任の先生なら、先日見えましたけど?副担任の先生っていらっしゃるんですか?」
「いえ、そうではなくて、小野君から学校のシステムは聞いていないのですか?私たちは、非常勤ではありますが、音楽の専門科目として、そこで担当が付くのです。私は小野君の担当をいたしました、
財前常子ですが、」
「あ、そうですか。わかりました。彼も周りの大人に対してかなり警戒していますから、今日のところは、帰っていただけませんか。」
常子が、そう自己紹介したのを遮って、影浦はそう言い放った。
「もし、先生方が、彼に何かお伝えしたいことがありましたら、僕が学校のほうに許可すると連絡いたしますよ。彼もですね、大人の板挟みで相当参っていたようですので、有害な大人は、目下、近づけたくありません。」
有害と言われて、常子はまたムカッと来た。自分は小野君のことを心配しているのに、有害なんて失礼な話しだ。
「仕方ないじゃないですか。誰でもそうですけど、人間って単純じゃないんですよ。彼は、学校の先生の期待もさんざん感じていて、多大な負担だったそうです。家庭でも、家のやくに立ちたいと懇願していたそうですが、お母様は音楽学校に行ってもらいたいとかねてから望んでいて、申し訳なさと、
期待に添わなければならないことで、大変だった末の自殺だったそうですから、その原因を作った人からはできるだけ遠ざけたいんですよ。ですからね、やたらこっちへ来ないでいただけませんでしょうか。」
影浦の言い方はきつかった。それではまるで自分が犯罪者みたいじゃないか。そうではなくて、自分は小野君のことを心配してきたのだけど。
「私、そんなことは毛頭していません。小野君についてパワーハラスメント的な発言をしたこともないし、彼の演奏や、学校での態度をひどく厳しく注意したとか、そういうことをした覚えもありません。ですから、私がなぜ締め出されなければならないのですか?」
「もう少し考え直していただけませんか。自分のしたことは確かに間違ってはいなくても、相手にとっては、重大な負担だったということは結構あるんですよ。」
「それでも、」
常子はどうしても小野君の顔を見たかったが、
「いいえ、今日は無理です。先生方など、学校の関係者の方は、彼の状態が落ち着いたら、僕が許可を出しますから、その時に来てください。そうでもして、保護してやらないと、彼が錯乱状態に陥るかもしれない。そうなった場合、正気を取り返すのは、非常に大変なんです。」
と、影浦は断固として、部屋へ入るのを認めなかった。
「だけど、私は、非常勤とはいえ、一応彼にかかわっていた一人なんですから。」
「いいえ、学校の先生はこういう場合、何も権限はありません。治療に対して支障が出る原因になりかねませんから、こちらへ来るのは、やめてください。」
黙りこくってしまう常子に、
「先生、先生だからと言って、何でも通るとは限らないのです。立場で何でも可能というわけじゃありませんよ。もう少し、自制心というものを持って、行動してくださいね。」
と、影浦は厳しい口調で言った。これではもうだめかと、常子は諦めて帰ることにした。それではごめんなさい、と一言だけ言って、すごすご病院を後にした。
なんだか私って、彼に対して何をやってきたんだろうな。ただ、ピアノを教えてきただけの人間に過ぎなかったか。音楽には、もっと、人生を切り開いていくための力があるんだと、一生懸命伝えようとしてきたつもりだったのに。
あーあ、ダメね。今までは、それなりに生徒がやっていってくれて、自分は教えるだけでよかったけど、今は、そうじゃなかったのね、という時代への憤りの気持ちもわいたけれど、もうそういう時代になっていることに気が付くこともできなかった、私も馬鹿だなあと思うようになった。
そんなことを考えながら、今日も家に帰った。
家に帰ると、母武津子がピアノを弾いていた。左足の悪かった母は、基本的にセカンドペダルを踏むことができなかった。ダンパーペダルなら踏むことができるので、一応、素人には曲として成り立っているように聞こえるが、専門的に考えると、そうはいかなかった。古典派までならそれでよいのだが、ベートーベンあたりから、音色を変えたいという目的で、セカンドペダルを使用することも多くなるし、ロマン派以降、特に現代音楽になってくれば、当たり前のようにセカンドペダルが使用されている。
だから、母の演奏は、決して完璧なものではなかった。
本人はそのことを指摘されると、久野久子さんは、足が悪くてもピアノを弾いていたのよ、なんて言って、対抗していた。
「ただいま。」
常子は、そう言って、部屋の中に入ると、武津子は、ピアノを弾く手を止めて、あら、お帰りなさい、と明るく言った。
いつもなら、何も言わないで自室に戻ってしまう常子だが、今日はそのような気になれなかった。なぜか、ピアノを弾いている母が憎たらしくなったのである。
「お母さん、よくそんな風にピアノなんかやってられるわね。ペダルだってまともに押せないくせに。それでよく、あんなにたくさんのお弟子さんを持てたわね。それじゃあ、お母さんに教えてもらったお弟子さんたちは、みんな嘘を習っていたということになるじゃないの。」
「ええ、それはもちろん百も承知よ。皆さん、そういって習いにきてたわよ。」
武津子はそう返してきた。
「じゃあ、お弟子さんたちがわかっているから、嘘を教えていてもいいの?具体的には、お母さんは、セカンドがどうしても必要になる曲の場合、どうしていたのよ?」
「どうしても必要な時は、お弟子さんに任せてきたわ。本人がやりたければやればいいし、必要ないと思えば使わなくていいと教えてきた。」
これを聞いて、常子はさらに悔しくなった。
「お母さんは、セカンドペダルを踏めないのに、なんであんなたくさんのお弟子さんに慕われていたのよ!あたしときたら、大事にしていたつもりの生徒に裏切られて、もう、見舞いに行ったら締め出されるほどの、悪人扱いされているのよ!」
「それは、常子がやり方を間違えただけでしょう。知らずしらずのうちに、その生徒さんを追い詰めてしまったから、そういうことになったのよ。それと、セカンドが踏めないこととは関係ないわ。それに、常子と違って、あたしは、別にお弟子さんを上級学校に進ませるために教えていたわけではないし、ただ好きでピアノを弾いていた人ばっかりやっていたから、あまりそういうことは気にならなかったのよ。」
母は、開き直るような言い方でそういった。
「常子、一緒にしちゃだめよ。お母さんのしていることと、常子がしていることはやっているのは同じかもしれないけれど、目的が違うの。お母さんはただ、心を癒すとか、そういうためにピアノをやりたいという人たちにアドバイスしていただけのこと。常子は、そうじゃなくて、将来音楽家になって、演奏を聞かせていく人たちの礎を築いていく立場なんだから、お母さんの演奏と、常子の演奏は一緒にしてはだめ。今回の失敗は、お母さんと比べるものじゃない。目的が違うんだから、そこを踏まえてしっかり反省しなさい。」
「へえ、いいわね。お母さん。じゃあ、お母さんは、もともと本気になってピアノをやろうという人でないということがわかっていたから、あらかじめ仕事に手を抜いていてもよかったということなのね。ただ好きだからという人にピアノを教えるだけだから、いい加減に教えておけばいい。それでいつもお弟子さんに接していたわけね!それなのに、お弟子さんたちが毎年毎年、うちへ、お中元やらお歳暮やらを持ってくるのはどういうわけ?どうしてそんなにお母さんは、お弟子さんたちにあんなに慕われるのよ!」
「さあ、どうしてかしらねえ。」
常子がそう反論すると、とぼけるように母は言った。
「あたしは、知らないわ。お弟子さんたちが、勝手に持ってきただけよ。中には、足の悪いあたしでは使えないものをもらったこともあって、別のお弟子さんにおすそ分けしたりして、いい迷惑だったこともあったわ。」
「それじゃあ、お母さんは、理由なんか知らないっていうの!なんでよ。あれだけ慕われて、お弟子さんたちみんなお母さんからピアノ習って幸せだったって、口をそろえていうじゃない。その理由をお母さんが知らないなんて、いい気なものよね。お母さんはただ、お弟子さんたちが集まってくるから、あたしがしているような苦労を知らないで、生活できたから、あたしの悩みに答えを出せないんでしょ!それをわざわざ目的が違うとか、そういうことでごまかすなんて、格好つけすぎにもほどがあるわよ!言ってみれば、お母さんはペダリングができないから、正確なレッスンができないくせに、お弟子さんから慕われていて、いい気になっているだけ!本当の音楽を教えようとすれば、あたしみたいにこうやって、苦労をするのを知らないだけよ!」
「そうかもしれないわね。」
武津子は常子の発言をあっさりと肯定した。
「きっと、常子のような立場であれば、そうなるんでしょうね。ただ、ハンディをつけてもらって、生活しているだけに過ぎないでしょうね。だからあたしは、さっきも言ったけど、セカンドを踏めないことは、もうどうしようもないことだから、できないってはっきりお弟子さんに言ったわ。その代わり、あたしができることは、しっかりお弟子さんに伝えるようにした。それだけは、どんなお弟子さんに向けても必ずやった。たぶん、ほかの先生に比べたら、あたしはできないってはっきりわかってたから、その代わりどんなお弟子さんに対しても、伝えるようにした。それだけの話よ。」
「お母さんは本当に、障害があるということに甘えて、仕事を減免してもらっていただけで、あとは何も苦労していないのね!」
常子は、ここぞとばかりに母に怒鳴りつけた。
「あたしは、お母さんのようなけち臭いことはしたくない!」
「そうかもしれないわね。あんたたちの立場から見ると、お母さんは、けちでずるいのかもしれないわね。もう、この話はよしましょう。こういうことは、決着が付かないもの。お母さんと常子は、目的が違うんだから。」
ふいに母は、そういって話を制止させた。
「あ、それからね、常子。」
急に話を変えるのも、母の得意技である。
「今日、お弟子さんが、うちに来てね。沖縄へ旅行に行ってきたそうだから、お土産だって言って、お菓子を持ってきてくれたのよ。でも、もらいすぎて、うちでは食べきれないから、あの、こないだうちへ来てくれた、水穂さんとかいう人に、分けてやってきてくれる?」
はあ、やっぱり、そうなってしまうのかあ。お母さんはやっぱり、お弟子さんからいろんなものをもらう。
武津子は、ピアノの椅子からよいしょと立ち上がり、テーブルの上にある箱を開けた。
箱には、さーたーあんだーぎーと書いてある。
「沖縄の伝統的な縁起のいいお菓子なんだって。結納の式でも使われるらしい。ほら、これだけ持ってって。お母さん、道を知らないから。じゃあ、よろしくね。」
そう言いながら、一つ一つビニール袋に入っている菓子を、武津子は小さな紙袋に入れた。これ以上母に反抗しても無駄だと思った常子は、行ってきますとだけ言って、それを受け取り、玄関から外へ出た。
今回は、車に乗る気にはなれず、歩いて製鉄所まで行った。実際、製鉄所はすぐ近くで、歩いて行っても10分程度しかかからなかった。
「こんばんは。」
インターフォンがないのでじかにガラッと玄関の戸を開けると、恵子さんが出た。
「あの、水穂さんいますか。」
「はい、眠ってはいますけど、起こせば起きるはずだから、どうぞ。最近は、宅配で持ってきてくれる、介護用の食事をよく食べるから、そのあとはよく眠っているようだし、なかなか起きないかもしれないけど。」
恵子さんは、何だか少し吹っ切れたという感じだった。
宅配弁当ということは、専門の介護業者に委託したのか。それなら、確かに恵子さんの負担も少し減るだろう。恵子さん、よかったじゃない、と、常子は思った。
「どうぞ、上がって頂戴。顔も見てやって。ただ持ってきただけでは、本人もさみしがるわよ。」
「あ、わかりました。」
恵子さんにそういわれて、常子は製鉄所の中に入った。ずいぶん古臭い建物で、廊下を歩くたびきゅきゅきゅ、となるのがなんだかうるさかった。
「こっちにいるから。」
恵子さんは四畳半を示すと、自身はそそくさと台所に戻った。
「こんばんは、あの、こないだは、うちに来てくれて、どうもありがとうございました。これ、母からなんですけど、お弟子さんの沖縄旅行のお土産だそうです。なんとも、うちでは食べきれないので、少しお分けしてやってくれと、母が言ってました。」
そういいながら、常子はふすまを開けた。水穂は、部屋の中で眠っていたが、その音を聞きつけて目を覚まし、苦労しながら布団に座ろうとした。
「あ、無理しなくていいですよ。あたし、お渡ししたらすぐに帰りますから。」
と、常子は言ったものの、そうはいかないと思っているのか、水穂は布団の上にどうにかして座った。
これでは、すぐに帰ってしまうのも申し訳なく、常子も布団のわきに座る。
丁度、目の前に、本箱があって、中には、レオポルト・ゴドフスキーの楽譜が大量に入っているのが見えた。
「すごいですね。やっぱり、水穂さんは、大学時代に天才と言われただけあって、ゴドフスキーの楽譜が大量にある。」
常子が感心してそういうと、水穂は、そんなことないというように首を振った。
「でも、ゴドフスキーは、音楽学校に入れば誰でも弾けるようになれるという作曲家ではないでしょう。現に、あたしが指導している高校でも、誰も挑戦してみようという生徒はいませんよ。」
「そうですね。僕も無理してやらなくてもいいと思います。難しすぎて、手を故障したりとか、そんな過酷なことを、押し付けなくてもいいと思いますから。」
水穂は、そういって一つため息をついた。
「あら、そんなこと言っていいの?あれだけ天才だと言われ続けた人が。ゴドフスキーなんて、弾けるだけでも驚かれる人なんだから、もっと自慢していいのでは?」
「いや、自慢なんてできる物ではありませんよ。よほど体力ある人でないと、ゴドフスキーは弾けないし、弾きこなせないです。もうとにかく、楽譜を見ただけで、目が回るという人がほとんどなんですから、それを綺麗に弾きこなすとなったら、本当に大変すぎて、体も壊しますよ。」
「変なこというのね。」
常子は、水穂を不思議そうな顔で見た。
「あれだけゴドフスキーの曲を弾いてた人が、そんな卑屈なセリフをいうなんて、信じられない。そんなことを言ってたら、ほかの音大生をバカにしているようにも取れるわよ。」
「いや、むりなものは無理なんですから、よしてください。そんな難しい作曲家の作品を体の壊れるまで弾くよりも、もっと穏やかで明るい作曲家の作品を広めることに力を入れるべきですよ。」
本当に変なことをいう人だなあと、常子は、水穂を不思議な顔で見た。本当に謙虚すぎるというか、かえって卑屈すぎる。あれだけの大作を平気で弾いていた人が、なぜ?
「じゃあ、ちょっと聞くけど、どうしてここにある楽譜を弾いていたの?ほら、ジャワ組曲とか、パッサカリアとか、ピアノソナタホ短調まで、、、。」
「仕方ないじゃないですか。そうするしか生活していけなかったからしか、言いようがありませんよ。
僕が、借金の返済をするためには、演奏するしかなかったんです。ほかに理由はありません。」
そう言って、水穂は少しばかりせき込む。まさしく頭を石で殴られたような衝撃で、常子は暫く呆然として、咳き込んでいるのを見つめるしかできなかった。
まるで、母と、水穂さんが、同じ答えを口にしているような気がした。二人とも、理由は違えど、生活のために音楽をしていた。私が、やっている目的とは、ぜんぜん違ったのだ。
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