第四章

第四章

懍から依頼を受け、土師煕子というおばあさんが、製鉄所にやってきた。初めて彼女と顔を合わせた恵子さんは、そのあまりにも顔の若さに、本当に85歳なのか疑いを持ってしまうほどであった。

「こんにちは。」

そういわれて恵子さんは思わず黙ってしまう。

「あら、何か気に障ることを言ったかしら?」

「い、いえそうじゃなくて、、、。」

煕子さんは、白髪混じりの灰色の髪を、ポニーテールに縛り、きれいに若作りして、ピンクの小紋を身に着けていた。

「始めまして。土師煕子です。よろしくお願いします。」

「あ、はい。すでに待ってますので、こちらへどうぞ。」

恵子さんはそういって彼女を中へ招き入れる。

「患者さん、あ、クライエントさんと言った方がいいのでしょうか。よくわからないですけれども、こっちにいますから。」

恵子さんと一緒に製鉄所の中に入ってきた煕子さんは、何も言わずにわかりきった顔をして、ゆっくりと入っているだけであった。

ふいに四畳半のふすまが開いた。水穂は、いつも通り、布団の中で眠っていたが、こんにちは、と優しい声が聞こえてきて、ゆっくりと目を開ける。

「こんにちは。ずいぶんお綺麗な人。どこか、海外映画の俳優さんみたい。もうちょっと、私が若かったら、あこがれて、追っかけちゃう。」

「あ、あ、ごめんなさい。」

何を言っているのか、意味が通らないが、水穂は思わずそう言ってしまった。そして布団に座ろうと試みるが、そんなことしなくていいから、と、煕子さんに言われてしまう。

「寝たままで大丈夫よ。そのままでいると、大変でしょう?」

にこやかに言う煕子さんは、一見するとかなり若々しいおばあさんなのだが、近くで見ると、かなり苦労を感じさせるおばあさんという感じだった。

「水穂ちゃん、よかったわね。あたしが、もう料理作れないから、青柳先生がこうして別の会社から、料理の得意な人を連れてきてくれて!」

恵子さんは、そう皮肉るように言った。

「ま、これであたしも、楽になるかなあ。おかげさまで毎日毎日あたしが苦労してご飯を食べさせる必要もなくなるんだ。うれしいわ。」

「しばらくはそうなんですけどね。そのうち、恵子さんにも、手伝ってもらいますよ。だって、一度は外れても、永久的に外れることはできませんもの。」

煕子さんにそういわれて、恵子さんはまたびっくり。そんな取り決めがあるなんて知らなかった。ただの介護弁当販売会社ではないのか。

「私たちは、皆さんに楽をしてもらいたくて、仕事をしているわけではありませんもの。そりゃ、誰だって、自分以外の人がやってくれるとなればうれしいでしょうよ。でも、それは長続きしないし、いい結果をもたらさないわ。大体、そうなっていくじゃないの。外部の人に頼むと。そうじゃなくて、やっぱり、介護はされる人が、楽になれるのが一番だと思うし、それによって、人間的に成長していくのが介護という物だから。ただやらされるだけじゃない。それはしっかり自覚してもらわないとね。」

煕子さんは、そこを再度強調する。これは解釈を変えれば非常に厳しい指摘ということになり、恵子さんは、がっかりと、肩を落とした。

「とりあえず、うちで作っている、食品はこんな感じなのよ。こういう物を皆さんに伝授しているという意味で、持ってきたわ。」

そういって、煕子さんはプラスティック製の、弁当箱を差し出した。

もちろん、運搬中に冷めてしまっているが、それでもおいしそうな匂いがした。中身は高菜と縮緬雑魚、細かく刻んだ梅干しの白がゆ。

「こんな感じのものを作っているんだけど、とりあえず食べてみて頂戴。」

恵子さんは、思わず笑いたくなってしまった。よほどすごいものを作るんだろうなと思ったら、こんなもの、たいしたものじゃないじゃないか。

「私たちはね、ある程度のものは食べてほしいと思っているのよ。戦前は、科学的に栄養を考慮したものなんてなかったでしょ。だからどんな人でも、こういう物で賄っていたのよ。それを継続しているだけなの。」

だから、戦前は簡単な感染症でもすぐころり、だったんでしょ、と恵子さんは言いたかったが、それを言い出せる雰囲気ではなかった。

「じゃあ、ちょっと食べてみましょうか。」

煕子さんは、持っていたお匙で中身をすくい、水穂の口元へ持っていく。その飾り気のない味は、すんなりと食べることができた。もちろん、栄養価で言ったら、一般的な介護食のほうが上なのだろうが、口にしやすいと言ったら、飾り気の一切ない、こちらの食事のほうが、よほど優れていた。

「ほら、食べられるじゃない。じゃあ、もうちょっといってみよう。ゆっくりで大丈夫よ。誰もせかす人はいないから。」

そういいながら、煕子さんは、ゆっくりとだけど、おかゆを食べさせることを続ける。どうしてこんなことが簡単にできてしまうんだろうかと、恵子さんは、嫉妬心がわいた。これを繰り返して、弁当箱の中身はすっかりなくなってしまった。文字通り完食だ。完食するまで食べるなんて、ほんとに何日ぶりだろうか。でも、恵子さんは、それを喜ぶことはできなかった。自分が苦労してやってきたことを、85歳のおばあちゃんが、なんでこんなに簡単に解決してしまうのか!もちろん、恵子さんとは世代が全然違うわけだから、亀の甲より年の功という言葉の通りなのだが、恵子さんは、彼女を尊敬しようという気にはなれなかった。

丁度その時。

「こんにちは。入ってもよろしいでしょうか?」

玄関の戸がガラッと開いて、影浦がやってきた。本当は、煕子さんの訪問は、30分程度でおしまいにするつもりだったが、おかゆを食べさせることで時間を使ってしまい、往診の時間と重なってしまったらしい。

恵子さんも、応答するのを忘れてしまっていたため、誰も返事をしなかったが、影浦は、入りますよ、といいどんどん建物の中に入ってしまった。

「こんにちは。水穂さん。お加減はどうですか?」

ふすまを開けて、影浦が水穂の枕元に座る。

「あら、ごめんなさい。長居をしすぎちゃったわ。」

煕子さんは、帰り支度を始めたが、影浦はそこにあった空っぽの弁当箱を素早く観察して、

「失礼ですが、このお弁当は誰が持ってきたものなんでしょうか?」

と、たずねる。

「ええ、私が持ってきました。ちょうど曾我理事長が、水穂さんにとおっしゃっていましたので。」

煕子さんがそういうと、

「なるほど。おばあちゃんの手作り弁当って感じですか。それはいい取り組みですね。今の科学調味料漬けの料理よりも、昔の手作り料理のほうが、安全性には優れていると思いますし。僕は、精神科医として、もうちょっと日本の食文化を大事にしたほうが、よいのではないかと思うこともありますよ。」

影浦はにこやかに言った。

「あら、お医者さんが診察に見えたのなら、私、もう帰らなければいけないわね。」

「いえ、ここにいてやってくれませんかね。最も、お宅に用事さえなければの話ですが。僕も少しお伺いしたいことがありますので。ああ、そうだ、突然押しかけて名前も名乗らず、誠に失礼いたしました。僕は、精神科医の影浦と申します。正式名称は、影浦千代吉です。」

といって、影浦は一度座礼した。

「まあ、変わったお名前なのね。そのお年でそんな風変わりなお名前。ちなみに私は、土師という変わった苗字に名前が煕子なので、電話した時なんか、説明しにくくて困るんです。まあ最近は、時代劇が流行っていますから、明智光秀の妻煕子と同じと言えば通じることが多いんですけど。それでも珍しい名前だと言われるんですよ。」

「まあいいんじゃないですか。かえって覚えやすいとよく言われていますから。それより水穂さんも、これだけ食べられたんですから、少し起きてみましょうね。じゃ、僕が支えますから、ゆっくり起きてみてください。」

煕子さんが思わず吹き出してしまったのを無視して、影浦は、水穂の肩と腰に手を添え、よいしょ、と上体を起こした。寒いのですぐ、肩に毛布を掛けてやる。

「今日はこちらの方にごちそうしてもらったわけですか。一体何を食べたんですか?」

「あ、はい。高菜漬けと縮緬雑魚のおかゆでした。」

影浦が質問すると、水穂は弱弱しく答えた。

「そうですか。ちゃんとお応えできるじゃないですか。で、どうでした?完食で来たのだから味がよかったのかな?」

「ええ、薄味で結構よい味だったと思います。」

「ああなるほど。何か秘策はありますかな?」

影浦が、そう目くばせすると、

「それが、ただの塩味なんですよ。ほかの調味料は何もないんです。そういう物に頼ってしまうと、どの料理も同じ味ということになるでしょ。それでは味気ないから、調味料は必要最小限だけにしています。最近は、その中に人工的な栄養を追加という食品も多いですが、それもやめて、食べ物が本来持っているもので、賄えるようにしています。」

煕子さんは照れくさそうに、そう説明した。

「そうですか。そういう素朴なところは、今の食品ではなかなかないものですから、ぜひ続けてほしいものです。いわゆるおふくろの味、という感じの料理ですかね。」

「まあ、お袋なんて、それよりもっと年を取ってしまって、今ではご覧の通り、おばあちゃんです。」

煕子さんは、照れくさそうにわらった。

「質問を変えますが、土師さんは、宅配弁当を作っていらっしゃるんですか?」

「ええ。宅配弁当というか、昔ながらの介護食の販売と、それを若い介護者の方に伝授する教室をやっています。ただ、販売するだけではなくて、介護する人同士、仲良くなってもらえばいいと思うし、介護する人が家を出て、気分転換ということもできますし。やっぱり、食べるということは、誰でもするじゃないですか。それを通じて交流してもらえばいいなと思っているんですよ。」

「そうなんですか。それは、どんなきっかけから始めたんですか?失礼ですが、そのお年で事業を始めるなんて、何かわけがないとしないですからね。」

「まあ、病院の先生でしたら、私たちの年齢では、もう病院にいり浸っていると解釈してしまうんでしょうけど、特にきっかけなんかありませんよ。ただの、おばあちゃんたちの仲良しグループでした。それを曾我理事長が、偶然見つけて、ぜひ法人化しろと話を持ち掛けてきたんですよ。初めは、どうかなって思ったんだけど、やっていくうちに、困っている若い人がたくさんいるんだなとわかったから、そうすることにしたんですよ。不思議なこともあるもんですね。私が、亡くなった息子を看病していた時に作ってた料理が、今はこうして商売道具になってしまうんですもの。」

「はあ、えーと、そうですか、、、。」

煕子さんの話に影浦も、聞いていた水穂でさえも感心してしまった。

「でも、いいんじゃないですか。昔ながらの料理のほうが、今の料理に勝っていることはたくさんありますから。栄養的には劣るかもしれないけど、精神的に言ったら、非常に優れた料理はたくさんありますし。そんな事業が行われているんでしたら、僕が担当している患者さんにもぜひ、食べさせてやってもらいたいものですよ。そういう、暖かい料理でしたら、彼も喜んで食べるのではないですかね。」

「あ、いるんですか?僕みたいな患者さん。」

影浦の発言に、水穂はそう聞いた。

「ええ、非常勤として、たまに総合病院からも呼び出しがかかるんですよ。何しろ、医師不足で総合病院も大変でしょうし、内科疾患であっても、実は話を聞いてほしいだけの患者さんも少なくないんです。だからだと思うんですけどね。その総合病院で最近担当になった子に、ぜひ食べさせてやってもらいたいくらいです。たぶんきっと、けがが回復したら、うちで見ることになると思いますので。」

「へえ、どんな方なんですか?」

煕子さんが聞くと、影浦はこう答えた。

「ええ、何でも高校に通っているそうですが、経済的なことで突然進路変更を強いられて、そのことで親御さんともめて、飛び降り自殺を図ったそうなんです。幸い、一命はとりとめましたけど、足に障害を負ってしまって、もうピアノが弾けないことになったそうで。」

なんともつらい話だが、今の若者が、このような事例に、一人で立ち直っていけるかということは、まずないだろうな、と、その場にいた全員が思った。

「そうですか、私も曾我理事長に頼まれて、この事業を始めたときに、本当に苦しんでいる若い人って多いんだなあと、よく思いましたよ。今の時代は、お年寄りに向けて、医療やら福祉やらを充実させようとしていますけど、私たちから見たら、その逆だと思います。お年寄りは、まだまだ元気な人が多いんですから、それよりも、これからを担っていく若い人に手を出してあげないと。うちの子の時は、まだ若い人を大切にしようという風潮が残っていて、うちの子が倒れた時も、隣近所の人たちが大いに手伝ってくれましたけど、今は、若い人は、ほったらかしですもの。」

「そうなんですよ。若い人は、何も知らないんですから、そういう時に、ぜひお年寄りに手を出してもらいたいものですな。僕の病院に来ている患者さんでも、優しいおじいちゃんやおばあちゃんがいてくれれば、もう少し、楽になるのではないかという人は本当にたくさんいますからね。個人主義とは言いますけど、それは変な風に解釈して、孤独になっている人が多すぎる気がします。」

煕子さんの発言に影浦が医者らしい話を付け加えた。

「もちろん、利用してくれるかは、彼の意思次第ですが、もしよろしかったら、煕子さんの事業を、彼に紹介しても構いませんか?」

影浦は、今一度聞くと、

「ええ、かまいません。私たちの事業も、まだまだ知名度があるわけではないので、紹介してくれたら、うれしいです。」

煕子さんは、丁寧に頭を下げた。

この話を黙って聞いているしかできなかった恵子さんは、どうして昔の事って、そんな風に美しく語り継がれてしまうのか、よくわからなかった。恵子さんにしてみたら、とにかくこの辛さを何とか取り去ってもらいたいものなのだが、それは解決できないというのだから、意味がない、しかない。

「じゃあ、彼が、こっちへ通い始めたら、連絡差し上げますので、連絡先を教えていただけますかね。」

「ええ、パンフレット渡しておきますよ。」

煕子さんは、鞄の中から、会社のパンフレットを取り出した。表紙にはしっかりと「ぽかほんたす」と書いてある。ずいぶん可愛い花のイラストも載せられていて、これは誰が描いたのか、聞きたいなとおもった矢先、水穂は咳き込んでしまうのだった。

「あ、もう疲れてしまいましたね。僕たちが長話をしていたのがまずかった。ごめんなさい。」

影浦が気が付いてくれて、よかったなと恵子さんはほっとした。

「ごめんなさい、私もつい夢中になって。でも、食べてくれてどうもありがとう。」

煕子さんはにこやかに言ったが、返答は返ってこないで代わりにせき込んでしまうのだった。

「もう横になったほうがいいですかね。今日はそれでも、こうしておいしいものを食べさせてもらったし、少しだけでも座っていられたんですから、よかったことにしましょうね。じゃあ、軽く、体をあたためるお茶でも出しておきましょうか。」

と言って影浦は持っていた重箱を開けて、煎じ薬を取り出した。本人はお茶という言い方をするが、れっきとした薬品として、認められているものである。

「これですと、体が温まって、少し楽になってくると思いますから、疲れた時だけではなく、不安を感じたときにも効果ありです。」

影浦は、そういって、枕元にあった吸い飲みに、お湯が入っているのを確認した。

「ちょっと横になって、飲んでみましょうね。」

と言って、水穂の肩と背中に再び手をやり、静かに布団に寝かせてやって、手早くかけ布団をかけてやった。そして、例の煎じ薬を、吸い飲みの中に入れて、薬の溶液を作り、水穂の口元へもっていって、中身を飲ませてやった。薬は確かに苦みもあったが、飲み終わると急に緊張がとれて、体がふわふわと浮いているような気分になった。

「影浦先生は、よくある向精神薬とか、そういうものは出さないんですか?」

煕子さんが、そう聞いてくる。確かに、精神科と言えば、抗うつ薬とか、気分安定薬と言った、そういうものを持参してくることが多いのだが。

「まあねえ。そう考える人は多いんですけど、精神科の薬なんて、ほとんどの患者さんには役に立ちませんよ。そういう薬が必要な患者さんは、本当にわずかであることが多いです。それよりも、患者さんが悩んでいること聞いてやることのほうが大事なんじゃないですか。それをちゃんとしてやらないと、本当に廃人みたいになってしまいますから。ほら、ずっと前に、千葉の病院で、看護師が患者さんを撲殺したという事件もありましたでしょう。その患者さんも、本当に精神障害があるのかと考えると、僕は、そんなことはないと思いますよ。むしろ、その人に出された薬で、悪くなったんじゃないかなと思います。ですから、よほど大変な人でない限り、向精神薬は役に立たないんじゃないかと思うんです。」

影浦は、重箱をたたみながら、にこやかにそう答えた。

「それよりも、こうして支えてくれる人がいるほうが、よほど早く治りますよ。本来はご家族の役目だと思うんですけど、今はそういうことができなくなっていますから、土師さんのような取り組みは非常に期待できるのではないかと思います。これからも、応援していますからね。」

「まあ、そんなお世辞を言ってくださって。」

煕子さんは、照れくさそうに笑った。

「でも、私が若かった時に、当たり前のようにやっていたことが、今はこうして商売になってしまうというところが、なんだか悲しいですね。」

影浦も、水穂も大きなため息をついた。

恵子さんは、恨めしそうにそれを見つめていた。

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