第三章
第三章
水穂たちとあってから、何となく、常子は母武津子を避けるようになった。母は、あれほど強い人だと思っていたけど、あの二人と話したことは、本当だったのだろうか。
今日も、学校へ行って、また生徒たちにピアノを教える。それでよいことにしているのだが、今日はそれでいいと思える雰囲気ではなかった。
「先生。」
ふいにピアノ専攻である男子生徒、小野徹平という生徒が常子に言った。
「先生、お話したいことがあるのですが。」
「なあに、小野君。」
この小野君は、非常に優れた演奏技術を持っていて、立花大学へ進学したら、必ず名をはせる学生になるだろう、と言われていた。
「僕は、学校を変わろうかと思うんです。僕だけが、演奏しているだけの生活は、申し訳ないからです。」
「はあ、またなんで?」
その時は、よくわからなかったけれど、少し時間をおいて考えると、つ、つまり退学するということなのだ。それでは、重大な人物を一人失うことになる。
「ほら、僕の家、大変なことになったの、知らないんですか、先生は、、、。」
そんなこと、もうとっくに忘れている。というか、通ってこれるのだから、何も甚大な被害はなかったのではないかと考えていた。
実は、昨年はまれにみる災害の年であった。七月に大雨が降って、何十人もの人が亡くなった。さらに、その直後から40度を超える猛暑が何十日も続いた。さらに、それが落ち着いたと思ったら、今度は北海道で大地震が起こって、また何十人が犠牲になったという。静岡県も例外ではなく、多くの建物が台風で停電になり、大変なことになったと言われていた。
「先生、こないだの台風知ってますよね。先生が住んでいた富士市では、直接的なことはなかったのかもしれないですけど、僕は父がちょうど電気技師で、停電になった浜松で働いていたものですから。」
面食らっている常子を見ながら、小野君はそういった。
「先生、無理なものは無理ですから、僕は諦めます。それでよいということにします。」
どうして、そんなに早くあきらめてしまうのだろう。だって、あれだけ熱心にピアノをやっていたじゃないの。
「でも、仕方ないんです。だって、これまでも学校で生きていくにはお金を作らないとできないって言われてたでしょ。僕は、お金を作ってもらっていて、それで養ってもらっている立場なんだから、
もう、それができなくなった以上、甘えることはできませんよ。だから、そういう贅沢をしないように、別の学校に行くことにします。それでいいじゃないですか、正しい生き方をしているんですから。」
本当に、高校の進路指導の先生は、なんてことを言うんだろう。もちろん、生きている自覚を持たせることは必要だが、それのせいで、本当にやりたいことを捨ててしまうのが、正しい生き方のだろうか。それではまるで、すきなことを勉強するのは悪事であり、それをすべて捨てて、家族のために働くことこそ、正しい人生と示しているようなものだ。
「僕もずっと悩んでいたんです。ほら、家庭科の授業で、生活していくにはどれだけお金がかかるかも知りましたし、それを知ってしまった以上、自分のやりたいことをやっていくのは、やっぱり悪事だと思いなおしました。僕の家は、昨年の台風で、電気技師だった父も、過労死してしまいましたし、お金を作れる存在が、一人減ってしまったわけですから、そのなかで僕は好きなことをやっているなんて、僕はいけないことをしていることになります。だから、」
「待ちなさい、小野君。そんな簡単に、人のことを裏切るような真似はできると思う?私がこれまで一生懸命教えてきたことはすべて無駄になってしまうの?」
「まあそういうことになってしまうかと思いますが、お金を作ることがまず第一ですから、それはしょうがないことだと思います。きっと、若い人は、お金のために働くのが一番なんですよ。ただ、すきなことをやって大学に閉じこもるような生き方は、社会的にもよくないし、成長することもできないと思うので、それはやめることにしたいんです。」
なんとも言えない悲しいことであるが、それが日本人の若者にとって、理想的な生き方であったとしたら、本当に自分のやっていることは無意味なことだと、はっきりわかった。
「もう一回、考え直してきて。だって、本当にやりたいことをやれるのは今しかないのよ。それを、初めから放棄しようなんて、そんなにもったいないことは、してほしくないわね。私としては。」
「先生、それは間違ってますよ。人間はお金がなければ生きていけません。それを手に入れるには働かなくちゃいけない。それをしなくちゃならないんだから、のんきに学校なんて行っている暇はありませんよ。だから、しょうがないじゃないですか。それでいいと言っているんですから、あきらめてください。」
小野君の発言は理路整然としていて、まるでしっかりしすぎているくらいだ。それに対して、ほかの人であれば、何も文句は言わないだろう。年寄りであれば、偉いと言って、喜ぶだろう。そのくらい、彼の言っていることは多くの日本人が理想にしていることである。特に男性であれば、一層のことである。
「そう。じゃあ、あなたとは、今年いっぱいで最後ということになるのかな。」
「はい、そういうことになりますね。二年間という短い間ですが、ピアノに打ち込む時間を与えてくださって、本当にありがとうございました。」
その日は、もう小野君のレッスンを続ける気にはならなくなってしまったが、小野君は意外に意欲的であった。彼の演奏を聴いて、もう、こんなに上手なのに、一般的な常識が勝ってしまうのは何とももったいない気がしてしまう。本当は、もう少し説得したかったけど、担任教師ではなくて、非常勤講師に過ぎない常子は、何も言えないのだった。
その翌日。常子がいつも通り学校に出勤すると、学校の中は騒然としていた。職員室に入ってみると、中には刑事らしい人が何人か来ている。校長先生が、その人たちの質問に応じていた。ほかの教師たちもざわざわと何か話しており、どうも簡単に手を出してはいけないような雰囲気がある。
ちょうどそこへ用務員のおばさんが通りかかったため、常子は何があったのか聞いてみると、
「小野徹平君が自宅マンションから飛び降りたそうですよ。」
と、おばさんは答えた。それを聞いて常子は、ヒヤッと全身が冷たくなった。
「えっ?どういうこと?」
通り過ぎようとするおばさんを、引き留めて、常子は聞いた。
「なんでもね、この学校を退学するって、お母さんに言ったらしいんですよ。そうしたら、お母さんは、なんて余分なことをしたんだって、怒り出したらしいんです。徹平君は、家のためじゃないかって、反論したらしいですけど、親の望みを壊すもんじゃないって叱られて。もうどっちもできなくなった徹平君は、あまりにもつらくて、自宅マンションから飛び降りたらしい。」
まあ確かにそうだ。お母さんにしてみれば、親のために働くよなんていわれても、うれしい気がしない。それでは、まるで自分のしてきたことを全否定された様なものだからである。
「あ、はいそうですか。わかりました。それじゃあ、とりあえず大丈夫だとおもっていいわけですね。あ、そうですか。本当にありがとうございます。あ、そうですか。それは無理かもしれないんですね。ええ、でも、そうなってもうちの生徒ですから、頑張って卒業まで在籍させますので。はい、それではごめんください。」
学年主任の強そうな男の先生が、電話でそう話しているのが聞こえてきた。学年主任は、大きなため息をついて、電話を切る。
「校長先生。今病院から連絡が入りましたよ。小野君、とりあえず一命はとりとめたそうですが、打ちどころが悪かったみたいで、多少後遺症は避けられないようです。まあこれはまだはっきりしないそうですが、もしかしたら、足に障害が残る可能性はあるそうで、そうなると、ピアノの演奏と言いますのは、絶望的な、、、。」
そうか。そうなってしまったか。校長先生も、ほかの学校と対峙するための大事な武器を失ったことになること知って、がっくりと落ち込んだ。
「仕方ありませんよ。校長先生。ほかにも優秀な生徒がいるかもしれませんから、その子たちを探しに行く方が先ですよ。」
学年主任は、学年主任らしく、そういうことを言った。
そうなると、小野君はこの学校では不用品ということになってしまう。それをどうやって、卒業までもっていくか、これも、突き付けられた課題と言える。
「お母さんも大変だけど、これから私たちも彼をどうして支えるか、それに力を尽くしましょう。ほかの生徒にも動揺が広がらないように、何とかしなきゃいけませんね。」
校長先生は、リーダーらしくそう言った。ほかの教師たちも、生徒にどうやって伝えようか、シナリオを考えながら、職員室を出て行った。
後は、常子たち、非常勤講師が残った。
「大変ね。私たちから見れば、本当に演奏技術もあって、一生懸命やってくれる子だったのにね。」
ある若いピアノ教師がそうつぶやいた。
「かわいそうにね。ほら、何でも、去年の台風で、お父さんが電気技師だったでしょ。それで、修理に駆り出されちゃって、働きすぎたようです。それで、もう様子がおかしいとお母さんが気が付いたときは、もう手遅れだったとか。仕方ありませんね。」
そう、ソルフェージュの教師が付け加える。若い人は、どうしても、うわさが好きなものらしい。そういって、ざわざわと噂話を語りだすのだ。
「でも、生きていくにはお金が必要だということは確かにそうなのかもしれないけど、そんなに過剰反応するもんなのかしら。そんなに、彼の家って、ビンボーだった?」
「まさかあ。今まで、そんなそぶり見せたことないし、ほかの生徒さんと同様に普通に通っていたじゃないの。それに、補習だってちゃんと来てたって、聞いてるわよ。」
二人の非常勤講師たちは、そんな話を語っている。
「なんだか知らないけど、今の若い子はちょっとのことで、大げさに考えてしまうんでしょうね。それで誰にも相談もしないで、もうだめだと絶望して、命まで落としちゃう。それがかっこいいと思っているから困るのよ。」
「あたしたちも、一応非常勤とは言え、教員なんだし、そういうことを否定し続ける生き方をしないとだめってことかな。」
授業開始の予鈴が鳴って、講師たちはそれぞれのレッスン室へ行った。これを聞いて常子は、自分たち非常勤講師にも、新しい仕事が舞い込んでくるのではないのかなとおもった。
一方、日が高く昇って、昼食時刻も終了し、また午後の仕事に取り組み始める時間になった。
製鉄所では、水穂が、ほんのわずかな昼食をとって、というより恵子さんに無理やり食べさせられて、またいつも通り布団でうとうとしていた。
そこへふすまがばあんと開いて、杉三がやってくる。もはやこの仕事は杉三の担当と言っても過言ではなく、ほかの介護者たちは、部屋にやってきて水穂に声をかけることは必要のない限りしなくなっていた。
「おい、起きて。食べてすぐ寝ると牛になるから、歩きに行こう。今日は多少風はあるが、昨日ほど寒くないし、雪が降る可能性はほぼないそうだから、いってみよう。」
ところが水穂は、目を開けて、杉三が来たのを確認したことは確かだが、すぐ寝がえりを打って、反対の方を向いた。
「どうしたの?いい天気だから、歩きに行こう。」
「もう疲れたよ。かったるいよ。今日はよして。」
杉三の問いかけに、細い声でそう答える。
「なんでだあ?もう疲れたなんて、さっきご飯を食ったばっかりじゃないかよ。」
「ご飯なんか食べる気にはならないよ。もうかったるいよ。体が重たくて起きられない。」
「ははん。また何にも食べなかったな。なんでそうなるんかな。もしかしたら、公園を歩けば食べられるかもしれないから、ちょっと歩いてみよう。ほら、起きて。」
「もういい。公園一周なんてとてもできない。また座り込んだりしたら立てないもの。そうなったら、また誰かに迷惑かけることにもなるから、もうやめたい。」
「だけどねえ。立てなくなったら、それこそ多大な迷惑だ。そうなったら、何をするにも必ず誰かに手を出してもらわなきゃならなくなる。それは嫌だろう?そうならないように、公園を散歩して予防するんだ。だから、起きて。」
杉三は、かけ布団をとった。急に寒くなったせいか、一気に目覚めたらしい。もうよしてよ、と言いながら、水穂はよろよろと布団の上に起きる。
「よし、そこまでできたら完璧だ。早く着替えて、公園に行こう。こないだの、きれいなばあちゃんに、また会えるかもしれないぞ。」
時には、そういうあり得ないことを言って、お膳立てをすることも、看病するには重大な要素だった。杉三という人は、そういうことをいうのはやっぱり達人だ。水穂もこういう非現実的なことを言われると降参したようで、
「ちょっと待ってて。」
と言って、よろよろ立ち上がった。
その有様を、食堂から、ジョチと懍が聞いていた。
「だいぶ衰弱してきましたね。水穂さんも。ああしておだててもらわないと、立ち上がれなくなってくるんでしょうね。」
ジョチは、杉三にああだこうだ言われながら、水穂が一生懸命着替えをしているだろうと思われる、四畳半のふすまを眺めながら言った。
「そうですね。仕方ないと言えば仕方ないのですが、まあ、本人にしてみれば疲れるだけの作業になるでしょうし、だけど、進行を食い止めるためにはどうしてもやらないといけないと思いますのでね。難しいところですが、ある意味、そこは杉三さんのエンターテイメント性に、賭けてみるしかないと思います。」
懍は、そう解説するように言った。
「そうですね。いくら口のうまい杉ちゃんと言っても、いずれは限界が来ますよね。そうしたら、また手を考えなければなりませんね。」
と、ジョチが言うと、
「そうなったら、彼も気管切開を施されるかもしれませんよ。曾我さん、お願いがあるんですが。」
懍はそう返してきた。
「あ、はい。なんでしょう。」
「お聞きしたいのですが、これまでに買収した会社の中に、何か食べ物を作ってくれる会社はありませんか?」
「そうですね、、、。」
とジョチは、少し考え込むしぐさをした。
「もう、恵子さんも限界ですしね。もう彼女が知っている料理は、すべて受け付けなくなってしまいましたし、毎日毎日恵子さんが喧嘩をするような感じで食事をさせるのも、本人も恵子さんもかわいそうだなと思いまして。」
「ああわかりました。それなら生協で宅配弁当を頼めばいいのではないですか?」
ジョチはとりあえずそういったが、
「そうですね。機械的に言えばそうなりますが、そのようなやり方を実行してしまっては、彼のほうが絶望してしまう可能性もありますし、それだけはどうしても避けたいんですよ。」
と、懍はそう返してきた。ジョチも少し考えて、
「そうですね。それはそうかもしれないですね。確かに絶望は、一番病状を悪化させることになりますし。わかりました。いいですよ。昨年買収したところに、介護食を作るだけではなく、作らせることに特化した会社がありますから、そこへ連絡してみましょうか。」
と、言って、手帳を開いた。懍が急いでメモ用紙と筆を貸すと、ジョチはそこへある会社の名前と住所、電話番号を書きだした。
「へえ、有限会社ぽかほんたすですか。ポカホンタスといえば、アメリカの先住民族である、ポウハタン族の酋長の娘の名前ですね。それを会社名として、挙げたというのですか。」
「ええ。まあ、社長である女性が一番尊敬している女性の名をとってつけたそうです。と言っても、彼女はもう85歳のおばあさんですけど。」
懍が会社名を面白がって笑うと、ジョチは恥ずかしそうに言った。
「まあいいんじゃないですか。僕より年上ということになるわけですから、より、楽しい人生というのを強調してもいいでしょう。それでいいと思いますよ。」
「よくわからない会社名ですが、ふたを開ければかなり役に立つんじゃないかと思われる会社なんですよ。まあいわゆる、介護弁当の販売会社ですけれども、それだけではなく、介護者に食事を作らせるということも行っているんです。そこが大きな違いだと思います。始めは、おばあさんたちの仲良しグループとして行っていたようですが、この発想はほかになかった物だなと思いましたので、会社として独立させました。まあ、高齢者ばかりの会社ですが、老労介護という言葉が浸透している以上、役に立つんではないかと思います。」
「へええ。面白いですね。おばあさんたちも、まだまだそうやって、会社を立てる力もあるということですか。なるほど、なんだか同年代として見習わなければと思いましたよ。」
懍は笑って、ひとつため息をついた。
「そうなんですよ。まあそういうことですね。会社を立ちあげるにあたって、どうしてもパソコンなどを使わなければならないところに問題があるのですが、彼女たちはとても意欲的にやってくれました。今ではホームぺージを作ることもしっかりやってくれています。最近では、フリーマーケットにも携わりたいと言っていますよ。」
「なるほど。いいですね。ある意味では、若い人よりも意欲的なのかもしれませんね。」
懍は静かに、でも笑うように言った。
「まあそうですが、この会社の仕事内容は、年寄りでなければ作れないでしょう。絶対に若い人では思いつかないと思いますよ。あ、あと社長さんは、彼女です。」
と言って、ジョチはメモ用紙に「土師煕子」と名前を書きだした。
「ずいぶん変わった名前ですね。明智光秀の奥さんと同じ名前ですか。」
そういう変わった名前だからこそ、ポカホンタスと名乗りたがるのかもしれなかった。
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