第二章

第二章

次の日、校長に返事を出そうか迷った。母の財前武津子は、昨日自分は近くの老人ホームのような施設に入れてくれればそれでいいから、と言って、なんだか今までの人生が吹っ切れたと言っていたが、それを見て、どうしても常子はその通りにするとは言えなかったのである。

その日は一日学校で、生徒にピアノを教えて過ごしたが、その日校長は、何も言わなかった。なので、とりあえずまだ待っていてくれるのだろうと思い、答えを考えるのは保留ということにしておいた。

かといって、この学校にいても何も収穫はないことは知っていた。どうせ、生徒も音楽大学へ行くための通過点としかみなさないから、ここでピアノを教えても、これから進学する大学の先生によっては、演奏スタイルも変わってしまうことだろう。それを経て、生徒は一人前の音楽家となっていくんだろうが、果たして演奏家としてやっていけるだろうか。ただ、与えられた時間、生徒に教えているだけの存在にすぎない。何か役に立つものを作っている、と、いうことから考えると、普通高校のほうが、よほど役に立つに違いない。今や、音楽を教えるということはそういうことになっている。

まあ、大学のほうが、より実用的といえば実用的と言える。大学を終えれば、一応どこかに就職することになるので、そこに必要なための技術を教えるということになり、多少生徒がこれからの人生を生きていくに当たって、役に立つということになるだろう。

そして、生徒たちも、音楽家として演奏を続けていく者はほとんどおらず、結婚して誰かに頼るか、まったく関係ない企業に入るか、あるいは個人的に開業していくかのどちらかで、生きていくことになる。自分と同じ、無意味な行為を商売にしていくことになるのだ。

そういうわけで、芸術は無意味、必要ないとはっきり言われてしまうことになる。

そして、教育者は自らが掲げる理想の生活とかけ離れた形態で、生きている者を、ダメな人間として、悪人の例に挙げる。それを大っぴらに言いふらして、悪事をしている生徒をバカにさせたり、いじめるように仕向ける。現在の学校とは、その悪循環である。

時折、自分って、生徒たちに何をやっていくんだろうな、と、彼女は思うときがあった。

もしかしたら、高校は、上級学校に進学させるための知識ややり方だけを伝授する場所になりつつあるのかもしれない。

そうなると、母はどうなるのだろうな、と常子は思うことがあった。前述したとおり、足の悪くなってしまった母は、その時はピアノをやめようと言われていたそうだ。理由はセカンドペダルを踏むことができなくなるからである。それでは正確な演奏は聞かせられない。音楽家としては、作曲者の意思を伝えられなくなるということになり、それは致命傷だ。それでも、母武津子は、音楽をあきらめることなく、ピアノを続けて、音楽学校まで入り、そのまま楽器屋さんの付属のピアノ教室でピアノを教えて生計を立てることまでできた。今は退職しているけれど、近所の人たちからも、慕われている。私のように、ただの高速道路の料金所に勤める係員のような扱われ方ではない。時には、本来母に師事していた生徒さんたちが、お中元とかお歳暮を持って現れることもよくあった。

そうなると、母のほうが足に障害を持っているのに、なんでそんなに人気者というか、充実した人生を送れるのだろうか。常子はおかしいなと思った。私は、母と違って、ただ、生徒を上級学校へ送らせているだけに過ぎない。まあ、自分で選んだ道だから、なんてはじめは思っていたけど、新たな道が現れると、とたんに今までやってきたことは全部つまらないことになるのが不思議だった。


一日の勤務を終えて、常子はまた電車に乗って、家に帰った。いつも通りのきっちりした時間だったから、どうせ家の中も変わらないだろうな、と思っていたのだが。

「ただいま。」

と、玄関の戸を開けると、いつもと様子が違っていた。

「あれ?お客さん?」

玄関には男性の草履があった。どうせまたピアノ教室の生徒さんでも来たのかな?と思ったが、それとは、雰囲気が異なっており、何か異様な空気が漂っている模様である。

「ただいま。お母さん。何しているの?」

常子は、靴を脱いで居間に入った。

「本当にすみませんね。わざわざこっちまで連れてきてもらっちゃって。」

と、いう声と、台所で何か包丁で切っている音がする。

「いいえ、面白い話をたくさん聞かせてもらえて、楽しかったわ。」

誰かがしゃべっているのと同時に、母の声も聞こえてきた。

「お母さん、何してるの?」

思わず常子が聞くと、母はやっとこっちを向いてくれた。

「ああ、お帰りなさい。この人ね、今日の午後に公園を散歩していたら偶然会ったのよ。しばらく話していたんだけど、急に疲れてしまったみたいで、座り込んだまま立てなくなってしまって。聞けばなんとも特殊な病気にかかってしまったんですって。なんでも大渕まで帰らなきゃいけないらしいけど、ちょっと危ないと思って、うちに連れてきたのよ。」

そういって武津子は、ソファを顔で示した。そこには、なんとも言えない綺麗な人が、横になってうとうとしていた。あれ、その顔は常子も見覚えのある顔だ。その人物を、どうして母が連れてきてしまったのだろうか。

「ようし、これで煮込んでしまえばもうちょっとだからよ。あとちょっとで食べられるから、待っててや。」

台所からまたでかい声が聞こえてきた。

「はあい。よろしく頼むわね。この人は、影山杉三さん。まあ言ってみれば、彼の引き立て役かなあ。まったくね、料理に関しては天才的で、あるものでご飯まで作ってもらったのよ。」

ご飯だって?ちょっと待ってよ。そんなことまでしてもらっているの?

「僕は、水穂さんの引き立て役じゃないぞ。友達だからな。それに、杉三さんと呼ばれることは苦手なんだよ。これからは杉ちゃんと呼んでくれ、杉ちゃんと。」

水穂さんと言われて、やっぱりそうだと確信した。彼の名は私も知っている。確か、非常に珍しい苗字だったから。そうだ、間違いなくソファにいる人は、私が大学時代の同級生の、右城水穂さん、、、。それにしてもどうしてここにいるんだろう。彼は同じ大学であっても手の届かないところにいた人物だったのに。

「お母さん、私、この人知ってる。もしかしたらお母さんもきいたことあるんじゃない?すごい天才と呼ばれていた、右城君。」

「あら、でも、本人は磯野さんと名乗っていたんだけどな?」

と、言うことは母は知らないのだろうか?

「お母さん、本当に知らないの?私何回か、話したと思うんだけど、すごくピアノがうまくて、頭もよくて、優等生で、、、。」

「そんなこというのはやめなさい。もう、そんなことは過去のものになってしまったんだと思う。それよりも、今は何とかしてやることを考えなきゃ。」

武津子は、そんなことはどうでもいいという感じの表情で答えた。

「さあできたぞう。あり合わせで作ったからよ。ちょっと変な味かもしれないけどさ、思いっきり食べてくれや。」

杉三が、車いすのトレーに皿をのっけて、食堂にやってきた。確かに、その顔は、比べっこすれば、水穂の引き立て役と言える。

「ま、お米だけたくさんあるからよ。具材の少ない雑炊だが、一杯食べてくださいねえ。」

「水穂さん、起こしましょうか。食べてもらわないといけないから。」

武津子は、椅子につかまりながら、よいしょと立ち上がり、

「水穂さん起きてください。ご飯ができたそうです。」

と、語り掛けた。

「ちょっと待ってて。」

そういって、足を引きずり引きずりしながら、まず匙を取り、次いでテーブルの上の皿の中から雑炊を取り出して小皿に盛り、また戻ってきて、水穂の前に、どうぞ、と差し出した。水穂もこれでは逆らえないな、と思ったようで、それを受け取って、静かに雑炊を口にした。

「あ、よかった。おかげさまで、食ってくれましたよ。もうな、ずっとたくあん一個とか、碌なもん食わなかったもんで。」

「まあ、そうなの、大変だったわね。何も食べれなかったんじゃ、お辛いでしょうからね。」

どうにかして一皿食べてくれた水穂に、武津子はもっと食べろとか、そのようなことは一切言わなかった。杉三が、恵子さんとは偉い違いだと呟いたほど、彼女は終始にこやかにしていた。

「もう食わんのか?」

と、杉三がそういうと、水穂は静かに頷いた。

「なんだあ。」

と、杉三はいうが、武津子は何も失望した様子も見せないで、食器を黙って片付けた。食べないことに、何も甲乙もつけなかった。

「あの、本当に今日は手当てしてくださって、ありがとうございました。それに、お宅へ入らせてもらって、すみません。」

ここでやっと、初めて水穂は武津子に礼を言った。

「いいえ、大丈夫よ。あなたも、もうちょっと体のことを大切にして頂戴ね。」

どうしてそんなに母は平気な顔して、こういう態度がとれるんだろうか。常子は、どうしてもこういう答えが導き出せず、ぽかんとして見つめているだけであった。

「もうしばらく横になっててくれても構わないわよ。あたしたちもご飯を食べなきゃいけないしねえ。」

武津子は、テーブルで、雑炊をがつがつと食べている杉三を見た。

「ほら、常子もご飯にしましょうね。せっかく杉ちゃんが作ってくれたんだし。食べさせてもらいましょう。」

そういって、武津子は常子をテーブルに座らせる。確かに、テーブルに置かれていた雑炊は、おいしそうだった。さすがに、食欲には勝てず、常子も匙をとって、雑炊にかぶりついた。

「あら、なかなかいい味じゃない。変に濃すぎず薄すぎずちょうどいい加減。」

常子は、思わず感想を言ってしまった。

「杉ちゃんって、料理が得意なのね。誰から教わったの?」

「適当なんだよ。」

武津子の質問に、杉三はそうこたえた。

「みんな、バカの一つ覚えさ。僕が覚えたことはみんなバカの一つ覚えでできているので。」

からからと笑う杉三に、この発言を、学校の生徒の前でしたら、生徒は大笑いするだろうな、こんな発言、とても学校では聞かせられないと、常子は思った。

「全くな、どこで覚えたとか、そういうこと自慢していたら、ぜんぜんダメになっちゃうよ。だから、教えてもらったことは、バカの一つ覚えにしちゃった方が一番いいのさ。」

「まあいいわね。そのくらいのほうが、かえって楽に生活できるかもしれないわね。」

またそう発言する杉三に、武津子が同調して発言するが、なんだかこの二人の発言は、自分をバカにしているのではないかと思ってしまった常子だった。

「そうだよ。ほんとにさ、最近のやつらは直ぐ自慢をしたがるので、それは困るな。そうなると、したにいる、弱い奴らが、何も言えなくなるからな。本当は、強いやつってのは、ちょっとでも何かあると、すぐに自慢をするので、困っちゃうのよ。」

「ほんとねえ。もうちょっと、上の人たちは自粛してもらいたいわね。ほんと、自分だけが偉いような態度とかしぐさとか、すぐ見せる。もうねえ、私も、何回もそういうことがあったのよ。ほら、私も、足が悪いし、学生時代、ペダリングができないとかで、何回もいじめられたからわかるわ。ピアノ教室やってた時も、生徒さんにいろんなものを見せられて、私は嫌な気持ちがしてたまらなかった。だって、そうでしょう。生徒さんに海外旅行のお土産なんか持ってこられても、足が悪いから旅行に行けないことを突き付けられているようなものだし。」

初めて聞く母の言葉だった。足が悪くともあんなに楽しそうにしていた母が、そんなセリフを口にするものだろうか?あれほど楽しそうに、ピアノ教室をやっていたのに!表情から判断すると、社交辞令とか、冗談を言っているような感じはしない。あれほど、楽しそうに生活していたのに、そんな思いをしていたのだろうか?

「お母さん、、、。」

常子は呆然となって、母と杉ちゃんの会話を聞いている。

母は、それからも、足が悪いことによって、これまでひどい目にあったことを語り続ける。その内容は初めて聞いたもので、常子が今まで聞いていた話とは偉い違いだった。これまでの母の態度から見ると、母は、本当に生徒さんたちと仲が良くて、生徒さんの好意で有名ピアニストのコンサートに行ったこともよくあったのだが、その道中、ホールの中で躓いて転んでしまいそうになってしまい、生徒に大迷惑をかけたこと、ホールには障碍者席にしか座れず、ほかの生徒さんと離れて一人寂しく座ったこと。そんな思い出をあふれんばかりに話した。杉ちゃんは、また大変な聞き上手で、大げさに相槌を打つし、時に大声でゲラゲラ笑ったりしながらそれを聞くので、武津子もそれを話やすかったようだ。私には何も話してくれなかった、母の別の顔がそこにあった。

常子が、あまりにもつらくて、母から目をそらすと、そこに水穂の顔があった。たぶん、杉三があまりにも大音量で笑うので、眠れないのだろう。そっと見てくれた水穂は、ニコリと笑いかける。この顔がなんとも言えず美しい。そのまま、口元が大丈夫?と動いた。

「ごめんなさい。水穂さんまで、巻き込んでしまって。」

常子は、ここにいるのは間違いなく大学時代に同級生であった右城水穂さんだと確信し、差し支えなければ、なぜ右城姓を捨ててしまったのか、聞こうとおもったが、水穂がせき込みだしたため、それはやめにして、代わりに、

「大丈夫?」

と聞き返した。水穂は弱弱しく頷く。

「疲れてきたか?もう製鉄所に帰る?」

テーブルの上から杉三の声が聞こえてきた。

「ごめん、もう疲れたよ。」

再び弱弱しい口調で水穂はそう返した。

「あら、じゃあ、お帰りになったほうがいいですわね。えーと確か、大渕でしたよね。」

大渕か、それなら例の公園から近いはずだなあと、常子は思った。確か、公園から、歩いていけるはずだ。

「歩いて帰りますか?」

思わず常子がそういうと、

「いいえ、無理よ。一度座り込んでしまっているくらいなんだから、車で送ってあげたほうがいいわ。それに、もう、外が暗くなっているから、危ないでしょ。」

と、武津子が言った。

「いえ、お構いなく。わざわざ車なんかだしていただかなくても、歩いて帰れます。」

そういって、何とかソファに座ろうとした水穂だが、どうもふらふらしていて、大変そうなので、短距離であっても、車を出してやった方がいいなと、常子も思った。幸い、母が、足が悪いせいで、乗っている車は、障碍者設備もしっかりついていた。

「じゃあ、あたし、エンジンかけてきますから、のっていただけますか?」

常子は急いで椅子から立ち上がり、玄関から出てなかなか使わない車に乗り込み、エンジンをかけた。

車なんて、母と一緒に買い物に出かけるくらいしか使ったことがないので、ちょっと不慣れだった。

「じゃあ、本当にすみません。今日は介抱してくださって、ありがとうございました。本当にご迷惑をおかけしてしまって、申し訳ないです。」

「申し訳ないなんて言わなくていいわよ。私たちのほうが、ご飯まで作ってもらって、本当に楽しかったわ。いつも娘が帰ってくるまでは、ずっと一人だし、こうしてにぎやかにしてもらったのは、久しぶりよ。」

玄関先で、水穂と武津子がそう言いあっているのが聞こえてくる。お母さん、ピアノ教室の生徒さんたちが、よくこっちへ来ているのに、なんでそういうこと言うの?常子はまたわからなくなった。

「また来てくださいね。今日は、楽しい話ができて、うれしかったわ。いつでも、こういう話ができたらいいのにね。」

「はいはい、バカの話でよければ、なんぼでもしますよ。」

玄関のドアががちゃんと開いて、杉三と水穂が出てきた。常子は急いで、杉三が車に乗れるように、後部座席に設置されている、スロープを急いで出してやった。

「おう、悪いねえ。じゃあ、のっけてもらうからな。」

一度車を降りて、杉三がスロープを通じて車に乗るのを手伝い、続いて、助手席に水穂を乗せてやった。動作はとてものろかったが、それでも乗ってくれたから、まだよかったのかなと思う。

「じゃあね、またいつでもうちに遊びに来て。楽しみに待っているから。今度は、お礼に私が、何かお菓子でも作って、ごちそうして差し上げるわ。」

玄関先で、武津子がそういっているのが聞こえる。お母さん、本当にあのような話で楽しかったの?今までの明るい話は嘘だっだ?そんな気持ちを何回も、頭の中で復唱しながら、常子は送ってくるわ、と言って、車を走らせた。

バックミラーを見ると、母が、車が見えなくなるまで手を振っていた。

水穂が、指示した行先は、本当に近くて、車で五分もかからない距離だった。なので、特に会話といいう会話もしなかった。というより、武津子がああいう態度をとったのが、あまりにもショックで、何も言えないというのが、正直なところだった。

行先通り車を走らせて、製鉄所の正門前で車を止め、再び後部座席から杉三を下ろしてやる。続いて助手席から水穂が降りるのを手伝おうかと思ったが、それはしなくていいと言われてしまったので、さらにがっかりする。

その顔を見て、水穂は、少し心配しているような顔をしてくれたが、それに応答する気にはならなかった。

「じゃあ、お体に気を付けて。母も、あれだけ喜んでいたんですから、もしよろしければ、またこちらにいらしてくださいね。」

「あ、はい。わかりました。お母さんによろしく。」

とりあえず、社交辞令的な挨拶を交わした。

「あ、それからね。」

ふいに水穂はそんなことを言った。

「たぶん、お母さんの言われたことは間違ってはいないと思いますよ。僕も杉ちゃんも、そういう辛さは、たくさん味わってきましたもの。」




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