第2話

耳元で鳴り響く目覚ましを止め、寝起きとは思えない速さで目を開く。

布団の心地良さをしっかりと堪能してから毛布をはぎとり、ベッドからおりて着替えを済ませる。

校則で決められた、動きにくく重たい制服。これを着た瞬間、物理的にも精神的にも重くなるのを感じる。

朝のニュースなんかを見ながらのんびりと朝食を済まし、慌てて家を出る。

瞬間、目を貫こうとするかのように光る太陽。空を見上げなくてもわかる、あの日と同じ快晴。

自転車にまたがりながら、私はあの日を──────────人生を変えた日の事を思い出していた。


✝︎


「碧ーおはようー!」

教室のほぼ中心という、私的最悪の席に座ると同時に、いつも笑顔で話しかけてくる“親友”。

「おはよ」

暗い気持ちだったのが嘘みたいに明るくなり、自然と笑顔になる。

「こないだのテスト、どうだった?私はやらかした.....」

「あー、普通かなー」

「つまり、いつも通り高得点だったと。勉強も出来て、部活ではソロやって。充実してますなあ」

羨ましいー、と言って“親友”は自分の席へと戻っていく。

ちなみに、自分も“親友”も同じ吹奏楽部だ。

勉強でも部活でも実力はトップクラスで、碧の学校生活はこれ以上ないくらいに充実していた────────。

ばんっ。

「なわけないだろ!!」

ばんっ。ばんっ。

「自然とえがおお?人工的で引き攣った笑顔だよ!」

ばんっ。渾身の怒りを込めて放った蹴りが、自宅の屋根に吊られたサンドバッグを大きく揺らした。

「その仕草が!声が!何もかもが苛立つ!」

サンドバッグは止まることを許されず、蹴られてはまた戻り、殴られてはまた戻る。

「勉強してるから点が取れるんだよ!何年も練習してるから上手いんだよ!全然楽しくないし!」

20分間サンドバッグをお供に、“親友”と学校生活への不満を叫べば、溜まった苛立ちはほとんど消えて、後には全部吐き出した爽やかさと疲労だけが残る。

そして、決まって最後に呟くのだ。

「それでも、あの子と一緒にいたいなあ」

この矛盾には自分も悩まされている。

悩みながら布団に潜り込み、朝が来るのを恐れながら眠るのだ。軽率にもいっそ死んでしまいたい、別の誰かになって別の世界へ生まれ変わりたい、と思いながら。

そして、出会った。



そこは終わりが見えない、上下左右どこまでも続く白い空間だった。

夢にしては体の感覚がはっきりしている。

そして、水色の髪を高い位置でひとつに結んだ美少女が自分を見ていた。

美少女は薄く柔らかそうな唇を開き、

「おめでとう。私はあなたを選んだ」

そう言った。

急展開に碧の思考は止まるでもなく、慌てるでもなく、ただ、ラノベにでもありそうな展開だな、と他人事のように思うだけだった。

「選んだって.....何に?」

「パートナー」

瞬間、目の前に文字が現れた。

“パートナー”

相棒、相方のこと。共同で仕事をする相手。

Mikipediaより

ご丁寧に引用先まで記されている。

「別の世界、行きたいって。私も行きたいから。でもパートナーが必要。だからお願い」

無表情のなかに必死さを滲ませる少女に、この子も自分と同じなのだろうか、と考える。

元の世界で生きるのが辛いから、別の場所に逃げたいのだろうか、と。

「逃げるんじゃない。新しくやり直すだけ」

心を呼んだかのように、少女が応える。その瞳には、自分と同じものなんて微塵もない。無性に、何か言い返したくなって、珍しく声が大きくなる。

「同じだよ。結局今の自分からは逃げてるん.....」

「なら君はそれでいい。私は私、君は君」

碧の言葉を遮り、少女は今までよりも強く言い放つ。

なんだそれ。自分勝手だ。そんなのでパートナーなんて、相棒なんて馬鹿じゃないのか。

「私は何千人もの候補者の中から、最後に君を選んだ。自分の選択に後悔はない。それに、君と私の根本は同じ」

少女は私が口を挟み込む隙をつくらず、詭弁を並びたて碧の心を懐柔していく。

「逃げるのもやり直すのも同じなら、君の逃げるはやり直すにもなる。私と君は違くて同じ。なにより────────────私は君がいい」

今まで、これほどに求められたことはあっただろうか。────ない。

これから別世界にいける機会はあるだろうか。────きっとない。

私はこの子と、パートナーとやらになれるだろうか。────分からない。

私は.....何故悩んでいるのだろうか。────────少女に苛立ったから。

あまりに直球で正当な少女の意見に、負けた気がして。中途半端にプライドの高い碧は、自分の考えを貫き通すことも、相手の考えを受け入れることもせず、ただただ苛立っているだけ。

それでいいのか。きっと今が、嫌いな自分の捨て時だ。

思考に集中して働いていなかった視覚を少女に向けて、少女とお揃いの無表情で見つめ続ける。少女は何も言わず、じっと待っていた。

「スフル」

いきなりだされた知らない単語に少女は首を傾げた。それもそうだ。今作ったのだから。

「私の名前。現実から逃げて、新しく“やり直すための”新しい名前」

意味はトルコ語で、0。

口角が上がった。少女の口角が。初めて見る笑顔、否、笑顔というにはまだ小さい、これは微笑みだ。

「私はシャネット。よろしく、スフル」




美少女、おばさん、セクシー美女、マッチョ野郎、赤ちゃん。思い浮かんで再現されては消えていく姿を鏡に写し、碧は奮闘していた。

遡ること数十分前。

「別の世界に行くには容姿も自分で考えなきゃいけない」

はい、と言って渡されたのは大きな立て鏡。

「脳内でイメージすれば勝手に再現される。これでいいと思ったら、その姿のまま鏡を割ってはい、完成」

わーい、と若干棒読み気味に1人で盛り上がるシャネット。出会ってから数十分、思っていたイメージと違うことが判明してきた。

鏡を割るためにハンマーも渡された。ちなみに、ハンマーは私の私物だから大事に扱ってほしい、と言われた。今日、第一印象は役に立たないことを覚えた。

そして、今に至るわけだが。

これからずっと使っていく体を決める、というのは思っていたよりも中々に難しい。

決めきれずに再現で遊んでいるなかで、ひとつ気づいたことがある。

どんな姿だろうが、身体能力が変化しないのだ。シャネットに訊いたところ、初めの基礎的身体能力は全員同じになるよう設定されているらしい。ただし、寿命は見た目通り。

姿を考え始めてそろそろ1時間。

碧は丁重にハンマーを使い、鏡を割った。




綺麗で中性的な顔立ち、透き通る白の短髪、宝石のような銀の瞳、13、4程の年齢の細いけれど筋肉のついた体躯を黒のコートとズボン、ブーツで包んだ────────────────少年。

私は、否、俺は男になった。

「性別変えたんだ。なら........スフルは今日からオネエ?」

「違う」

鏡の割れる音を聞いて近づいてきたシャネットの疑問に即答して、当たり前だが声が違うことに気づく。

前の自分────黒石碧の声より少し低く、落ち着きのある声。

「あー、あー。マイクテスーマイクテスー」

自分の声なのに自分のものではないのがなんだか面白くて、意味もなく喋ってみる。

そんなスフルを眺めながら、ふと、シャネットが首にかけた、華奢な彼女の体には少し不似合いな、大きな時計を見て言った。

「もう今日はこれで終わろう。続きは明日」

「ああ、また明日.....」

言って、気づいた。

これで終わる?今から別世界へ行くのではないのか。

一体どういう事なのか。そんな顔をしていたのだろう、シャネットは思い出したように喋り出した。

「まだ別世界へは行かない。というかいけない。今日、私達は行くための“準備”、そのたった1歩を踏み出しただけ」

行くための準備。

そんなものが存在するなんて、と思ったが、考えてみれば当たり前のことなのかもしれない。何も知らずに別世界へ行き、都合よく強くなって人生が充実する、なんて夢物語なのだから。

「今いる場所は夢狭間と呼ばれる、その名の通り現世界と別世界の狭間、夢の世界。私達は眠っている間だけここへ来られる。だから、試験に合格するまでは、現実と夢狭間を行き来しなければいけない。ってMikipediaに書いてある」

つまり、試験とやらに合格するまでは現実でも生活していかなければならない、ということか。別世界への期待で浮き足立っていたのが、現実へ帰らなければならないという事実によって地面にしっかりと固定されていく。と同時にふと思ってしまう。これは夢で目が覚めればすべて今まで通りなのかもしれない、と。一抹の不安は実を大きくしていき、体を侵食していく───────────その時、そっと手が取られた。そして、シャネットが一冊の本をスフルの手に乗せる。

「これは夢じゃない。そして、現実でもない。ただ、このことは嘘じゃない。スフルはまたここへ来て、私と会い、試験に受かって」

「別世界に行く」

乗せられた本をしっかりと握った。

まだ地面の上で立てているじゃないか。今までの自分は、上に立つことすらかなわず、崩れ落ちて、埋まっていたのだから。

「Mikipedia。現実でも読めるから。.....目を瞑って」

指示通り、目を瞑る。数秒して、下へ落ちた。


✝︎


突然の急降下に反射的に目を開くと、そこは十数年生活してきた私の部屋だった。

未だに夢見心地の中、秒針は規則的に進み、設定された時刻に鳴り出した。

7時だ。

目覚ましを止めるため腕を持ち上げ、自分が何かを持っていることに気づく。

それは本だった。

たいして厚くはない説明書のような、Mikipediaと書かれた黒い本。

シャネットが渡してくれたものだ。

7時を過ぎて、学校へ行く準備をしなくてはならないことを頭の隅に追いやり、碧はMikipediaの1ページ目を開いた。




「いいでも事あった?なんか今日は機嫌がいいような....」

3時間目が終わった休み時間に、“親友”はそう告げた。

やはり、あの事の嬉しさは抑えても抑えきれないようで、自分にしては珍しく、午前中にもかかわらず気分が良かった。

「そうなんだよー。いい夢を見れてさ」

「ほお、どんなの?」

「忘れた」

秘技、忘れた。

普段から忘れっぽい自分は、隠したいときはとりあえずこう言っておけば、誰もそれ以上は突っ込まないのである。

現に“親友”も、

「あーわかる!良い夢ほどよく忘れるんだよねえ」

と微塵も疑わずに同感しているのであった。

ところで、上機嫌の理由の一つ、渡されたMikipediaに書かれていたことは主に3つ。

その1、全世界から才能、野望、欲望のある若者を2人1組で異世界へ飛び立たせる.....ための準備をすること。

その2、別世界へ行くためには、すべての試験に合格しなければいけないこと。

その3、すべての試験に合格するまでは、夢狭間へは眠っている間だけ来れるものとし、あくまで今、生きているのは現実である。現実での生活は今まで以上に頑張ること。

これらは夢狭間へ通ううえでの、絶対のルールらしい。

ルール3から、ずっと寝ていれば夢狭間で居続けられる、という邪な考えは否定されるどころか、今まで以上に現実の生活に励むことを要求されてしまった。

...まあ、頑張ってみるか。

努力の末に、別世界への切符が手に入るなら。

希望が見えているのなら、こんな世界も悪くは無いなと思えた。

この日、サンドバッグのお世話になることはなかった。

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黒石碧は眠る。 512 @Rui0715

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