第9話 出会いのオムレツ

 夜のレストランは寛ぎの場だ。親しい人同士のゆっくりとしたお喋りや愛で満たされる。

 料理も昼のセットメニューと異なり、アラカルトが中心となる。

 好みの料理で自分達だけの世界を創る。

 レストラン慶は、カジュアルなレストランなので客の恰好も様々だ。

 その中でいつも決まった時刻にきちんとした身なりでやって来る老夫婦がいる。

 二人とも80歳を超えた位だろう。

 ご主人はいつもスーツ姿で奥様は上品な服に身を包んでやって来る。

 ホール奥の窓際の席がいつの間にか指定席になってしまった。

 今日も、決まり通り6時にやって来た。

 ホールの係も余程の事がない限り玲子が担当している。

 指名された訳でもないし、別に難しい注文をするからでもない。

 毎日来ると家族のようで、自然にそうなってしまったのだ。

 料理は決まってスープを2つ、魚と肉の料理を1つずつ注文し、ご主人が半分に取り分ける。最後にコーヒーを飲んで帰って行く。 

 今日は、いつもと違いメニューを選ぶのに時間がかかっている。

 暫くすると玲子が呼ばれ二人に何かを説明している。 

 玲子がすまなそうに頭を下げると、老夫婦も笑顔で頭を下げオーダーを済ませた。

 玲子が配膳口にやって来た。

 別の席のオーダーを通しに結衣もやって来た。

「今日は、いつもより選ぶのに時間がかかりましたね」

「オムレツを頼まれたのよ。メニューになくても作るけど、幾ら貰うか決まっていないから『次回はお応えします』ってお詫びしたわ」

「メニュー増えて大変ですね」

「ちっとも。町のレストランや飲み屋なんてみんなそうよ。駅前の居酒屋なんか壁中メニューだらけよ」

 そういえば、『たまには別の物を食べよう』と、駅前の居酒屋に洋介を誘って行った事がある。入ったら壁一面メニューだらけで、逆に何を頼んでいいか分からなくなった。やっと決めたらすまなさそうに『さっきで終わった』と言われ、結局オヤジの勧める居酒屋定番メニューになってしまったのを思い出した。

 個人経営の飲食店には、一所懸命にやりながらどこか間が抜けた面白さがある。

 やがて食事が済むと老夫婦は、いつも通り食後のコーヒーを飲むと席を立った。

 ご主人が優しくドアを開け、妻と連れ添って行く。 

 その様子を見ながら、宇宙人なのに『あんな夫婦になれたらなぁ』と、思う自分が可笑しい。

『ダメよ、シクラに帰るんだから』そう思い直して「気合いだぁ、気合いだぁ」と思わず声に出してしまった。

 玲子がそんな姿を見てクスリと笑った。


 翌日、洋介と結衣は久々の休みをとり八王子にあるファッションビルの屋上に向かった。

 郊外にあるビルの屋上から見る景色は楽しい。都心と異なり、周りに高い建物がないので遠くまで見通せるし、人もほとんどいない。

 特に平日の昼間は貸し切り状態だ。

 洋介たちは銃の練習にやって来た。ベンチの配置されたレストスペースで結衣が洋介に使い方を教えている。

「そうそのマッチ箱のような箱を掌に握って、人差し指で銃口を作るの」

 洋介がぎこちなく作って見せた。

「そうね、じゃあ先ず見本を見せるね」

 結衣が10メーター位先にある植え込みの葉を狙った。

「パチン」当たった音がすると小さな葉が植木鉢に落ちた。

「どう、うまいものでしょ」

 洋介は、周りを気にして落ち着かない。

「お前こんな所で、物騒な物の練習しちゃっていいのかよ」

「大丈夫よ、第一これが銃に見える。むしろいい大人が輪ゴムピストルやってる位にしか見えないわよ」

「確かに葉っぱ落とす位しか出来ないもんな」

「と、思うでしょ。ところが箱についてる表示をマックスにすると、戦闘機位落とせるわよ」

「そんな危ねぇーの」

「使い方次第です。とりあえず的に当たらなきゃしょうがないので練習して下さい」

「じゃあ、やってみるか」

 洋介が恐る恐る植え込みに向けた。

「バチン」

 狸の置物に当たった。

 才能のなさに溜息が出る。

「ウダイと会った時に助けて欲しいんだけど、まだまだ時間がかかりそうね」


 冬の日差しは意外に暖かい、風もないのでまったりしてくる。

 洋介たちはボンヤリとした時間に浸りながら、屋上の反対側にあるエレベーター口を見詰めていた。

 すると中から高齢な女性が現れて来た。

 辺りを見まわし、深呼吸をすると冬の日差しの中をゆっくりと歩きだした。

 少し遅れて、今度は「おい、おい」と言う声して高齢の男性が現れた。

 男性は、屋上に出ると少し先を歩く女性に追いつこうと急いだ。

 よく見るとレストランに来る老夫婦だった。

 少し離れた所から妻が嬉しそうに振り返った。

「お爺さん、こっちよ」

 そして小さく跳ねた。

 その様子を見たご主人が手で制するように注意をした。 

「妙子危ないぞ、転ぶなよ」

 屋上の反対側に洋介たちがいるのには気づかず、少し興奮したのか妻が「私は、大丈夫。いつもリレーの選手なんだから!」そう言って走り出そうとした。

 新婚の妻なら分かるが年齢的には無理な冒険だ。

 床の継ぎ目に小さく躓くと「あっ」と声を上げてヘタリ込んでしまった。

 ご主人が慌てて走り寄った。 

「もう若くないんだからムリするなよ」

 今度は、手を差し伸べようとして近づいたご主人が躓いた。

「お、とっ、とっ」

 それを見た結衣が急いで駆け寄ろうとした。 

 しかしへたり込んだ二人はお互いを見て笑いあっている。 

 その様子に、洋介が結衣をそっと押しとどめた。

 どうやらケガはなさそうだ。

 結衣が洋介に腕を絡ませながら呟いた。

「なんか、若い恋人同士みたいね」

「うん、そうだけど、そうでもないような」

「何よ、ひねくれ者。仲の良さに嫉妬でもしているの」

「そうじゃないよ。不自然なんだ」

「仲のいいことが不自然なの?」

「あの年で普通、あんなことはしない。逆に夫婦っぽくない」

「そうかなぁ。まぁ、結衣さんの記憶や考え方をコピーしたけど、所詮は宇宙人だからね。分からないこともあるよ」

「お前、なんか今日、やけにもの分かりいいな」

「そうかなぁ」

 洋介は、急に結衣を抱きしめたくなった。

 その時ご主人が洋介たちを認め会釈をした。

 洋介たちも会釈を返した。

「お客様がお呼びだわ。残念でした。お預けね」

 結衣はそう言うと掌で必死に頭を抑えている洋介を残して老夫婦に近づいて行った。

 ご主人は妻をベンチに座らせると笑顔で結衣に近づいて来た。  

 結衣にのんびりと笑いかけた。 

「思わぬ所で会いましたな。今日はお休みですか?」

「ハイ、年末ですが休めました。ここには良く来られるのですか?」

「ええ、屋上が好きなもんでね」

「屋上は、空気いいですもんね」

「家内が好きなんですよ」

「可愛らしい奥様ですね」

「いやいや、みっともないところを見られましたな。年甲斐もないと思われるでしょうね」

 わざとではないが、まずいところを見てしまったようだ。お世辞ではなく素直な感想を述べる方がいいだろう。 

「いつまでも恋人同士みたいで羨ましいですわ」

 結衣はそう言いながらベンチで休む妻を見つめた。

 視線に気づいた妻が少女の様に小さく手を振った。

 ご主人はそれに気づき結衣たちを促した。

「あちらで座りましょうか」

 ご主人は屈託なく笑っている妻の横に座った。

 結衣たちはご主人の隣に座り、反対側にいる妻のレストランとは異なる表情に驚いた。

「奥様、お元気な方なんですね。レストランでは静かに召し上っているんで、気が付きませんでした」

「ええ、レストランでは少し緊張するみたいで、ここへ来ると解放された気持ちになるのか、こうなるんです」

 そんなよそ行きの接客をしてしまったのだろうか。申し訳ない気持ちになる。

「すいません緊張させてしまって」

「違うんですよ。子供なんです」

「はぁ」

 思いがけない言葉に反応が出来ない。

「あぁ、意味が分からないですよね」

 ご主人は、妻の手を膝に取りながら言葉を選んでいる様子だ。困った様子にいたたまれなくなる。

「あの、すいません余計な事聞いちゃったみたいで」

「いや、いいんですよ。いつもお世話になっているんで、もう知ってもらった方がいいでしょう。レストランにも近々行けなくなるんで」

 益々訳が分からなくなる。いい話ではないことだけは予想できる。

 ご主人は、遠くを見つめるように話しを続けた。

「家内は認知症なんですよ」

 妻は、3年ほど前に認知症になった。最初は鍋を焦がしたり、同じものを買ってきたりした。その頃は、年のせいだと笑っていたが、ある時家の周りで迷子になり、帰って来られなくなった。少し暗くなっただけで家に帰れなくなる夕暮れ症候群という見当識障害が始まっていたのだ。初めて異変に気付き診断を受けるとアルツハイマー病がかなり進み、薬では抑え切れない状態だった。そのうちに今度は積み重ねた記憶が徐々に失われていった。

「少しずつ記憶がなくなっていきましてね。過去に向かってまるでサラミソーセージを切る様に少しずつ、直近の記憶からまとまって失っていくんです。家内は今、12~3才くらいの少女になってしまいました」

 記憶を失っていく病。

 シクラ人にもある共通の病だ。

 「記憶を無くさない」ことで生きるシクラ人には一番恐ろしいことだ。

 でも実は誰しもがなる可能性を秘めている。

 自分だけ逃れる訳にはいかない。

「そうだったんですか」

「そう、仕方ないんです。だから家内は、私の事を自分のお爺さんだと思っている。レストランは、子供なんで少し緊張するんです。屋上は気兼ねがないようです。ここでお菓子を食べるのが好きなんですよ」

 そう言いうと妻の手にキャンデーを握らせた。

 妻は小さなセロファンを切るとキャンデーを口に含んだ。

「沢山食べると晩ご飯が食べられなくなるよ」

「うん」

 妻は頷くと片方の頬を膨らませ、短く答えた。 

 傾いた冬の日差しが優しく、暖かい。

 それがかえって悲しみを深くさせる。

「まだありましてね」

 ご主人は、人ごとのように淡々としている。

 結衣はその気持ちの強さに打たれた。

 しかし受け止めるには、自分は若すぎる。

『聞けない』

 そう思った。

 しかしご主人は、残ったキャンデーを妻の小さなバックにしまうと話を続けた。

「そんな中で今度は私がおかしくなりましてね。微熱が続くので診てもらったら末期ガンでした。あちこちに転移し、先は幾ばくもないそうです。もう家内の介護も難しい。そこで家内は有料のホームに入ってもらい、私はホスピスでお迎えを待つことにしました。神様も最後にとんでもない悪戯をしてくれますなぁ」

 人は、何故笑顔で自分の不幸を語れるのだろう。

 不幸が深ければ深いほど優しい笑顔になる。

 後何回レストランで会えるのだろう?

「いつ、引っ越しされるのですか?」

「明後日です。今日はお弁当にして明日お店に伺います。それが最後です」

 きっぱりと答えた。

 もうお洒落な姿も見られなくなるのか。

「いつも、きちんとした身なりでいらっしゃいましたね」

「そう昔みたいに二人でお洒落をしてレストランに行けば私を思い出してくれるかと思ったんです。昔食べた懐かしいメニューを食べたら『もしかして』と思ったんですけど。やっぱりそれは無理ですよね。だけど一度でいいから昔みたいに笑顔で私を『良三さん』と呼んで欲しい。そう思ったんです」

 愛する二人が永遠に離れてしまう。最後のデートに何を出せばいいのだろう?何を出せるのか。

「私たちにお料理でお手伝い出来ることはないでしょうか」

 重い現実の前では月並みな言葉しか出ない。

 ご主人は、二人の想い出の場面を彷徨っているかのように眼を上に泳がせた。

 やっと決まったのか、少し恥かしそうに話し始めた。

「そうですね、この間お願いしたんですがオムレツを作ってもらえませんか。表参道に若い時二人でよく行ったレストランがあるのですが、そこの名物でね。家内が好きで、決まって頼みました」

「はい、喜んで作らせて頂きます。ところで、どんな味だったのですか?レストランの名前が分かれば行ってみますし、彼ならきっとお応えできると思います」

 結衣が洋介を見つめた。

 ご主人もそんな洋介たちを暖かく見つめた。

「彼の事、信頼しているんですね。いいですね。お二人の愛を大切にしてください。でもレストランは、残念ながらオヤジさんが亡くなって、30年ほど前に閉店しました。味は、えーと。それが私は料理が全くダメで上手く伝えられないのです。家内なら分かるのですが」

 ご主人は、そう言って妻を見つめた。

 眼が合うと、妻は無邪気に笑った。

 洋介の頭に結衣のトランスが響いた。

『洋ちゃん、奥様の記憶を辿ってみるわ』

『分かるのか?記憶を失っているんだろ』

『二人に大切な記憶はきっと残っていると思うよ』

『ああ、君の気の済むようにするのがいい。オレは賛成だ』

『ありがとう、記憶の回路に辿りついたら少し加工をするわ。集中する為に少しの時間だけトランスバリア外すね』


 結衣は、妻の記憶に入り込むと記憶の糸を辿り始めた。

 行き止まったり、分岐を間違えたり、認知症の記憶を辿るのは並大抵のことではなかった。

 暫く迷うと、小さな記憶の曲がり角があった。

 そこは二人が初めて出会った大学の階段教室。

 冬休みに入ったのを忘れて、うっかり来てしまった。

 カバンから取り出したカリキュラムを見直していると、教室の上

のドアが開き、背の高い学生が入って来た。見上げて眼が合うと「やぁ」と手を上げ、恥かしそうに頭を掻きながら階段を下りて来た。

 ゆっくり近づいて来て、一つ上の階段で止まった。

 また眼が合った。

「君も間違えちゃったの?僕たち日曜日に慌てて学校に来た小学一年生みたいだね」と言い、困ったような顔をした。

 見上げると優しい笑顔。

 背が高いうえに一段上にいるので、見上げると首が痛くなる。

『この人、好きになる』

 直感した。


 記憶の角をさらに曲がった。

 夏のレストラン。

 彼の開襟シャツが少し汚れている。

 徹夜で働いたバイト代で誕生日をお祝いしてくれた。

 プレゼントを買ったらお金が無くなって、料理はオムレツだけ。

 少しチーズの入ったプレーンなオムレツ。

 ビールで乾杯したら、彼寝てしまった。

 でも嬉しかった。


 暫く進むと、出会って3年目のクリスマスイブ。

 地方転勤先から無理して駆けつけてくれた。

 場所はいつものレストラン。

 赤いテーブルクロスに蝋燭がちょっとだけよそ行き。

 暮れのボーナスが出たので学生時代には考えられなかった豪華なメニュー。

 照れながら見下ろすと今日おろしたてのドレスにハイヒール。 

 彼は覚えたばかりの方言で笑わすと、ぎこちなくワインを注いでくれた。

 瞳を合わせ、小さな乾杯。

 会社での出来事や学生時代の想い出。

 話は尽きる事がない。

『月並みだけど時間が止まってくれればいいのに』

 そう思った。

 でも幸せな時間にも不幸な時間にも必ず限りがある。

 時間は全てに公平だ。

 見れば食後のコーヒーの時間になってしまった。

 彼は、終電を乗り継ぎ勤務地に戻らなければならない。 

 彼がポケットから小さな箱を取り出した。

 鼓動が波打つ。

 箱を開けると中には銀色に光る指輪が輝いていた。

 顔を真っ赤にして彼が何かを早口で喋っている。

 嬉しさで良く聞こえない。

『えっ、何言っているの? 頭真っ白で良く分からないよ。もっとゆっくり話して』 

 彼が優しく左手をとってくれた。

 薬指には光る指輪。

 涙で光がボヤける。

 小さな拍手。見廻せば周りのお客さんが微笑んでいた。

『やだ、恥かしい』

 やがて厨房から主人が笑顔で記念のオムレツを運んで来た。

 少しチーズの入ったプレーンなオムレツ。

 口に含むと世界一幸せな味と香りがした。

 いつもより塩味が強いのは、きっと涙のせい。 

 結衣の心が暖かいもので包まれた。

 人から見れば誰にでもある場面。でも老夫婦にとってはかけがえなない想い出。

 結衣は洋介にもたれその余韻に浸った。

 

 ファッションビルの近くを飼い主と散歩するジャーマンシェパードがいた。

 首輪の裏に黒い発信機が埋め込まれているのを飼い主は知らない。

 一瞬の短いトランスだったが犬は見逃さなかった。

 

 中央線高円寺駅近くに線路に沿って、横に長い3階建てビルがある。

 築年数も大分経っており安普請な上、線路に接する様に建っているので列車が通過する度に揺れ、テレビの音どころか隣の話し声も聞こえない。   

 ポストの並んだ入り口にサングラスに黒いコートの男が立っていた。

 ポストの名前を確認しているようだ。

 目的の名前を見つけたのか東側にある階段を上り始めた。

 3階に上がると廊下に並んだ一室の前に立った。

 ドアには「親和会」と表札がかかっている。

 手袋をつけると静かにドアを開けた。


 少し遅れて同じ改札から初老の男が降りて来た。

 辺りを見廻すと線路に沿って歩き始めた。

 暴対をしていた頃から何回も来た街だ。

 行先には眼を瞑ってでも行ける。

 呟く。 

『あいつが生きていれば、あそこに行くはずだ。手遅れにならなければいいが』

 歩みが自然と早まる。

 

 黒いコートの男がドアを開けると机に脚を投げ出した小太りの男が目を見張った。

 驚きで声が出ない。

 喉からやっと声を絞り出した。

「力也、お前生きていたのか。あれだけ撃ち込まれて」

 隣室のただならぬ気配を察したのか、横のドアが開いた。

「オヤッさん、どうしました」

 出てきた若いヤクザも一瞬立ちすくむ。

 そして同じ質問を繰り返す。

「お前、あれだけ撃ち込んだのにどうして生きてるんだ」

 男が不敵に笑った。

「カートリッジ全部身体に撃ち込まれれば誰でも怒るさ。それをお前らに伝えに来た訳よ」

 小太りの男が引き出しからオートマチックを取り出そうとした。

 若いヤクザはサイドボードの日本刀に飛びついた。

 その時、中央線が轟音を響かせ建物の脇を走り抜けた。

 同時に男がリボルバーを抜き、二人に撃ち込んだ。

 勝負は一瞬だった。

 男は床に倒れこんだ二人に近づき、とどめを差すと西側の非常階段に向かった。

 男が非常階段のドアを開けた時、メッセンジャーからのトランスが届いた。

『キリは八王子にいる』

 

 初老の男は、建物の前にたどり着いた。

 何度も来た所なので勝手は知っている。

 ゆっくりと東側の階段を上って行く。

 3階の「親和会」という表札のかかったドアの前で足を止めた。

 ノックをし、インターフォンを押す。 

「おい、吉武だ。開けろ」

 声が反ってこない。

「開けるぞ」と言い、慎重にドアを開ける。

 ドアを開けた瞬間、血の匂いがした。

 中へ踏み込むと男が二人倒れていた。

 膝をつき、脈をとる。

 瞳孔も開いている。

 弾は正確に心臓を打ち抜き、とどめの刺し方にも無駄がない。 

『斎藤、あいつの仕業だ』確信した。

 通りに面した窓の隙間から風が吹き込み、カーテンが揺れていた。

 窓に近づき見下ろすと、道路がビルの脇腹を刺すように垂直に伸びている。

 先に目をやると、何事もないように街角を折れていく黒いコートの男が見えた。

 

 五日市街道の小金井公園付近を一台のワゴン車が走っている。

 運転席の綾がハンドルにしがみつきボヤいている。

「また、からぶりだぁ。疲れちゃったよ。桃子ったら、ちゃんと取材のアポ入れてるのぉ?」

 ウンザリ感は桃子も同じだ。

「い・れ・て・ま・す!でもオヤジ携帯出ないし、留守電にも反応ないし、仕方ないから早起きして押しかけたけど又不在。外で長い事待って、結局待ちぼうけ。運がないわ」

「グッタリ感で一杯だね。運転にも影響するわ。桃子あんまり話しかけないでよ。運転下手なんだから」

 桃子は、眠そうだ。

「ふあぁ。綾、仕方ないよ。くたびれ損もあるよ。まぁ、運転しっかり頼むよ。それだけ下手ならかえって安心だわ。ふぁあ」

「あんたも早く免許取ってよ。ちょっとぉ!寝ないでよ。寝たら事故ってやるから」

「ハイハイ、大丈夫。アッ、アー。ちょっと待って!」

「どうしたのよ、眠いのか興奮しているのかどっちかにして」

「見てよ、反対側」

 言われた先を見ると大きなオリーブの木が傍らにあるレストランが見えた。

「あのレストランだ!」

「綾、Uターン、Uターン!」

 ワゴン車は、慌ててUターンをすると駐車場に滑り込んだ。

 ハンドルを切っては戻すのを何度も繰り返し、少し斜めだがやっと白い線で引かれた駐車スペースに納まった。

 二人は、車から降りるとオリーブの木と2階の窓を見上げた。

 するとレストランのドアが開き、玲子が笑顔で出迎えた。

「あら、いらっしゃいませ」

 やけに親しげだ。

 会ったことがあるのだろうか?

 二人して怪訝な表情で挨拶を交わす。

「どうも」

「洋ちゃんと結衣さん、今日はお休みなんですよ。あら、ごめんなさい、私たち川島さんと如月さん、そう呼んでいるもんですから」

 いきなり出た思いがけない名前にぶっ飛ぶ。

 綾が眼を丸くして思わず尋ねた。

「いないって事は、いるって事ですよねぇ?」 

「はぁ」

 当然、意味が飲み込めない。 

 動転している綾を眼で制して、桃子が冷静に探りを入れた。

「あら、そうなんですか。私たちも『洋ちゃん、結衣さん』って呼んでいたので一緒ですね。お二人ともお休みですか。それは残念だわ」

「明日ならいますよ。今日もお食事ですか?」

「今日も」というのは、以前にも来たということか。

 まさか?

 もう少し探りを入れる。

「近くまで来たものですから。いつでしたっけ、私達来たの?」

「あら、お忘れ。ちょうど1週間前ですよ」

 無くしたはずの領収書の日付だ。

「いえいえ、そうじゃなくて。実は領収書を無くしてしまって。もし、再発行して頂けたら有り難いなって」

「ああ、いいですよ。何召し上がりました?」

 ヤバイ!覚えてない。と言うより知らない。

「結衣さんたちと顔合わすの、久々だったんで興奮しちゃって。飲み物を追加したような気もしますし。ご損かけちゃいけないから」

「ああ、大凡のいらした時間も覚えてますから、レジの記録ですぐ分かりますよ」

 何とか乗り越えた。ホッとする。

「ところでいつからお知り合いなんですか?」

 答えづらい質問だ。

 思わず口ごもる。

「あの日、車で出かけられてお話されてましたよね。その後結衣さん疲れた様子で帰ってきて」

 相手もこちらに探りを入れている。

 ここは、正直に身分を明かした方が良さそうだ。

 笑顔で名刺を差し出した。

「あっ、すいません。申し遅れました。結衣さんとは、この出版社で一緒だったんです」

「結衣さん出版社にお勤めだったんですか」

 綾がポツリと呟いた。

「ええ、優秀な方で惜しい事をしました」

「はぁ」

 桃子が慌てて取り繕う。

「いえ、あの優秀な社員がいなくなって、困ったなぁって。久しぶりに思いがけない所で会って、びっくりして」

「そうだったんですか。結衣さん昔の事仰らないから。あの時なかなか帰って来ないので何かあったのかと、すいません」

「あぁ、いいんです。ところで結衣さんたち、いつからお勤めですの?」

 また怪訝な顔に戻ってしまった。

「肝心な事お話してないんですね。洋ちゃんが今月の3日から、結衣さんが4日からですわ」

「私たち何も聞いてなくて、記者失格ですよね。すいません。ハッ、ハッ」

 必死だ。

「じゃあ、領収書切ってきますね。宛名はお名刺の通りでよろしいですか?」

「ええ、お願いします」

「ちょっとお時間かかりますんで、中でお待ち下さい」

 レストランの中を覗きたい気持ちもあるが、とんでもない質問が来るかもしれない。入らない方が無難だろう。

「いえ、結構です。素晴らしいいオリーブの木なんで写真を撮ってもいいですか?」

「ええ、どうぞ」

 笑顔でそう言い残すと玲子はレストランの中に入っていった。

 やっとのことで駐車場に残り二人は顔を見合わせた。

「桃子、ここに来ていたんだよ。私達」

「そうらしいね。なんなんだ、私ら」

「この先どうする? 桃子」

「領収書貰ったら、とりあえずトンズラだね」

「会社に一旦戻るか」

「そうだね、態勢整えてから又来よう。後日幽霊にインタビューか」

「カメラに写れば幽霊じゃないよ」

 やがて玲子から領収書を受け取るとワゴン車は、ヨタヨタと街道に戻って行った。

 

 クリスマスイブ。

 夕方6時のレストラン。

 窓際の席だけに赤いテーブルクロス。

 その上には、蝋燭の灯が光っている。

 クリスマスリースをつけたドアが時間通りに開くと老夫婦が入って来た。

 いつもの通り玲子が近づき席へと案内をする。

 赤いテーブルクロスと蝋燭の席を見てご主人が『おやっ』という表情に変わった。 

 玲子と入れ替わると結衣が赤ワインをテーブルに運んで来た。

 結衣は少し不安になった。奥様は12~3歳の子供だ。ワインを勧めていいのだろうか。

「奥様。ワイン、よろしいですか?」

 ご主人は、優しく答えた。

「いいですよ。夫婦で過ごす最期の記念日ですから。後でお水もお願いしますね」

 結衣が赤ワインを注ぐと奥様が恥かしそうに顔を伏せ、ドレスと靴を見詰めた。

 やがて二人だけの想い出のメニューが次々と運ばれて来た。

 あの日のレストランのメニューを結衣が洋介に伝え、作り上げたレシピの数々だ。

 老夫婦は、想い出を噛みしめるように食事を進め、ご主人は奥様が心配しないよう、明日からのことを優しく語りかけた。

 奥様は、それを理解しているのか分からない。

 ただ黙って頷いているだけだ。

 やがて食後のコーヒーになった。

 すると藤澤が、満面の笑顔で厨房からオムレツを運んで来た。

 テーブルに置かれたのは、少しチーズの入ったプレーンなオムレツ。

 老夫婦は顔を見あわせると再びナイフとフォークを手にした。

 オムレツを口に含むと奥様が何かを想い出したようにご主人を見詰めた。

 そしてはっきりとした口調で「良三さんありがとう」と言うと微笑んだ。

 ご主人は、驚きで眼を見張った。

 喜びで顔が赤くなる。

「妙子。分かるのか?」

「うん、分かるよ。私たち老けたね」

 奇跡が起きた一瞬だ。

「妙子愛している。ごめんな。ずっと一緒にいられなくて、ごめんな」

 涙で自分でも何を言っているのか分からない。

「今度はちゃんと伝えてくれてありがとう。私たち、何処で暮らしてもずっと夫婦だよ。幸せだったし、これからだって幸せ」  

 オムレツは、口に含むと素晴らしい愛の味がした。

 少し塩味が濃いのは、きっと涙のせい。

 オムレツを食べ終わると奥様は以前の表情に戻ってしまった。

 束の間の奇跡は短い幕を閉じた。

 洋介と結衣はドアから出て、去っていく老夫婦の後ろ姿が見えなくなるまで見送った。

 結衣が洋介にもたれながら呟いた。

「束の間の幸せだけで戻ってしまう。もう二度とない。あれで良かったの?」 

「いいんだよ、忘れてしまって。分かれて暮らすことになった奥様がいつまでも憶えていたらもっと不幸じゃないか」

「忘れる事も悪くないのかぁ」

 レストランのドアが開くと玲子が顔を出した。

「お二人ともお熱いわね。でも外は寒いから中に入れば、風邪ひくわよ。そうそう、準備に忙しくてウッカリしていたけど。昨日、結衣さんが前にお勤めしていた出版社のお友達が来たわ。ごめんなさい、言うの忘れていて」

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