第2話 再会

 12月1日冷夜、日付が変わった。

 夜の深さが闇となって沈殿し、列車がその闇をラッセルする。

 降り始めた雪は、月の光を反射しながら車窓を斜めに走る。

 ドアの微かな隙間から冷気が吹き込んで来た。

 思わず襟を立て、吐く息で手を温める。

 暖房でドアの窓が少し曇っている。

 指で窓をそっとなぞると小さな画面を切り取った。

 暗い画面の中を街路灯やネオンサインが流れて行く。

 すると今度は光る窓の行進が追いついて来た。

 中央線に並行して走る中央総武線だ。

 前の駅で追い抜いたはずなのに、又追い越して行く。

 並ぶと向こうの乗客もこちらを見ている。

 お互い目を合わさないが束の間のレースを楽しんでいる。

 一瞬だが、疲れた自分を忘れさせてくれる。

『抜きつ、抜かれつ。追いつ追われつか』

 力のない笑みが浮かぶ。

 今日も日付が変わってしまった。

 年末に近づくと宴会がたて込む。

 調理をし、明日の仕込みを終え、キッチンの後片付けを済ませればこの時間になってしまう。

 しかし洋介にとっては、この方が有難かった。

 忘れる事が出来るからだ。

『もう忘れるんだ。想い出にしなければ』


 そう思った時、小さなブレーキ音と共に列車が減速し始めた。

 列車が車輪を軋ませてホームに滑り込みドアが開くと「おぎくぼ、おぎくぼぅ」と言う駅のアナウンスが聞こえて来た。

 荻窪駅には2本のホームとそれを挟んで4本の線路がある。

 1本のホームは中央線、もう1本のホームは中央総武線だ。

 向こう側のホームには、中央総武線が少しだけ早く着いていた。

 中央線が止まると向こうのホームでは、中央総武線を降りた乗客が階段へ向かい小さな列を作っていた。

 深夜のホームは、さながら社会を映すファッションショーだ。

 残業疲れのサラリーマン、意味深カップル、列車に向かって元気に手を振る今時女子。

 それぞれが、ホームのランウェイで役割を演じている。

 ドアから降り立つ乗客に紛れ、白いコートの女が降りてきた。

 風に吹かれ、ウールの裾が雪まじりのホームで揺れた。

 目が釘付けとなる。


『うそだろ……』

 曇った窓を大きく拭き、出そうな声をやっと飲み込んだ。

『ありえない、他人のそら似だ。それにしても、これ程似るとは』

 否定しながらも目が追ってしまう。

『いや、メガネはかけていなかった。やっぱりそら似さ』 

 向こう側のホームで発車のチャイムが鳴ると中央総武線のドアが閉まり、動き始めた。

 列車とすれ違うように歩く女はホームの途中で立ち止まるとメガネを外し、自分に向かって小さく手を振った。

 ありえない仕草に驚き、もう一度見つめ直すと今度はニッコリと微笑んだ。

 衝撃が走る。

『マジ、本当かよ!』

 今度は中央線のホームのチャイムが鳴り始め、出発を知らせている。

「すいません! 降ります。降ろして下さい。すいません」

 怪訝な顔つきの乗客を押し分け、ホームに降り立った。

 同時にドアは閉まり、列車は動き始めた。

 加速する列車とすれ違う様に走り、ホームの階段を駆け下りる。

 通路を通り抜け中央総武線のホームを駆け上ると、そこにあるのは無機質なベンチと吹き込む雪だけだった。

『ありえない話だ。俺は一体どうしたんだろう。何をやっているんだ』 

 ホームの先にさっきまで乗っていた中央線が小さくなって行くのが見えた。

 中央線の快速はもう終わってしまった。

 ここで各駅停車の中央総武線を待つしかない。

 身体から力が抜けて行く。

『仕方がない。バカな事をした。少し落ち着こう』

 諦め気分でホームのベンチに向かおうとした時、後ろから肩を叩かれた。

 振り返ると白いコートの女が立っていた。

 驚きで声も出ない。

 女はそんな自分を見て嬉しそうに笑うと少しだけ首をかしげた。

「バカね、洋ちゃん。私はここよ」

 後ろに立っていたのは、昨年末に亡くしたはずの恋人。

 結衣だった。


 少々の驚きには慣れて来たつもりだったが、これは強烈だ。

 強烈だと月並みな事しか言えなくなる。

「如月結衣さんですよね」

 俺は一体何を言っているのかと思う。

 目の前にいる女はどう見ても結衣だ。

 三歳年下の結衣とは一緒に暮らし、年明けに結婚する約束をしていた。

 しかし結衣は昨年末、二十七歳の生涯を閉じてしまった。


 亡くしたものは戻って来ない。

 振り返ってはいけない。

 そう言い聞かせ、忘れる努力をし、やっと想い出になりかけたのに。

 ここにいるのは間違いなく結衣だ。

 それならあの葬儀は何だったのか。生き返ったのか。見れば足はついている。言葉も話す。着ている洋服も本物だ。それが証拠にコートの裾が風で揺れ足が覗いている。

 ありえない現実の前に理性が崩れ、頭は混乱の極みだ。

 何も言えない。

 何とか向こうから話してくれと願う。

「そう言う、君は確か川島洋介君かな」

 結衣は見透かした様にそう言うと屈託なく笑い、いつもの様に左手に持った小さなバッグを肩に担いだ。

「ああ、お腹すいた。何か食べようよぉ」

 仕草はいつも通り、そして口をついて出たのは余りに日常的な会話だった。

 何か言い返さなければ。

「メシ、食っても大丈夫なのか。ホラ、暫く食べてないと消化不良で腹壊って言うぞ」

 考えた末がこれかよと思う。

 結衣は右手を胸の前で小さく振り、答えた。

「大丈夫、大丈夫。毎日三食、欠かさず食べているから」

 それなら、安心と言う事ではないか。

 しかし、話は核心からどんどん離れて行く。

「それは良かった。じゃないよ! その前に何か言う事あるだろ」

 結衣は少しバツの悪そうな顔をすると、いつもの様に右腕を洋介の左腕に絡ませてきた。

 こいつ、幽霊じゃないのか。

 一瞬後ずさりになりそうなのをグッとこらえて左側にいる結衣を見詰める。

 身長170センチを少し超えた位の洋介より10センチ程低い結衣が見上げている。二人にとって見慣れた角度で視線が交差する。

 人は不思議だ。こうして腕を組むと温かさが伝わり日常に戻る。

 洋介は、結衣のぬくもり感じながら、何を食べようかと考えた。

 結衣といる時は何時もそうだ。結衣の気分や天気に気温などを考え決めていた。

 しかし今晩は、結衣の方から言いだした。

「何だかプレーンオムレツが食べたいなぁ」

 それは無理と言うものだ。

「こんな夜中に洋食屋はやってないよ」

「ファミレスはどうかなぁ」

「開いていてもプレーンオムレツは朝のメニューだよ」

「そうだね、じゃあ我慢しようか。少し寒くない」

 そう言うと結衣は洋介に身体を摺り寄せてきた。洋介が優しく肩を抱くと何時もの匂いがした。慣れ親しんだ感覚だ。

 そっと抱き寄せ、駆け上がったホームの階段をゆっくりと下りる。

 改札を出ると北へ向かう一本の細い道があった。


 小さな街灯に照らされながら路地を曲がり、見上げると「VEGITAN」と赤とグリーンの蛍光ライトで書かれた看板が見えて来た。暗い街角にそこだけ明かりが浮き上がって見える。

 髪の毛をうっすらと覆った雪を拭いながら中に入ると暖かい風がフワリと頬を撫でた。

 結衣のメガネが少し曇る。

 学生のアルバイトらしい女の子が近づき席を勧めた。笑顔が優しい。

 少し離れて若いカップルが一組いた。男が洋介に軽く会釈すると連れの女性がワイングラスを片手に微笑んだ。

「寒い時はここのバーニャカウダが美味しいわよ」

 女性の紹介にオープンキッチンにいる年老いたシェフが照れくさそうに笑った。

「じゃあ、それとオードブルお願いします」

 アルバイトがオーダーを伝える前にカウンターでシェフが頷いた。するとナイフとフォークが並べられる。

 レストランで一番清々しい瞬間だ。小さなショーの幕開けだ。少し温めた赤のホットワインを頼むと素焼きのカップで出てきた。

 結衣が両手を温める様に飲み始めた。

 食事は不思議だ。心を落ち着かせ、愛情が生まれる。人の心を素直にさせ、言葉に棘や疑いがなくなる。

「結衣、どうやってここに来たの。それとメガネ何時からかけるようになったんだ」

 不思議な言葉だ。

『生き返ったの』と聞かない。結衣がここにいる事を自然に受け止めている。

 程なくバーニャカウダが運ばれて来た。

 小さな器に上品に温められたソースが張られている。上質なニンニクとアンチョビの香りがする。瑞々しくも濃厚なセロリをつける。

 自然との調和を感じる。

 窓の外は雪が降っている。寒さを眺めながら暖かい部屋で食事をする。高価ではないが贅沢だと思う。

「言わなきゃダメ。そうだよね」

 結衣はそう言うとフランスパンをバーニャカウダに浸した。慈しむ様に口に運ぶ。口の中でワインと共に香がたつ。

「私はねぇ、結衣である事は間違いないわ。でも、生き返った訳ではないの。もう一人いる。言い方を変えれば、作られたでもいいわ。何れにしても私が如月結衣である事は事実。メガネは事情があって夜だけかける」

 予想通り厄介な話になってきた。駅で見た時から普通の話にならないと思っていたが、『いきなりかよ』と思う。

「意味わかんねぇよ」

 洋介は少しふて腐れ、フォークでオードブルのハムをもてあそんだ。

「じゃあさ、簡単に言うと結衣のクローンって訳」

 結衣は両手にナイフとフォークを持ち嬉しそうに答えた。

「ピンポーン、正解! 自費でハワイ旅行。おめでとうございます」

「やったぜ! それ二人分頼むわ。でも、自腹かぁ」

「連れてってくれるのぉ?」

「お前さ、もう少し利口な嘘つけないのかよ」

「じゃあ、幽霊って言った方が信じる訳」

「そうじゃないけど、人間のクローンなんて技、今の世の中にはないの。いきなり、クローンとか幽霊とか極端な話じゃなくて、もっと気の利いた真ん中の言い訳ないのかよ!」

「そう言われたってぇ。頑固ね。固定概念の塊」

「意味のない夢想家」

「保守的なコックよりましよ」

「売れない絵本の編集屋よりはいいさ」

「あら、『人はパンのみにて生くる者に非ず』って言うのよ。夢を見るのは、人の特権。無教養」

「何言ってんだ。『バクの夢食い』って言うんだよ。もう少し稼げる様になってから言えよ」

「そんな諺ないわよ。インチキ」

「イマジネーションが豊かって言えよ」

 風が吹き、雪が小さく窓を叩いた。室内の光に照らされ窓に二人が映っている。窓で視線が合い、見つめ合うと微笑みが浮かんだ。

 洋介は、『幽霊でもクローンでもいい。こんな奇跡みたいな出会い。続くのだろうか。きっとすぐ終わってしまう。時間が経つのが切ない程怖い』そう思った。

 小さな諍いと仲直り。

 以前と同じだ。

 先に入っていたカップルが帰って行くのが窓に映った。

「私たち前と一緒ね。ねぇ、お店行っているんでしょ」

「うん、でもアン・スヴニールは今日で辞めた」

「何故、もったいないじゃない。腕も上がってもう少しでストーブを任されるのに」

「うん、でも」

「でも、何よ」

「あそこにいると、プレーンオムレツ作らなきゃならないから」

「あっ……」

 結衣から小さな声が漏れた。プレーンオムレツは結衣の好物だ。

「洋ちゃん、ありがとう」

 温かい沈黙が訪れ、バイトの女の子が小さく欠伸をした。二人と目が合うと「すいません」と小さく会釈し、裏に隠れた。

「洋ちゃん出ようか。家へ帰ろう。明日仕事?」

「いや、明日は休みさ」

 休みの前は、気持ちに優しさとゆとりが生まれる。

 店を出ると雪の結晶は大きさを増し、ゆっくりと舞い降りていた。

 二人は、通りかかったタクシーを拾うと寄り添う様に乗り込んだ。

 雪と街灯だけに照らされ、タクシーが次第に小さくなって行く。

 アスファルトに積もり始めた雪に二本のタイヤの跡だけが残されていた。


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