6曲目 プレイヤー

 水溜まりの泥が跳ねて、靴やズボンの裾が汚れても意に介さない人だった。私はそういう小さな違和感をつい気にしてしまう。

 お互いの考え方の相違すらも愛おしいと思う時期はそう長くはない。日常の価値観のズレは見えないところで互いの距離を離してしまう。

 彼は洗濯物を畳まずに放置していても、後で畳めばいいと笑い飛ばしてしまう。そして、必ずと言っていいほどそれを畳まずにそのまま着てしまう。

 別れてしばらくの間、彼は私のところから遠くに行ってしまったのだと思っていた。決してそうではなくて、私とは決定的に違っていたのだ。

 仕方がない。そう思うしかなかった。

 満員電車に揺られながら今日のことを思い出す。私は明日から一体どうすればいいのだろう。いや、私だけではなくて、この世に生きるすべての人に当てはまるだろう。

 日中から社内は慌ただしい雰囲気に満ちていた。私はそんな喧噪を意に介さず自分の職務を全うしようとしていた。それにも関わらず雑音は私を無視してくれない。

 同期の鈴木さんが私に声をかけてきた。

「ねえ、安田さん」

 キーボードを叩く手を止めて振り向いた。「どうしたの?」

「どうしたのじゃないよ、まったく」鈴木さんは少し呆れている。

「明日から社員全員が在宅勤務になるかもしれないよ」

「えっ……、そうなの?」

「そうだよ。さすがにうちの会社も今のこの現状は無視できないってことよ」

 世界中で未曽有の新型ウイルスが蔓延し、それは日本も例外ではなかった。感染者数は爆発的に増加し、死者も確認されている。ただのインフルエンザなどと軽く見てはいけない状況まで追い詰められている。

「それにしても明日からって急すぎじゃない?」私は当たり前すぎる疑問を口にした。

「そういう噂が流れてんのよ」

 鈴木さんは社内でも随一と言っていいほどの情報通だ。その鈴木さんが言うからには確かな情報なのだろう。

 数時間後、鈴木さんの言葉は現実となった。

 夕陽が窓を斜めから差し、ブラインドを下ろそうと席を立ったとき、フロアに部長の大声が響き渡った。社員全員に大会議室へ来て欲しいとのことだった。

「ほらね」斜め前に座っている鈴木さんが得意そうに言った。

 ほんとなんだ。私は心の中でそう呟いた。

 部長が言った言葉は、鈴木さんが言ったこととほとんど同じだった。ひとつだけ違っていたのは、社員全員ではなく、チーム分けをして交代で在宅勤務をするということだった。

 私は早速、明日から在宅勤務をすることになった。鈴木さんは明後日から在宅勤務のようだ。つまりチームは別ということになる。

「ほんとに困るよね」鈴木さんは深い溜息をついた。

 日本政府が発出した緊急事態宣言というものによって私たちの行動は大きく制限をされる。それに基づいた会社の措置ということは十分に理解できるが、一方で鈴木さんの溜息にも深く頷くしかなかった。

「私たちの仕事って今からが繁忙期なのにね。どうすればいいんだろう……」

 私と鈴木さんが所属する経理部は今月が決算期だ。1年で残業が一番多い。

「急な仕事とかあったら私に教えて。私は明日も出社だからやっておくよ」

「ありがとう。鈴木さんも何かあったら言ってね」

「ありがとう。助かる」

 電車に乗ったのは22時を超えていた。在宅勤務の環境が整っていない私の会社は、明日から在宅勤務だと宣言されたとしてもほとんど自宅待機に近い。明日やる予定だった業務を限界まで残業してこなしていった。鈴木さんにも手伝ってもらった。

 明日から一体どうなるのだろう。そんな不安が拭えなかった。

 家に帰り着いたときには23時を越えていた。もう何もする気が起きない。ソファーに倒れ込み、ぼんやりとテレビのチャンネルを切り替えると、どれも感染症のニュースばかりだった。

 街頭でサラリーマンにインタビューしている光景を見ると、私と同じような境遇に置かれている人が多いとわかった。いきなり在宅勤務と言われても困ると若い男がぼやいていた。みんな同じなんだという妙な安心感を抱いてしまう。

 疲れた。そう思った瞬間、眠りに落ちた。

 目が覚めたのはいつもと同じ時間だった。

 顔を洗い、簡単な朝食を済ませ、化粧をする。髪をセットしかけたところでやっと今日は在宅勤務だということに気がついた。

 出社しなくていいだけでこんなにも朝の時間が手持無沙汰になるとは思わなかった。そんな喜びも束の間、いざ始業時間になっても何もやることがない。会社としても急ごしらえで最低限の環境は整えたようだが、業務で使用する書類はすべて会社にあるのだから仕事ができるはずがない。できることと言えば、せいぜいメールチェックとその返信くらいだ。

 スマートフォンを見ると、鈴木さんからメールが入っていた。

「どんな感じ?」

「メールに返信したらもうやることがなくなったわ」

「だよね」

 しばらくしてからまた鈴木さんからメールが届いた。

「3月に発行した請求書の支払日はいつってA社から問い合わせが来たんだけど、4月末で合ってる?」

 メールのやり取りを見ると記録が残っていた。

「いや、それは早めに支払いをして欲しいって言われてたから4月12日で支払い処理してる。そう答えておいて」

「了解」

「ありがとね」

「お互い様だよ」

 チームが分かれたことで鈴木さんと会うことはまったくなくなってしまった。会社内で唯一と言っていいほど自分の気持ちを正直に伝えられる同僚がそばにいないのは心細いと感じた。

 ずっと同じ空間にいたときには到底たどり着けない感情だった。

 そんな日々が1週間、1カ月と続いても事態は一向に好転しない。むしろ悪化するばかりだった。

 感染者数が増えるにしたがって人々は外出を避け、毎年あれほど賑わうゴールデンウイークも閑散としたものだった。

 例年、ゴールデンウィークも繁忙期のため出社することが多く、遠出はできなかった。

 そのストレスを少しでも解消しようと少し高価な化粧品を買ったり、仕事が落ち着いたら着るんだとばかりに可愛い服を買ったりして、自制心を保とうとしていた。それすらもできない。

 ゴールデンウイークの最終日。休日出勤を終えた私は、ふと街に出掛けてみようと思った。

 会社の最寄り駅から数駅離れた繁華街に降り立ったとき、私は言葉を失った。いつも人で賑わっている街が閑散としている。こんなにも華やかな街に似つかわしくない光景を私は26年生きてきて初めて目にした。

 この光景に私は孤独を感じ取ってしまった。関係性の濃淡は影響しない。周囲にいつも誰かがいるから私は、孤独を感じずにいられるのだ。鮮やかな夕陽を、ゆったりと流れていく雲を、時折、前髪をさらっていく風を、こんなにも寂しいと感じたのは初めてだった。

 そういえば、こういった何気ない風景を敏感に感じ取ることができるのが彼だった。私は何の変哲もない光景に頓着しなかった。

 彼と話がしたい。そう思えた。日常の微かな価値観のズレすらも笑い合えるような気がした。

 ただ、今さら私が彼に連絡できる権利がどこにあるだろうか。彼が追いかける夢を、彼と同じ歩幅で歩いていくと誓ったのに。裏切ったのは私だ。

 彼は役者として大成する夢をずっと追いかけ続けていた。10代の頃からの夢だというのは、初めて会ったときに聞いた。

 私が大学3年生のとき、友人に誘われて観に行った舞台の主役が彼だった。彼は舞台上で輝いていた。私には到底真似できないような熱量だった。

 私の友人がその舞台の主催者と知り合いということで打ち上げに呼ばれたときにたまたま彼は私の隣に座った。

「あなたが安西さんの知り合いの人なんですか?」安西というのが舞台の主催者だ。彼は誰に対しても分け隔てなく接する人なんだとファーストコンタクトでわかった。

「いえ、祐実……、私の友人が安西さんの知り合いなんです。その縁で今日は観に来ました」

「ああ、祐実ちゃんの友達なんですね」彼は快活に笑った。

 そのとき、彼はふと思い出したような表情をした。

「俺、藤島康介って言います。……と言っても、パンフレットで名前は知ってますよね」彼はふわっとした笑みを浮かべた。「あなたは?」

「安田亜紀と言います」

「亜紀さんね。よろしく」

 正直なところ演劇にはまったく興味がなかった。祐実に半ば強引に誘われて渋々やって来たという程度の動機だった。それでも彼が舞台上で輝く姿を見て、引き込まれていくのにはそれほど時間はかからなかった。

 それから色々な話をした。彼は専門学校を卒業し、劇団に所属し、小規模ながら数々の舞台に出演していた。いつか舞台だけでなく、映画やドラマで活躍する役者になるという夢を熱っぽく語った。

 私と彼は不思議と馬が合った。特定の趣味が一致しているということは特になかった。ただ、私と彼は演劇という側面で繋がっていたのだ。

 私は彼が好きだった。彼も私のことが好きだということは、彼のわかりやすい性格や言動ですぐに察することができた。彼に「俺の気持ちに気づいてないかもしれないけど、亜紀のことが好きなんだ」と告白されたとき、気づいてたよと笑ってしまった。

「嘘だ」彼は心底、納得がいっていないようだ。

「バレバレだよ。そういうのは演技できないもんなんだね」

「うるさい」彼は快活に笑った。

 私が大学を卒業し、就職する段階で同棲を始めた。ちょうどそのとき、彼はバラエティー番組の再現VTRでTV主演を果たした。私は、少し古臭い表現だけれど、それを擦り切れるくらい何度も見返した。10回くらい見返したときにはさすがに呆れられた。

「ここからだ。俺はここから登っていくんだ」彼はそう力強く呟いた。

 就職すると、様々なことに変化が生じる。定時で帰宅することもあれば、家に帰り着くのが23時を回っていることもある。同棲特有の互いの価値観のズレも自ずと見えてくる。

 決定的に違っていたのは、互いの歩幅だ。私は彼と同じ歩幅で彼の夢を追いかけていたと思っていた。でも、違っていたのだ。知らず知らずのうちに私は、生活スタイルの中に働くということが組み込まれ、その中に自分自身がいかに成長するかということを最上の価値観として見出していたように思う。私が彼の夢から置いていかれたのでもなく、彼の夢が私を大きく突き放したのでもない。並走していると思っていたのに知らず知らずのうちになぜかお互いがトラックを逆回りしていたのだ。

 あれだけ何度も見返していた、彼が主演した再現VTRを見ることもなくなっていた。

 別れようと言ったのは私だ。彼も薄々感づいていたように思う。

「ここからだ。俺はここから登っていくんだ」彼は小さくそう呟いた。

 私は、その言葉をこの雑踏の中で思い出した。そこから逆再生するかのようにあっという間に出会った頃の記憶まで辿り着いた。

 家に帰り着いたときにはすでに日はとっぷりと暮れていた。

 着替えるのを後回しにして、サイドボードの中に大切に仕舞われているDVDを取り出した。1年ぶりに見ることになる。彼と別れて初めてそのDVDに触れた。

 映像の中の彼は若い。2年ほど前なのだから当然だろう。そして、やはり輝いていた。

 スマートフォンの中から彼の連絡先を探し出す。メッセージを打とうして躊躇した。

 彼の思いを裏切ったのは、私だ。その思いが拭えない。それでも、彼と何気ない風景を共有したい。今ならそれができるはずだ。その思いが勝った。

 悩みに悩んだメッセージは実にシンプルなものだった。

「久しぶり。元気にしてる?」

 しばらくしてから返信があった。

「久しぶりだね。元気にしてた? まあ、俺はぼちぼちってところかな」

「うん、元気だよ。色々大変だけど。康介も大変なんじゃない? 舞台とか中止になったりしてるんじゃない?」

「それは良かった。うん……、そうだね」

「あのさ、今度会えない?」

「ああ、いいよ。いつなら行ける?」

「今度の土曜日とか?」

「行けるよ」

 嬉しいとは思えなかった。なぜだろう。顔を見ていないのに、彼の表情を見ていないのに、どうしてこんなにも不安になってしまうのだろう。

 土曜日は雨だった。繁華街の中心にあるカフェで待ち合わせをすることになった。たとえ雨であってもいつも人通りは多い。混雑と言っていいほどだ。しかし、今日はほとんど人を見かけない。

 約束の時間になって現れた彼は、別れたときとさほど変わっていないように思えた。

「久しぶりだね」

「そうだね」

「元気にしてた?」私はそう訊かざるを得なかった。

「まあ、それなりに」

 彼は傘を差して歩き始めた。

「雨が強いね」

「ほんとだね」この時期にしては珍しいと彼は呟いた。

「どこかのカフェにでも入ろうよ。久々に色々話をしたいし」

「うん、そうだね」

 彼は器用に水溜まりを避けて歩く。私もそれに倣ってついて行く。

「うわっ。靴が汚れちゃったよ」彼は靴を裏返して、白いスニーカーにはねた泥を忌々し気に見つめる。

「えっ……」私はあまりのことに驚いた。

「どうしたの?」彼は怪訝な顔をした。

「ううん、なんでもない」

 思わず下を向いてしまう。私のスニーカーにも泥がはねてしまっている。

「どうしたの?」彼が私の様子を窺っているのが声色でわかる。

「ううん、なんでもない」私は無理矢理に笑顔を作る。

「もうちょっと先かな?」

「次の信号を右だね」

 右に折れると、すぐにカフェが見えてきた。その場所は私と彼が初めて二人きりで会った場所だ。

「ああ、ここか」彼も気づいたようだ。

「懐かしいよね」

「そうだね」

 カフェの入り口を抜けると、がらんとしている。お客さんは一人もいないようだ。

 初めてこの場所に来たとき、私たちがどの席に座ったのか彼は覚えているだろうか。

 席が埋まっていて、仕方なく入口近くの狭い空間に身を寄せたことを覚えているだろうか。

 彼は一番奥のボックス席に向かっていく。私は入口近くの席を視界に入れずに彼について行く。

「久しぶりだね」何を話していいか迷ってしまう。

「そうだね」

 窓の外を見やると、雨は規則的に地上に降り注いでいる。店の中はBGMすら鳴っていない。外界から切り取られたかのように静かだ。雨の音を聴いていた方が心が落ち着くような気がした。

 今まで感じたことがないような心境だ。

 彼は外の景色に目をくれようとすらしない。

「まさか亜紀から連絡が来るとは思わなかったよ」この日、彼の笑顔を初めて見た。

「私もまさか康介に連絡するとは思わなかった」

「なんだよ、それ」彼はぷっと吹き出した。

「なんか頼む?」

「俺はホットコーヒー」

「私も」

 店員を呼び、注文するとまた店内は静かになる。

「ふと思い出したのよ」私は先ほどの話の続きをした。

「思い出した?」

「そう」私はもう一度、窓の外の景色を見やって続けた。「今ってさ、他人とこうして会うことって全然できないでしょ?」

「そうだね」

「私の会社も在宅勤務が始まって、同僚と会う機会が少なくなったの」

「なるほど」

「本来は人が大勢いるような場所に人が全然いない。それなのに街は当たり前のように存在していて、孤独だなって」

「寂しいということ?」

「ううん」

「そういうのを敏感に感じ取れるのが康介だったでしょ。そうだったはず。だから、そんな光景を見たとき、康介を思い出したし、また話したいなって思ったの」

「ああ、そうだったね」彼は思い出したかのような表情をした。「確かに俺ってそうだった」

「人ってそんなに簡単に変わるもの?」私はまっすぐに彼を見た。

 気がつくと、音もなく店員が2人分のコーヒーを置いていった。

 彼はコーヒーを口にして言った。

「変わるよ、人は」

「確かに変わるよ」

 私は、ようやく彼が見ていた景色を見れるようになったと思った。ようやく並走できるかもしれないと淡い期待を抱いていたのかもしれない。

 私は話を変えることにした。このときにもまだ私は淡い期待を抱いていたのかもしれない。

「最近、舞台はどうなの?」

「ぼちぼち……、いや、頑張ってるって言いたいところだけど、もう辞めた」

「公演が中止になってるから? 役者を続けられないから?」

「いや、それは関係ない。辞めたのは、それ以前の話」

 何となく予想はできていた。彼の顔を見た瞬間、ごく当たり前のように腑に落ちた感覚があった。

 彼からはごっそりと何かが抜け落ちているような気配があった。彼の全身から迸っていた熱が失われていた。

「そうだと思った」

「そうか……」

「今は何をやってるの?」

「バイトをしてる。でも、このままじゃどうしようもないから普通に就職しようと思っている」

「そう……」

 コーヒーはもうすでにぬるくなり始めている。あとは冷えていくだけだろう。

「失望した?」

「ううん。そういう選択もあると思う」

 私は彼から逆走していたことに気づき、再び彼を追いかけていると錯覚していた。しかし、彼はもはや走ること自体をやめ、私の目の前から存在そのものを消している。

 彼に伝えるべき言葉を私は持ち合わせていない。

「コーヒーを飲んだら出よう」気づいたときには私はそう言っていた。

「そうだな」

 視界の隅に窓の外の景色が映った。

 雨が止んでいる。

 彼は気づくだろうか。

 コーヒーを飲むふりをして彼を見やる。

 彼はコーヒーカップを一心に見つめている。

 冷たくなったコーヒーを飲み干した。

 彼はもうすでに飲み終えているようだ。

 そっと席を立つと、やや遅れて彼も席を立った。

 店を出て、南の方角を見やると、雲間から陽が差し、水溜まりに光を反射させている。

 彼はおそらくその景色を見てはいないだろう。

 いち早くその景色に気がつくのが彼だった。

 何気ない風景にはしゃぐ彼に対して、ほんとだねと返す。

 それが私たちの関係性だった。

 少し背中を丸めて歩く彼を見つめて私は歩く。

 涙すら出ることはない。私は一人だ。






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