5曲目 空から降る一億の星
久々の帰省だった。
母親から父親の癌が発覚して入院することになったと聞かされたときは酷く狼狽した。幸い、初期の癌だと知って胸を撫で下ろしたもののやはり心配だった。一週間経って、改めて母親に連絡し、近いうちに帰省すると伝えた。
最後にいつ帰省したのかもはや思い出せない。ここ数年、仕事が忙しく、電話のやり取りも途絶えがちになっていた。そんな折の母親からの電話だったので、これはもう帰るしかないなと観念した。
僕の故郷へは新幹線と電車を乗り継いで3時間以上もかかる。ようやくたどり着いたときには飛行機に乗った方が良かったと後悔した。飛行機の方がはるかに早く着く。どうして飛行機に乗らなかったのだろう。自分でもわからなかった。
到着したらそのまま父親が入院する病院に向かうことになっていた。タクシーがすぐ捕まるかなと心配したが、意外にも空車はすぐに僕の目の前に現れた。軽く手を上げ、タクシーを止める。
タクシーに乗り込み、運転手に行き先を告げる。
「どれくらいかかりそうですか?」
運転手は僕の方をちらっと振り返って、
「1時間くらいですかね。お急ぎですか?」
「いえ……、そんなこともないんですが、けっこうかかるもんだなあと」
車を緩やかに発進したもののすぐに目の前の信号で止まる。
「そうですねえ…、あそこの病院は丘の上にありますから」
母親から入院先の病院は小高い丘の上にあると聞いていた。
信号が青に変わり、再びタクシーは緩やかに進む。
上京してからもう10年以上は経っている。就職してからも毎年、帰省はしていたが、ここ数年は帰っていない。
緩やかに流れていく景色を眺めながら、変わってないなあと思う部分とすっかり昔の面影のない部分に揺さぶられるように感慨に浸っていた。
運転手の、もうそろそろですねえという言葉で我に返った。どうやら眠ってしまっていたようだ。窓の外を見やると、見覚えのない景色が広がっていた。
タクシーは坂道を登っていく。
「もうすぐですね」
そう言って、運転手はハンドルを右に回し、さらに坂道を登っていく。
タクシーは螺旋状にぐるぐると進む。普段、車にほとんど乗らない僕は少し気分が悪くなってきた。
「お客さん、着きましたよ」
「ありがとうございます」
タクシーを降りて、景色を眺めるとかなり登ってきたことがわかる。小高いどころではない。
駐車場を横切って、病院の前へと進む。自動ドアをくぐるとすぐに受付があり、名を名乗ると、405号室ですと告げられる。
エレベーターで4階に上がるとすぐに病室は見つかった。
コンコンとノックすると、はいという声がした。
「久しぶり」
「おおっ、帰ってきたのか」
「そりゃあ帰ってくるよ。それより大丈夫なの?」
「まあ、なんとかな。まだ初期だったから助かったよ」
「お母さんから連絡受けたときは心臓が止まりそうだったよ」
「驚かせてすまない」父親はぺこりと頭を下げる。
久々に見た父親は元々小柄なのにさらに少し痩せたように思った。
「痩せた?」
「元々こんなんだけどな。准平も痩せたんじゃないか?」
「そうかな。自分ではわかんないよ」
「またお母さんには迷惑かけちまったよ」
「迷惑なんて思ってないんじゃない?」
「そうかな」
「そうだよ」
久々に父親と話してみて、いくら初期の癌とはいえ、気落ちしているように感じた。
「気を強く持って、ね」
「当たり前さ。俺は元気だ」
すると父親はそれでねと話題を変えた。
「病気になって思ったんだ」
「何を?」
「人っていついなくなるか、いつ死ぬかなんてわからないだろ」
「そうだね」
「だから、生きているうちに感謝を伝えないといけない。そうだろ。死んでしまってからでは遅い。よく映画であるじゃないか? 死んでしまった大切な人が思いを伝えにくるってやつ。でもそんなこと無理だろ」
何も言わずにいると、父親がすうっと息を吸い込んでまた話し始めた。
「だからお母さんに手紙を書こうと思って」
「えっ?」
「驚いたか?」
「急すぎない? そんなことするタイプじゃないだろ、お父さん」
「だから意味があるんだ」
「お母さん、びっくりするんじゃ」
「もうお母さんには伝えてある」
「そうなの?」
「もう書いたんだ」父親は枕元から便箋を取り出した。
「だからこれをお母さんに渡してくれ」
「別にいいけど。見ていいの?」
「絶対に見るなよ。絶対に」
※
啓子へ
こうして手紙を書くのは初めてかもしれない。だからなんだか照れくさいし、難しい。もう今の時点ですでに3回書き直している。
まさか初期とはいえ俺が癌になるなんて。健康には人一倍、自信があったのに。情けないな、まったく。
普段、文章なんてちっとも書かない俺が手紙を書くと言ったもんだから驚いただろう?
何よ急にどうしたの?って顔をしてたな。
啓子は覚えてるかな。
妊娠して、もう産まれそうってときにふと漏らしたよな。
この子の未来を想うと不安だって。
あまりに驚いて言葉が出なかったよ。それなのに啓子は、どうしたの?だなんて言うもんだから、まったく面白い人だなってさ。
あのときどうしてこの子の未来を想うと不安だって言ったんだ?
俺はあえて言わなかったけど、今なら何となくわかる気がする。
そういえば普段おっとりとしていてまったく怒らない啓子が一度だけ怒ったときがあったな。准平が小学生のとき、同級生にいじめられて泣いた帰ったときがあったろ。着替えもせずにエプロン姿のままいじめっ子の家に怒鳴り込んでいったと聞いたときはびっくりしたよ。家に帰ったら准平が一人で部屋の隅にいるから、お母さんは?って訊いたんだよ。いじめっ子の家から帰ってきたときの啓子の顔はそれはすごかったぞ。ああいうのを鬼って言うんだな。怖すぎて指摘ができなかった。今だから言えるけどさ。
啓子には迷惑をかけっぱなしだった。それに加えて、今度は癌だもんな。情けなくて涙が出てくるよ。でも、癌になって、自分の命というものに、今までずっと考えずに済んだものに、思いを馳せたからこそ、こうして正直な気持ちを書けているのかもしれない。そういう意味では癌に感謝しないといけないな。
この子の未来を想うと不安という言葉の意味を病室で考えたよ。ふと思い出したからさ。
俺が思うにこういうことだろう?
人生は何が起こるかわからない。こんな小さなちっぽけな命を、ずっとそばで見守っていられたらいいのにって思うけど、大抵はそうはいかない。親が死ぬのが先だろう。もし今、私がいなくなってしまったら。そう考えたんだろう?
何とも啓子らしい考え方だ。俺はこの年齢になるまで、そんなことは考えてもみなかったよ。
最後に。
手紙なんて書くのは初めてだから、心底読みづらいだろうけど、最後まで読んでもらえると嬉しい。そして、返事を楽しみに待っている。
※
タクシーに乗り、久々に実家に帰る。渋滞に巻き込まれてしまい、かなり遅くなってしまった。母親には遅くなりそうだとすでに伝えてある。
タクシーが、かつて慣れ親しんだ街を駆けていく。
国道から右の脇道に逸れ、住宅街に差し掛かる。後は一直線だ。
「お客さん、この辺りですかね?」
「あっ、そうですね。この辺で大丈夫です」
タクシーを降り、重い荷物を提げ、歩く。
懐かしいなという気持ちが込み上げてきた。
やがて実家が見えてきた。2階の明かりが灯っている。僕の部屋だ。
実家のチャイムを鳴らし、しばらくすると母親が出てきた。少し老けたように思うが、元気そうだ。
「おかえり。疲れたでしょ」
「いやあ、疲れた」玄関に座り込むと、疲れがどっと押し寄せてきた。
「お父さん、元気そうだった?」
「うん。元気そうだったよ。気落ちしているようには見えたけどね」
「そう。まあ、お父さんも普段、病気なんてまったくしないから、余計に精神的に参ってるんだろうね」
「あっ、そうだ」僕は早速、父親から預かってきた手紙を渡すことにした。「お父さんから手紙を預かってきたよ」
「えっ、お父さん、本当に手紙なんて書いたの?」
「そうだよ。返事、書いてあげなよ。お父さん、喜ぶと思うよ」
「手紙ねえ……、そんなの恥ずかしいじゃない」
「いいじゃん、たまには」
「はいはい、わかったから。早く家に上がりなさい」
実家は何も変わっていなかった。せいぜいテレビなどの家電を少し買い替えた程度だ。
母親とは懐かしい話を色々とした。もう連絡を取っていなかった旧友の近況も知ることができた。
この日は疲れてしまい、シャワーを浴びてすぐに寝ることにした。
最近、仕事のストレスで夜はなかなか寝つけない日が多々あったが、この日はぐっすり眠ることができた。
次の日は割と早く目が覚めた。睡眠時間も決して多かったわけではなかったけれど、すっかり体の疲れが取れている。こんなに心地良い朝はいつぶりだろうかと、思った。
おぼつかない足取りで急な階段を降りて、リビングに向かう。目覚めてから階段を降りてリビングに向かうという実家暮らしでは当たり前だった行動も、今となってはとても懐かしい感じがする。
母親はもすでに起きていて、朝食を作ってくれている。
「早いね」
「今日はパートがあるから、今日は病院には行けなさそう。だから、准平、行って来てあげて」
「了解」
※
和弘さんへ
和弘さんが突然、手紙を書くだなんて言い出したときはびっくりしました。
急に言い出すもんだから、空から星でも降ってくるんじゃないかと、思わず空を眺めてしまいましたよ。
和弘さんは覚えているかどうかわからないけれど、准平が産まれる前に転勤の話があったでしょ。あのとき、和弘さんは転勤の話を断った。何年かしてから、たまたま和弘さんの同僚とばったり出くわしたときに、決して悪い話ではなかったのにどうして断ったのかわからないって言ってた。
でも、あのとき和弘さんはこう言った。
都会なんかに住んだら、こんな綺麗な夜空を眺められなくなるだろう。星が見れなくなるだろう。俺はそれが絶対に嫌なんだって。
堅物な人の癖に意外とロマンチックなところもあるんだなって思ったけれど、私は嬉しかった。だって、私も同じ気持ちだったから。
この街の星が心底大好きだから。こんなに澄んだ夜空は他にはないってずっと思っていた。
この子の未来を想うと不安。まさか私のそんな言葉を覚えているだなんて思ってなかった。
和弘さんの書いた通りです。ずっとそばで見守っていられないかもしれない。そう考えると、ずっと不安だった。
でも、そんな不安は杞憂だった。和弘さんと一緒だったからこそ、この街で星を眺めて祈り続けていられたから。
迷惑だなんて思うわけないじゃない。迷惑と思うなら、この歳まで一緒にいるはずがありません。
退院したら、また星を見に行きましょう。病室みたいな切り取られた狭い空間ではなくて、一面に星が瞬いているような、そんな場所で。
※
たった5日間の休みではあったが、父親と母親に会うことができて良かったと思う。
帰る前にもう一度、父親に会いに行ったが、最初に会ったときよりも心なしか元気になっているように感じた。それだけでも安心した。
父親から受け取った手紙をタクシーの中で読んだ。もちろん母親には内緒だった。
次の朝。リビングに向かうとすでに朝食が用意されていた。テーブルには可愛らしい花柄の封筒が置かれていた。
「何、これ?」
「手紙の返事」
どうやら母親は、父親が書いた手紙に返事を書いたようだ。
「今日、渡しに行けばいいの? ていうかお母さん…、自分で渡しなよ」
「いや……、それはちょっと照れくさいじゃない」
「はいはい、わかりましたよ。渡しに行きますよ」僕は呆れて何も言えなかった。
「恥ずかしいから絶対に見ないでよ」
「さすがに手紙を覗き見する趣味はないからね」
「絶対だからね」
父親と同じことを言ってるなと思って笑ってしまった。やはり似ている。
「なんで笑ってるの?」
「なんでもない」
結局のところ、父親と母親の手紙のやり取りを一通ずつ読んでしまった。その後、2人がどんなやり取りをしているのか知らない。今もやり取りをしているかもしれないし、もうやめてしまったかもしれない。
でも、その手紙の往復、たった一度きりの往復が、2人の関係のすべてであるように思った。すべてが詰まっている。
そこには僕の知らなかった父親がいて、僕の知らなかった母親がいる。
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