4曲目 あいという

 体を柔らかく優しく包み込むような雨が降り続いている。

 この雨は一日中、降り続くだろうか。それとも、止むだろうか。そんなことを思った。

 アスファルトの窪みに水溜まりができている。もしかすると、昨晩、土砂降りのような雨が降ったのかもしれない。

 最寄り駅まではあと少しだ。下を向いて歩いているので、前方がよく見えなかった。ふいに美穂の声が脳裏に蘇る。准平君は下を見すぎだよ、前を見なきゃ。

 案の定、前から歩いてきた人とぶつかりそうになってしまった。こんなことばかりだ。同じことを繰り返してばかりいる。

 傘を差すほどでもない。すれ違う人々が傘を差しているか差していないか、そっと確認する。ちょうど半分半分だ。

 路地を抜けると、地下鉄の改札が見えてくる。右の方に見える横断歩道から大勢の人々が押し寄せてくる。僕の後ろにはサラリーマンや学生が列をなして歩いている。僕の後ろの人々と横断歩道からやってくる人々が、ちょうど二又に分かれた川が一本の川に合流するように地下鉄の改札へと続く階段に吸い寄せられていく。流れに逆らうことはできない。抗いようがない。流されるままに。いつもそうだ。


 学校に到着してからしばらくして僕は傘を持ってこなかったことを後悔した。

 授業が始まって、ぼんやりと窓の外を眺めると、雨の勢いは明らかに増している。これは止みそうにないな。

 退屈な授業は続く。教師は延々と黒板にチョークの不快な音を響かせて何やら書きつけている。書き終わると、教師はくるりと振り向いて話し始めるが、いつも不快な表情で手にこびりついたチョークの粉を教卓に置いた大きめのタオルで拭う。何回も何回も繰り返し繰り返し。いつか友人の誰かに聞いたことがある。どうやらこの教師はいつも毎日タオルを10枚以上は持ってくるらしい。洗濯が大変らしいとも。

 これだけテクノロジーが発展しているのに変わらないことばかり、変えられないことばかり。

 自分で自分の人生を選択し、前進するということにひどく臆病になっている。なぜだか自分でもわからない。また美穂に怒られそうだ。

 午前中の授業はあっという間に終わった。朝食を食べてこなかったので、さすがに腹が減ってしまった。

 突然、後頭部に軽い衝撃が走った。振り向くと、美穂がコンビニの袋を持って立っている。どうやらこのコンビニの袋で後頭部を殴打したらしい。痛くもないのに痛いと言ってしまったことが恥かしい。

「そんなに痛くないでしょ」

「聞こえてたか」

「もちろん」

 美穂は僕の前の空いている席に座った。僕の前に座っている名前もよく知らない女子は、昼休みはいつも他のクラスで昼食を食べるので、空席になっている。

「ていうか、進路どうすんの?」美穂はコンビニの袋をどかっと僕の席に置きながら言った。

「どうだろ」

「どうだろ、じゃないのよ」美穂は心底呆れている様子だ。

 僕はかばんの中からサンドウィッチとコーヒー牛乳を取り出した。すると、美穂もコンビニの袋から同じ物を取り出してにんまりとした。

 彼女の昼食はいつもこの組み合わせだ。付き合い始めてからまもなくして昼食を一緒に食べるようになったのだが、毎日同じものを食べていた。訊いていいものなのか、それとも触れてはいけないのか判然としなかった。意識しないように意識しないようにと考えれば考えるほど、頭の中はそればかりになっていった。何か特別な理由があるにちがいない。だからある日、意を決して訊いてみたのだ。

「なんでいつもサンドウィッチとコーヒー牛乳なの?飽きないの?他の物を食べたいと思わないの?」自分で思っていた以上に矢継ぎ早に質問してしまった。

「うん、そうだねえ…」美穂はそこでコーヒー牛乳を一口飲んだ。そのタイミングでも飲むんだなと僕は意外に思った。「好きだから」

「え?」

「好きだから」

「そんな理由?」

「好きだったら毎日食べるでしょ」

「好きでも毎日は食べないよ。飽きるじゃん」

「飽きないよ。好きだから」

 好きということに対する価値観はほんとに人それぞれだなと妙に感慨深い思いだった。

「ねえ、聞いてる?」

「聞いてる」

「聞いてないじゃん。さっきからコーヒー牛乳ばっか見てるし」

「すまん」

「やっぱり聞いてないじゃん」

「すまん」

「准平君、いつからそんなにコーヒー牛乳ばっか飲むようになったの?」

「2か月前くらいかな」美穂と付き合い始めたのが2か月前だった。

「もうそんなにかあ。時間が経つのは早いですなあ」

「美穂のせいだよ」


 美穂の昔の話を僕はほとんど知らない。昔といっても、僕たちの生きてきた年数を思えば、昔などという形容は大袈裟なのかもしれないけれど。

 僕から訊こうとしたことは何度かある。でも、いつも絶妙にはぐらかされるのだ。終いには僕から美穂のことを訊くのはやめてしまった。

 こんなことがあった。

「美穂って中学のときはどんな子だったの?」

「今と変わらないよ」

「それじゃわかんないよ。まだ美穂のこと全然知らないし」

「うん、そうだなあ……、二人ぼっち」

「二人ぼっち?」

「そう、二人ぼっち」

「いや、わかんないよ」

「友達が全然いなかったから……」

「一人だけいたってこと?」

「うん」

 そういえば、この学校で美穂には仲良くしている友人が一人いた。何ていう名前だったか。確か佐伯っていう苗字だったような気がする。

「准平君はどんな中学生だった?」

 いつもそうだ。気づけば、いつも僕の話になっている。それに特に抗うこともない。流されるまま。

 美穂はほんとうに変わった人格の持ち主だと思う。美穂に言わせれば、僕の方がよほど変わっているらしいが。

 友達がいないという言葉からもわかるように非常に内向的なように思う。でも、いざ話してみると、外向的な部分が全面に出てくる。矛盾しているかもしれないけれど、内向的で外向的といった具合だ。

「まあ、普通かな」

「普通じゃわかんないよ」

「平均的かな」

「一緒だよ」

「平凡かも」

「それは一緒じゃないね」

「普通も平均的も平凡も一緒じゃないけどね」

「ていうか平凡なんてつまんないよ。自分のことを平凡みたいに過小評価するのはよくないよ」

「過小評価はしてないよ」ほんとうにそう思ったから僕は首を横に振った。

「普通とか平凡で満足してちゃ駄目なんだよ。その普通とか平凡に全然辿り着けない人がいっぱいいるんだよ。私みたいに……」

 彼女の「私みたいに」という言葉の真意を測りかねて、訊いてもいいのか逡巡して、次の瞬間には彼女の言葉の矛盾に気づいて、無意識のうちにそちらに逃げてしまった。「普通と平凡は一緒じゃないよ」

「また言ってるよ。細かいねえ、准平君は」このとき僕は美穂が僕の言葉に安堵したのか失望したのかわからなかった。「私みたいに」という言葉に触れるべきだったの否か、僕にはわからなかった。


 学校の授業が終わるまでに雨は止まなかった。

 駅まではかなり距離があるから、走っていくしかない。

 校門を出ようとしかけたところで視線を感じた。視線を感じた方を見ると、傘を差した女の子がこちらを見ている。どこかで見たことがあるなあと思っていたら、彼女がこちらの方に歩いて来た。ぼやけた顔の輪郭が少しずつ形を成していく。そして、ようやくわかった。美穂の友達だ。確か佐伯という苗字だったように思う。

「佐伯さん?」もしかすると間違えているかもしれないと不安に思いながら、尋ねた。

「うん。美穂の彼氏の……高坂君?」

「そうそう」

「あっそうだ、折り畳み傘あるんだけど、使う?」

「えっいいの?」

「いいよ、私、見ての通り傘があるし」

「じゃあ借りようかな」

「どうぞ」そう言うと佐伯さんはかばんから折り畳み傘を取り出した。

 ばさっと広げてみると小さめの可愛らしい傘だった。肩が濡れてしまうかもしれない。全身びしょ濡れになるよりははるかにいいだろう。

「肩が濡れるね」佐伯さんはぼそっとつぶやいた。

「全身濡れるよりははるかに良いよ。ありがとう」数秒前に考えていたことをそのまま言葉にした。

 僕たちは何も言葉を発さぬまま歩き出した。共通の話題はあるはずなのにそれを口にしていのか判断がつかなかった。

 アスファルトを打ちつける雨の音。

 自動車の走行音と水溜まりを撥ねつける音。

 二人の足音はほとんど聞こえない。

 そんな沈黙に堪えかねて僕は訊いた。

「佐伯さんはいつから美穂と友達なの?」

「中学のときから」

「そうなんだ」

「美穂から聞いてない?」

「聞いてないねえ。教えてくれない」その場の空気を和やかにしようと笑ってみたが、佐伯さんは笑わなかった。

「中学のときにね…、友達が一人もいなかった私に声をかけてくれたのが美穂なの」

 今と変わらないよ。ふいに美穂の言葉が蘇った。

「そういえば、美穂がずっと二人ぼっちだったって言ってた」

「それはたぶん私とのことだなあ」美穂は薄く笑った。

 色々あったからねえ、二人で結束するしかなかったんだよ。佐伯さんはそう言うと、寂しそうに笑った。

 やがて駅が見えてきた。

「いつも思うけど、駅までけっこうあるよね。なかなかしんどい」

「これくらいの距離でしんどいとか言ってちゃ駄目だよ。軟弱だなあ。ちゃんとしてよ」

「ごめんなさい」

「美穂は人一倍弱いんだから。美穂を弱さで上回らないで」傘を閉じて佐伯さんは言った。「じゃあ私はこっちだから」

 そう言い残して佐伯さんは颯爽と改札口を抜けた。


 佐伯さんとは反対方向の改札口を抜けて、電車に飛び乗った。

 窓の外の景色を眺めても一面、灰色だ。色鮮やかとは程遠い。少し前に読んだ小説で「厚く垂れこめる雲」といった描写があったが、まさしくそんな感じだ。

 こういった曇天の空を眺めると、どうしても後ろ向きのことを考えてしまう。かといって、天気の良い日がいつだって前向きのことを考えているかと言えば、決してそうではない。

 相手のことが知りたいのに知ることに対して臆病で、知ってしまっては何かが変容してしまうのではないかという恐怖。

 何かを変えたいのに変えられないという弱さ。

 数え上げればきりがない。

 美穂が話してくれないから。そうじゃない。責任を他者に委ねて自分だけ安堵する。それがどれだけ他者を苦しめるのかくらいわかっているはずなのに。

 電車が速度を少しずつ弱めていく。嬌声を上げながら電車がホームへと滑り込んでいく。

 一斉に乗客が降りていく。その流れに乗って僕も降りる。

 改札を抜けて右へ曲がると、地下鉄の乗り場への案内表示がある。案内表示に従って進むと、やがて地下鉄の乗り場が見えてきた。わざわざ脳みそを使わなくても目的の場所に辿り着ける。目的の物を手にすることができるし、待っていれば勝手に家に持って来てくれる。何と便利な世の中なのだろう。それによって失ったものがあるはずだ。僕にもいっぱいあるはずだ。

 地下鉄の駅を4駅通過すると僕の家の最寄り駅だ。学校まではちょうど1時間かかる。僕としてはそこまで遠いと感じてはいないが、もっと近くから通学しているクラスメイトもいるので、少し羨ましいなと思う。

 改札を抜けて、地上への階段を上る。徐々に外の喧騒が耳に入ってくる。雨音が次第に強くなる。

 僕の予想通り雨は止まなかった。


 家に帰ると、珍しく父親が帰宅しているのが玄関にあった父親の靴でわかった。少しだけ心の中で溜め息をつく。

 ただいまとリビングの扉を開けると、母親が台所で料理をしているのが目に入った。すぐ目の前のテーブルには父親がいるのにも関わらず敢えて見ないようにした。目の前の父親が何を言うのかわかるからだ。

「おかえり」母親が料理の手を止めずに言った。

 僕が予想していた通りの言葉を父親は口にした。「受験勉強はどうなんだ?」

「どうだろ」

「どうだろ、じゃない」

 今日、同じようなやり取りを美穂とした気がするが、美穂との方は腹が立たない。父親との方は、言わずもがなだ。

 父親の言葉を無視して、台所に向かう。冷蔵庫を開けると炭酸ジュースが入っていたので、その場でごくりと飲む。

 このまま父親を無視し続けるのもどうかと思ったので、返答だけしておくことにした。「まあ、ぼちぼちだよ」

 やれやれといった表情で父親は首を振っていた。

 父親の表情を見ないふりをして、自室へ向かう。

 電気もつけずにベッドに腰かける。

 自分の部屋を眺め回して改めて殺風景な部屋だなと思った。

 初めて美穂が僕の家に来たときの第一声が、殺風景だねという一言だった。そのときは特に何も思わなかったし、これが当たり前くらいの感覚だった。逆にどうしてそんなに物が必要なのかと。

 でも、今こうして冷静に客観的に見てみると、殺風景どころか何かが欠落しているのではないかと思えてきた。なぜだろう。それなりに人並みに小説や漫画、参考書の類、ゲーム、服など買っているはずなのに。そして捨ててもいないのに部屋が殺風景なままだ。変わり映えがしない。

 何も選ばないから、流されるままだから、だから欠落していくだけなのではないか。この部屋が自分の内面のすべてを表しているようで強烈な不安感に襲われた。


 翌日も雨だった。ただ、昨日の朝より雨足は強かった。さすがに傘は差して家を出た。そして、佐伯さんから借りた折り畳み傘を大事にかばんの中に入れて登校した。

 どのタイミングで傘を返そうかと思っていたが、なかなかタイミングに恵まれなかった。休み時間のときに何度か佐伯さんのクラスを訪れたが、不在だった。

 今日はすべての授業が終わった後、大学受験対策の特別授業がある。志望校も何も決まっていないけれど、何かをしなければいけないという強迫観念で申し込んだ。その授業が今日から始まる。

 少し早めに行くと、教室の端に佐伯さんがいた。教室に入った瞬間、お互い目が合った。

「良かった」僕は少しだけほっとした。

「何が?」

「いや、昨日借りた傘を返すタイミングがなくてさ……、何回か教室に行ったんだけど、いなくて」

「そうなんだ。そんなに急がなくていいのに」佐伯さんはおかしそうに笑った。

「ありがとう」そう言って、かばんから傘を取り出した。

「どういたしまして」佐伯さんは傘をかばんに仕舞う。「そういえば、美穂は一緒じゃないの?」

「うん、この授業は受けないって」

「佐伯さんって美穂と学校でずっと一緒ってわけじゃないんだね」

「そうだね、ずっとじゃないよ。そんなべたべたはしないよ。恋人同士だってずっとは一緒にはいないでしょ」

「まあ、確かに」

「だって中学からずっと一緒だから。ずっと一緒にいなくても、ね」

 それよりさ、と言って佐伯さんは続けた。

「高坂君は他人の領域に全然入っていかないよね。土足で不作法に入られるのも迷惑だけど……もっと入って欲しいと思っている人はいっぱいいると思うよ。特に美穂とか」

「そうかな」そう言ったものの多少の自覚はあった。

「そうだよ」

 内緒にしてて欲しいんだけどね、と佐伯さんは話を始めた。

「中学のとき、私と美穂はいじめられててさ、私は美穂しか話す人がいなくて。昨日、色々あってって言ったのはこのこと」佐伯さんは、窓の外をちらっと見て続けた。「このことは美穂には内緒にしてね、絶対」

「そんなことが……、知らなかった」

「そうだよ。私もずっと一人だったから、でも、私は一人でいいんだって強がってた。超然とした人格を装ってた。自分をごまかしてたし、周囲に私はこうなんだって見せつけてた。全然そうじゃないのに……。そんなとき、私の世界に少し強引に美穂は入って来てくれた。それにどれだけ救われたか…」

「そっか」

「うん。流されるだけじゃ駄目なんだよ」

 佐伯さんにすべて見透かされているような気がした。


 授業の間、ずっと佐伯さんに言われた言葉が渦を巻くようにぐるぐると頭の中を回っていた。そうしているうちにいつの間にか授業は終わっていた。

 ねえ、と佐伯さんに話しかけられて我に返った。

「もう終わったよ。帰らないの?」そんなに勉強したいのと佐伯さんは笑った。

「いや、図書館に寄ってから帰る」

「真面目だねえ。頑張って」

「読みたい本があるんだ。勉強したいわけではないよ」

 佐伯さんはふーんと漏らして、興味がなさそうだ。

 颯爽と教室から立ち去ろうとする佐伯さんをぼんやりと眺めていると、ふいに佐伯さんが振り返った。

 佐伯さんは窓の外を指差した。雨は降り続いている。「さすがに傘は持って来てるよね?」

 僕はかばんの横に置いてあった傘を持ち上げ、少しだけ胸を張った。「もちろん」

「良かった……。でも、少し偉そうだ」佐伯さんは顔を顰め、そして笑った。


 校舎を1階まで降りて、渡り廊下を進んで、別校舎へと向かう。別校舎に行くには一度、1階まで降りてからでないと行けないようになっている。少し不便だけれど、もう慣れてしまった。

 渡り廊下を進みながら、運動場を眺める。一日中降った雨で見るも無残な状態だった。止まない雨はないなんて言うけれど、本当にこのままずっと降り続けるのではないかという思いに駆られて少し怖くなった。

 図書館の前の広場のような空間も当然ながら雨でびしょ濡れだ。水溜まりを避けながら入口へと向かう。

 図書館の自動ドアが開き、体を滑り込ませる。再び自動ドアが閉まり、静寂に包まれる。それが何とも不思議だった。

 僕は学校の授業が終わったら、図書館によく来ていた。美穂と仲良くなったのも学校の図書館がきっかけだった。

 僕は図書館に行くと、テーブル席ではなく、いつも一番奥の棚の隣にひっそりと置かれた椅子に座って本を読むのが習慣になっていた。その棚にはほとんど人が来ないので、落ち着いて本を読める。そのお気に入りの場所に美穂もいつも座っていた。どちらから話しかけたのかはもはや覚えていないけれど、仲良くなったきっかけはそんなところだった。

 僕はまっしぐらに一番奥の棚へと向かう。棚の陰に隠れているので、本当に近くまで行かないとお目当ての椅子が空いているかわからない。

 右に曲がると一番奥の棚だ。通路を進んで、一番奥が目指す場所だ。徐々に近づいていくと、誰かが座っているのがわかる。誰だろうか。

 僕が椅子に辿り着くと同時にその椅子に座っている人物も顔を上げた。

「あっ准平君」

「美穂……」

「座る?私、もうそろそろ帰るから」

「いや、僕ももう帰るよ」

 美穂はほんの少し訝しそうな表情をした。僕が図書館に来たら、真っ先にこの場所に来ることを知っているからだろう。

「じゃあ、一緒に帰ろうか」

「うん」

 無言で図書館の通路を進む。

 自動ドアを抜けると、途端にざーという雨音に包まれる。先ほどよりは雨足は強い。そして止む気配もない。

 僕と美穂は無言で傘を差し、歩き出す。

 僕は美穂に訊こうと思っていることがある。いつもはぐらかされてしまう美穂の昔の話を。流されないように。躊躇わないように。

「小学校とか中学校のときってさ、一人だけ門限が早い子っていなかった?」

「ん?急にどうしたの?」僕の質問に美穂は少し怪訝な様子だ。

 構わず僕は続けた。「友達5人くらいで公園で遊ぶとするじゃん。そういうときって絶対一人だけ門限が早い子がいてさ、先に帰っちゃうの。で、一人ずつ帰っていって、最後に門限の遅い僕ともう一人くらいの友達だけが残る。二人で公園にいても仕方がないから、どちらからともなく帰ろっかっていう話になって、とぼとぼ家に帰るんだけど、僕の家は共働きだったから誰もいなくて……。公園から一人ずついなくなるのも家に誰もいないのもどちらもなんだか切ないし寂しくて……。たまに思い出して悲しくなる」

「うん。ちょっと意外かも。そういう風に感じるんだね、准平君って」

「そうだよ」

 あと少し歩くと校門が見えてくる。雨のせいもあって今日は部活がほとんど行われていないので校舎の中には人がほとんどいない。

「美穂に訊きたいことがあったんだ」

「訊きたいこと?」

「あまり訊かれたくはない?」

「何だろう……。内容による」

「美穂の昔のことが知りたくて……、でも訊く勇気がなくてさ」

「そうなんだ。訊いてくれてもよかったのに。ずっと待ってたのに」

「もっと早く訊けばよかったね」

「そうだよ」

 校門の前を車が走り抜ける。ちょうど信号が赤になったばかりだ。

「私、ずっと一人だったんだ」

 また車が水しぶきを上げて通り過ぎる。かろうじて一人というところだけは聞こえた。

「中学のとき体が弱くて入院してて、夜はずっと一人だし、怖くて眠れなくて」

「そっか」

 信号が青に変わる。どちらからともなく歩き出す。

「ベッドが窓際だったから外の景色が見えるんだけど、当然真っ暗で飲み込まれそうで……、よく深夜に病室を抜け出してた。看護師さんに見つかっちゃったけど」そう言うと美穂は寂しそうに笑った。

「怒られなかったの?」

「屋上に呼び出された」

「それはまずいね」

「でもね、病室を抜け出してたことは全然言われなかった」

「何か言われたの?」

「うん」美穂は横目でちらっと僕のことを見た。「看護師さんに言われたことで、すごく心に残ってることがある」

「どんなこと?」

「強く生きなきゃねって。そう言ったの」

「強く生きなきゃ、か。中学生にはなかなか難しいね」

「そう、難しいよね」

「その後は無事に退院できたの?」

「うん、その後は順調に。でも、学校に戻っても結局一人ぼっちで。そんなときに同じように一人だった翔子ちゃんに出会ったの」

「そっか。そう言えば、この前、佐伯さんに言われちゃったよ」

「なんて?」

「美穂は人一倍弱いんだからって。美穂を弱さで上回らないでって」

「翔子ちゃん、そんなこと言ったの?」美穂は心底おかしそうに笑った。

「そうだよ」僕もつられて笑った。「でも、ほんとにそうだよな。うん」

「翔子ちゃんとずっと二人だったとき、看護師さんに言われた強く生きなきゃねって言葉が過ったことがあって」

「うん」

「ほんとに辛いことがあって……、翔子ちゃんを裏切ってしまって」

 佐伯さんが言っていた中学のときのいじめの話だろうかとふと思った。

「そのときに思ったの。もし死んでしまったら、なんで死んでしまったんだろうって後悔すらできない。だったら、色々なことに後悔しながら生きていく方がいざ死ぬときに後悔せずに死ねるんじゃないかって」

 駅が見えてきた。駅の周辺は帰宅を急ぐ人で溢れている。

「そっか……。聞かせてくれてありがとう」

「こんな重い話でよかったの?」

「うん。ずっと訊く勇気がなくて、でもずっと知りたかったから」

「そっか。でも、私もありがとう。いつかは話したいって思ってたから」

 駅のロータリーの中に入り、二人同時に傘を閉じる。

「明日は晴れるかな」僕はどんよりとした空を見上げながら言った。

「晴れるよ、きっと」

「ほんとに?」僕は少しだけ、ほんの少しだけ疑わしげな眼で美穂を見た。

「うん。疑ってるでしょ?」

「うん」

 僕の立っている場所から、電車の発着を告げる電光掲示板が見える。美穂の乗るであろう電車があと2分ほどで到着する。僕の乗る電車はもうしばらくかかりそうだ。雨の影響で遅れているのかもしれない。

「美穂、もうそろそろ電車が来るよ」

 美穂は電光掲示板が見える場所に位置を変えて言った。「ほんとだ、行かなきゃ」

「乗り遅れるよ」

「うん。じゃあ行くね」

 そう言うと、美穂はくるりと後ろを向いて駆けて行った。

 改札口へと走り出した美穂の姿を追いかけていると、美穂がふいに振り返った。

「じゃあね…また明日」

「うん、また明日」

 美穂の姿が見えなくなると同時に電車の到着を告げるメロディーが聞こえてきた。美穂は間に合ったのだろうか。

 僕が乗るべき電車はまだ来そうにない。

 雨の音がずっと耳を谺している。

 その雨は止む気配を見せない。
















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