悪い奴ほどよく祈る

堀内テヅカミ

悪い奴ほどよく祈る




「万代さん、お疲れさまです」

 吸い殻の山に向かって呼びかけると、

「おう、どうだった」

 いつもの声が返ってくる。煙のなかの人影がのっそりと動いた。

「本日も手がかりなしです。ホシの出入りしていた店をしらみ潰しに当たったんですが、まるで駄目です」

「そうか……」

「もう海外に高飛びしてるのかもしれないですね。……すいません」

「そうか。ご苦労だったな」

「ただ、少しだけ気になる証言があって……」

「沙村、ご苦労だった」

 万代さんは椅子から立ち上がり、ゆっくりと伸びをした。背もたれで一日じゅう煙に燻されたスーツのジャケットには皺がまったくついていない。

「万代さん……」

「もう今日でおしまいだ。わかってるだろ。帰るぞ」

 自分たち二人以外の職員は、皆とっくに帰宅していた。熱血刑事ドラマのワンシーンを演じるにはどうにも格好がつかない。

 たった一週間で、どうやってホシを挙げろというのだろう。 

 捜査は予め定められた期限を迎えると強制終了となり、別の課に回されることになっていた。かつて一課、二課三課と分かれていた捜査課は、いまや「捜査課」のみとなり、いまや捜査を継続しているという名目のためだけに存在している。

 また、九時出勤十七時退勤、土日祝日の休みも徹底的に義務付けられていた。

 明確な出退勤の時間など決まっておらず、休日でも呼び出されれば現場に駆けつけるというのが、誰もが知るようにこの仕事の常識であったし、徹夜での張り込みなんてのもざらだった。また、そのことで不平を漏らす者もいなかった。警察官は単なる職種でなく、生き方だったからだ。

「沙村、お前シュークリーム好きか。家の近くに新しい洋菓子屋さんができてな。カスタードとホイップが二層になってて、でもその割には甘さひかえめで、うまいんだ。皮は何ていうかな、内側がもちもちして妙な食感なんだよ。それがまた病みつきになる」

 刑事の生き方というものをおれは他ならぬ万代さんに教わったのだが、その彼もいまではまったく別人のようになってしまった。少なくとも「洋菓子屋」に「さん」付けするような人ではなかった。





 正面玄関を出ると、外はいちめん茜色に染まっていた。

 空にはちぎれ雲がゆるやかに流れ、車道は朝方降った雨によって濯がれてすっきりとしている。昨日までの凍てつくような空気もまるっきり入れ替わった気がする。あれはどうやら春一番だったらしい。

「見ろ、沙村」

 振り返って見上げてみると、庁舎の窓に複数の人影が浮かんでいる。

 祈祷課。 

 そこでスーツを着ているものは一人もいない。民族衣装の博覧会さながらで、おのおの奇抜な紋様のついた服や装飾品を身につけている。頭上に手をかざす者、おもむろに跳ねたり、寝そべっては奇声をあげたりしている者。舞う者。また、一方ではただじっと目をつむり、正座している者もいる。独自の道具を用いる者は全体の半数ほどだろうか。木や石を打ちつける音や鈴の音は、少しずつ重なり合って増幅し、外に漏れていた。

 そして、この光景は建物のほとんどの窓に映し出されている。要するに、事件の数だけ祈りがあった。

「にしても、つくづくばかばかしい話だよな。さっきまで俺たちが血眼になって捜査していた事件が、もうあそこに回ってるなんて。毎度のことながら脱力するよ」


 いっそ祈ろう、と誰かが言った。

 警視総監だったか、首相だったか、いや天皇陛下だったか。今では誰も覚えていない。もっともらしい噂のひとつには、そのお偉い誰かの一人が次の言葉にひどく感銘を受けたらしい。 

「萬有の真相は唯一言にしてつくす、曰く不可解」

 華厳の滝に身を投げた、藤村操の遺書からの抜粋である。

 その日、その偉い方はきっと特別に疲れていたのだろう。もしくはクスリでもやっていたか。

 

 事の次第をあきらかにし、検証し、犯人を割り出し、とらえ、動機を述べさせ、刑を課し、更生させる。


 そいつは、これらの手続きが省略できることに気づいた。この一連の流れは、いわば人と人が時間をかけさえすれば理解しあえるという前提のもとに成り立っている。そこがまず根本的に間違いなのだと断じた。そして曰く。

 不可解なのだから、もう仕様がないのだ、と。

 もうもういっそのこと祈ろう、と。 

「あさこの奴……」

 天高く腕をつきだし、いっしんに目を閉じているのは万代警部の元妻だった。

「交通課のいち婦人警官が、いまや祈祷一課のエースですからね」

 祈祷一課は強行犯、つまり殺人、強盗、暴行、傷害、誘拐、立てこもり、性犯罪、放火などについての祈りを行う部署である。

「あれが祈りだしてから事故が激減したらしくてな。……どうも血筋らしい」

「血筋……?」

「ああ、実家が北海道でな。アイヌの、代々そういう血筋だったんだと。まるで知らなかったがな。隠してやがったんだな」

「すごいですね。じゃあサラブレットってことじゃないですか」

「馬鹿、お前まで信じるなよ。そんなもん、ただの迷信にきまってるだろ。祈って願って解決するんなら、世界平和なんてとっくに実現してる」

「まあ……そうですね」

「そうだろ。あれに特殊な能力なんて備わってるもんかよ。女なんてのは平気で嘘つくもんなんだよ」

 妻の祈祷課への重用、そして捜査課の空洞化により、万代家のパワーバランスはあっという間に崩れた。あれよあれよというまに別居、そして離婚と事は運び、来週から彼は独身である。

 余談になるがこの万代刑事。

 部下にとっては頼もしい上司であったが、いささか旧弊な価値観を持った男だった。生まれ育ったのがいわば亭主関白な家庭であったせいか、妻にも徹底的に「従順たる妻」であることを、はっきりと口には出さないまでも態度によってむしろあきらかに要求していた。

 貝の話がある。

 万代さんの自宅で開かれた宴の席でのことだった。仕事の話から少しずつ脱線して「近頃の女は云々」「女ってのはわけがわからん」と、彼は愚痴り始める。おれを含む部下全員が、また始まったよと含み笑いで目配せを交わしたものだった。

 だいぶ酔いも回った頃。

 つまみに出されたホヤ貝の塩辛をさして、万代さんが言った。

「お前のは、こんな綺麗な色じゃなかったよな。あさこ」

彼女はちょうどおれにお酌をしていた。うっすらと笑みを浮かべたまま硬直した顔の、肌の感じをよく覚えている。誰もがうっと息をのみ、畳をふむ音だけがはっきりと聞こえるようになった。

 万代さんは貝の身を箸でちょいとつまみ上げ、

「もっとドドメ色してんだよ。しこたま使い込んでるから。こいつは」と、なおも続ける。

 空気を読んだ部下のうちの誰かが、やんわりと流れを変えようとして口を挟んだ。

「いいんだよ、余計な気ぃつかわなくて」

 ふたたび酒をあおり、咳き込むように笑った。二、三人が思わずつられて笑う。

「こいつ、おれと会ったとき処女じゃなかったんだよ。貞操も守れない女は婢女だろ。一生な。だろ? あさこ」

 あさこさんはちゃんとお猪口の縁いっぱいに酒を注ぎ終え、空になったはずの徳利を意味もなく揺らしていた。




正門に次々と人が吸い込まれていく。

何故か祈祷課の大半は夕方から夜にかけて出勤する。ちゃんと確認したわけではないがきっと大した意味はない。夜の方が神秘的で都合がいいのだろう。月でも出ればやつら大急ぎで外に飛び出すのだから。

「八年も一緒に暮らしてきたのにな。もう弁護士を間に入れないと話もできねえとぬかす。……だから女はいやなんだ」

 かつての豪気な万代さんが戻るのは、こうして愚痴っている時だけだった。おれは何だかやりきれなかった。

 正門から数歩進んだところの道で、男が立ち小便をしていた。歩道の植え込みと男の下半身が黄色いまっすぐな線でつながっていた。

「おいおい、何やってる。ダメだよ、あんた」

 万代さんが男をかける。なんだかんだいって、こういう時には見て見ぬ振りというのができない人なのだ。

 男の着ているフクロウの写真がプリントされたTシャツは、襟元が「のしいか」みたいにちぢれていた。

 正面玄関には警察官が二人立っていた。

 彼らは男を認めるや否や、すぐさま祈った。

 後から出てきた警察官も「あっ」と立ち止まり、祈った。

 男は糸のもつれたあやつり人形のようにふらつきながら、こちらに向かって歩いてきた。

 両手はジーンズの後ろポケットに入れて、目は伏せたまま。ただフクロウの目だけはぱっちりと見開かれている。煙もないのに空気の動きが見えるような、そして風がゆったりと波打つような妙な感じがした。

 男はふわっ、とバランスを崩して車道に吸い込まれるかと思うと、今度は身をかがめて、やにわに万代さんの懐に顔をつっこんだ。

「……ご無沙汰してます、万代さん。昔、あんたに捕まった延谷です。おぼえてませんか、ドブ谷。へっ、ムショのドブに浸かって帰ってきましたよ」

口元はろくに動いていないのに、その嗄れた声はおれの耳にもはっきり届いた。

「次はあんたがドブの番だろ」

 延谷は万代さんから身を離すと、その濡れた手をTシャツの裾で拭った。フクロウの全身がぱっと赤い霧に包まれる。一瞬の出来事だった。

 正面玄関にいる警察官は、その場にひざまづいて万代さんの無事を祈っている。立派に職務を全うしているといえる。おれは走り去る延谷の背中を見た。そして、ホルスターから拳銃を引き抜いて構える時と同じぐらいの俊敏さで、手を合わせて祈った。

 延谷が逃げませんように。

 逃げたとして、あまり遠くに行きませんように。

 そのうち自首しますように。

 万代さんは背筋を伸ばしたまま、ゆっくりとその場にへたりこんだ。血の気の失せた顔、乾いた唇、うつろな目、その視線は祈る者たちを通り過ぎて斜め上空へ向かっていた。

 視線の先には庁舎の窓、「祈祷課」のひとつがあった。窓は残らず茜色に染まり、綺麗というよりかはインスタグラムの画像加工みたいでどことなく胡散臭い。

 そこにはやはり、あさこさんがいた。表情は読み取れないが確かにこちらを見てる。

 彼女は優雅な動きでもって手を前方に伸ばし、目を閉じた。思えばフクロウは、アイヌ民族にとって神様のひとつだと聞いたことがある。

 おれの祈りは届かず、延谷は翼を得たかのような速さでどこまでも遠くに逃げていくあ



 あさこさんが何を祈ってるのかは、誰にも知りようがない。



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