つの
堀内テヅカミ
つの
砂浜の端にそびえたつ〈それ〉は、思っていたよりも異物という感じがしなかった。
丈は、防砂林の二倍ぐらい。幹の直径はフリースロー・サークルほどだろう。根元はどっしりとしていて、中腹からなだらかなアーチを描いて細り、先端は夏の日差しに消えている。手のひらで触れてみると、内側からじわっと熱い。が、触れ続けられないほどではない。
ざらつく表面をなぞりながら、ゆっくり一周回ってみる。
ところどころに傷と落書き。焦げ跡は点在しているのがタバコで、放射状に広がっているのが手持ち花火だろう。海に面する側にだけ、苔が生えていた。
ぐるりと回って、元の位置に戻る。
鞄をおろし、両腕で幹を抱きしめてみる。目を閉じる。骨だ、とあらためて思う。
そこで指先が触れあった。
「おそいよ、マチさん」
やっぱり、いた。
スミちゃんは私と同じポーズでそこにいた。
〈Y市海水浴場の砂浜に、巨大なツノが出現した〉
そのニュースを耳にして、私はすぐにスミちゃんの事を思い出した。
そこに行けばきっと会える。確信はあったが、私はあえて時季を待つことにした。記者や野次馬が大勢いる中では彼女に会えないような気がしたのだ。
そして、思っていたほど待つ必要はなかった。いまや誰もアザラシのタマちゃんの行方に思いを馳せることがないように、季節が三つ過ぎる前に人々はツノから興味を失った。ツノは小中学校の写生大会の課題になり、地元サーフィン大会の大会名に加えられ、Y市ツノらーめん、Y市ツノソフトといったご当地グルメを生んだ末に日常の風景と化した。
「どれだけ待たせるのさ、まったく。たのむぜ」
「……ごめんごめん」
スミちゃんは腕組みして眉間に皺を寄せ、白い歯をみせた。
「待ちくたびれたぜ」
灰色の作業服にスニーカー、薄手の白手袋。同じものを私もつい先週まで身につけ、働いていた。
スミちゃんは、職場のパート仲間だった。
駅から専用のワゴン車で一時間半、鶏舎と田んぼの並びにある工場で、同じ機械のペダルを踏んでいた。そこでは主に百円均一で売られているビニール製品がつくられていた。機械のことはよくわからなかったが、電流を流してビニール同士を接着させるための特殊な代物らしかった。
時給は八五二円。休憩四五分の十時間労働。時間内に終わらないと班単位でサービス残業になる上、間違えると誰が間違えたか即座にわかるシステムになっていた。プレッシャーは重くのしかかるが単純作業ゆえに、監視役のオカトモという社員からは「こんな簡単な事もできないのか」と見下される、そんな仕事だった。
スミちゃんは二十歳で、私のちょうど半分の年齢だった。
休憩のタイミングが一緒で、よく話すようになった。気さくで明るい子だった。
頭が良く、仕事が早い。周りへの気配りもできる。これまで数多くのバイト先でリーダー格に上り詰め、そのつど辞めてきたらしい。理由は、上司である社員に法定どおりの休憩時間を要求したり、不正な残業を無くすべきだと進言したり、彼女いわく「余計なこと」をしたためだった。
「で、いつの間にかフリーターのプロになっちゃったぜ」
私たちはくだらないことを延々話した。どうにも話し足りず、仕事の後に駅前のマックに寄ったことも一度や二度ではない。
スミちゃんはいつも百円のコーヒーだけ頼んで、食べかけのメロンパンを鞄から出して齧っていた。低血糖のせいで手がふるえていた。「これ、これ見て」と、ふるえた手でケータイを差し出し、ネットで見つけた面白い動画を見せてくれた。インスタの自撮りではしゃぐアンソニー・ホプキンス、美輪明宏の声で鳴くフクロウなどだ。
「スミちゃん。これって、スミちゃんがやったの?」
私たちはツノがつくる巨大な日陰に座った。ひんやりとした砂が気持ちいい。
「そうだよ」
スミちゃんは当然のことのように答える。この暑いのに汗ひとつかいていなかった。
「………なんか、すごいね」
尋ねたくせに、そして予想通りの答えだったのに、私はそのことについて何と言っていいかわからなかった。
「もしさ、この下に地底怪獣が眠っていたら、マチさん、どうする?」
「……埋まってるの?」
「埋まってないよ? 埋まってるわけないじゃん。でもさ、たとえばこう、このツノが伸び続けてさ……ジャックと豆の木みたいに。宇宙までいっちゃったら、どうする?」
「……伸びるの? 宇宙まで」
「伸びないよ?」
スミちゃんは含み笑いを浮かべて立ち上がり、やにわにツノに向かって張り手を始めた。相撲の稽古でみる、「テッポウ」だった。
なんとなく腹が立ったので、私も立ち上がった。腰を低く保ち、パァンと柏手をひとつ打ってから手のひらを叩きつける。
真夏の日差しの下、私たちは揃ってテッポウした。
「あたし、ツノがあるの」
それを聞いたのは、工場の休憩室だった。マチさんにだけ言うね、という前置きのあとで彼女が耳打ちしたのだ。
スミちゃんは後ろを向いて髪をたくし上げ、右耳から上三センチくらいのところを見せてくれた。そこには確かに乳白色の突起物があった。触れてもいいよと言われたのでおそるおそる指先でさぐってみると、そこだけへんにつめたくて、陶器のように滑らかだった。
「……それ、いつから?」
スミちゃんはあからさまに声をひそめ、ここから更に極秘事項とでもいうように水筒のお茶をぐいっと飲んだ。休憩室の戸棚上には緑茶粉末が常備してあるが、それは社員のためのもので私たちパートが飲むのは禁じられていた。別に飲みたくもなかったが。
「これ、生まれつきなの。なんか骨が出っ張ってるんだって。普段は髪で隠れてるけど。で、初めはもっとざらざらしてたんだけど、触ってるうちにツルツルになったの」
「尾てい骨、みたいな……?」
私は自分の持っている知識をどうにか絞り出した。背骨の先にある尾てい骨は確か、尻尾の退化したものだったはずだ。出生時に成長が止まり、消えてしまうそれが、稀に残り続ける人もいるという。
「やっぱり、そう思う?」
スミちゃんは平常時でもわりと輝いている両目を、余計にきらきらさせて言った。
「だとしたら、あたしって元々は鬼ってことだよね?」
「え?」
「元々猿だった名残ってわけでしょ。尾てい骨って。だったら、あたし元々鬼だったってことじゃん」
「そう……かなあ?」
私は笑おうとしたけれど、スミちゃんがあまりに真顔すぎた為に途中で軌道修正した。
「そうだよ。だからあたしね、もっと鬼化しようと思って」
おにか、という言葉があまりに聞き慣れなくて「鬼化」と気づくまで時間がかかった。
スミちゃんはすっくと立ち上がった。空になった水筒のコップに緑茶粉末を残らずぶちこみ、粉塵の舞う中にポットのお湯を直線でそそぐ。
「あたし、ヒトの人生に未練なんかもう全然ないんだ」
「……ないんだぜ」と言い直してから、その緑の泥を彼女は立ったまま飲みほした。
「マチさんって、泳げる人?」
テッポウを終え、スミちゃんは顔全体にまとわりつく黒髪をつまんで払った。二人とも汗だくだった。
「泳げるよ」
「マチさん、なんとなく背泳ぎ得意そう」
「別に得意じゃないよ。クロールとか、の方が速いかな」
「木登りは?」
「無理。高いところ、無理だから」
「えー、得意そう、なんとなく。絶対得意だと思う」
「え、何で?」
「何でだろ……えーとね……、あ、わかった。コアラっぽいんだ」
「スミちゃん」
「悪い意味じゃないよ? 顔っていうか、雰囲気。マスコット的かわいさっていうか、あー、笹とか似合いそう。……じゃないか、それじゃパンダか」
「ユーカリだよ。そうじゃなくてさ、スミちゃん」
「何、ユーカリって。ふりかけ? あ、マチさん知ってる? コアラって一日二十時間寝るんだって。やばいよね。まじニートだよ。うらやましいぜ」
「スミちゃん!」
スミちゃんは全部分かり切ったような顔で、こちらを見ていた。
「私の話、聞いてくれるかな」
「……あ、話? えー、聞くよ? でも、その前にコアラ見てもいい? 一瞬だけ。それ見たら聞くから」
仕方なく私はケータイを取り出し、検索してコアラの動画を見せた。ユーカリの葉っぱをわしわし食べる野生のコアラ。眠るコアラ。イメージ通りに子コアラを背負う母コアラ。
その三分ほどの動画を見せたら、実際にスミちゃんは落ち着いた。
「あたしさあ」
だが驚くことに、話しだしたのはスミちゃんだった。不平ははっきりと表情で示したが、彼女は気にもとめずに続ける。思い返してみれば、いつもそうだった。
「中学校のときね、自由学習っていう授業があって。そこに通信教育とかで有名な大企業の、なんか偉い人が講演しにきたの。その人が正社員と非正規雇用者の生涯年収にどれだけ差があるのかっていう話をしてて、まあ、要するに〈フリーターになったら人生詰みますよ〉って話をしたの。その時は流して聞いてたんだけど、実際フリーターになった瞬間にふっと思い出したんだ。その時の光景っていうか、教室の空気とか、棒グラフとか、その人の顔とかネクタイの柄とか、全部。あー、あたし人生詰んだんだって思って。わあーってなっちゃって」
「ねえ、スミちゃん」私は我慢できなくなって切り出した。
「このツノって、なんなの? 何で伸びてきたの? これからどうなるの?」
「マチさんがわからないのに、あたしにわかるわけないじゃん。マチさん、あたしの倍以上生きてるのに」
「……私が、思うにね」
「マチさん、オカトモってどうしてる? 社員の」
もう一方的に話そうと思った。
「私が思うに」
「あいかわらずパートの若い子にちょっかい出してる?」
「思うに」
「あいつのことね、別に好きだったわけじゃないんだ。何でもいいから弱み握ってやろうかと思ってさ。まあだから都合良かったよ。あいつすけべで」
声色はつとめて平静を装っていたが、目には焦りの色が見えていた。私はしかし、話すことをやめなかった。やめないことが使命だと思った。
「っていうか、このツノって」
「っていうか、あたしたち絶交したじゃん。ここに何しにきたの」
そこまでが聞き取れる最後の言葉だった。
スミちゃんの口から轟音が噴き出す。腹の中に聖歌隊がいて、全員に溶けきった蝋でうがいをしながらゴスペルを歌っているような音だった。口は、そのままばっくりと開き、まず奥歯までが丸見えになった。いきおい運ばれてきた舌先が空の方角を指し示すように伸びたかと思えば、表面だけがつるんとめくれあがって、顔全体が裏返ってしまう。唾液に濡れた歯列が日を浴びてまぶしく輝き、逆にヤシの葉のようにぷらんと垂れ下がる頭髪は影にかくれる。その先がどんどん地面に近づくに従って、体がわかれてゆく。こまかい肉の繊維がぶちぶち切れて、血が思いもしないところからあふれた。
「このツノ、スミちゃんの生まれ変わりなんじゃないの」
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今日これから、私は法廷に立って証言する。
最初にまず、ブレーカーが落ちたこと。明かりがついたら、スミちゃんが倒れていたこと。
そばに居るほとんどの人が見て見ぬフリをしたこと。機械の示していた数値。焦げた匂い。
救急車を呼ぼうとしたら、オカトモが「派遣会社とまず相談しないと」と言った。会社の車を使って運べ、ただ外回りに使用中で二時間後に戻ってくるから、それから運びたい奴は運べと告げ、休憩に入ったこと。
記憶に焼きついているすべての出来事を白日の下にさらす。
すべては決して生まれ変われないスミちゃんのためだった。
「もっと鬼化しようと思って」「ヒトの人生に未練なんかないんだ」
あの時スミちゃんは、こう続けたのだ。
「少なくとも私が鬼だってこと、見せつけてやらなくちゃ」
マチさんも手伝ってくれるよね、と。
私はそれを断った。この年齢でまた職探しをするのが億劫だったし、すでに最底辺の暮らしをしているというのに、それを失うことが怖かった。また、彼女がオカトモとできているという噂を耳にしていたから、何となく信じられないような、からかわれているような気がしたのだ。
そのとき、たしかに告げられた。じゃあ絶交だね、と。
スミちゃんはケータイで美輪明宏の声で鳴くフクロウを観ていた。
太陽が雲に隠れ、昼間の暢気な風がぴたりと止まる。
足裏におおきな揺れを感じた。足指の間の砂がざわめきだす。
揺れの中で、いや揺れに乗じてか、地表から無数のツノが生えてきた。形はさまざまで、いずれも乳歯のようなまだ若いツノだった。よく見ればうっすら透けている。相当な天変地異のはずだが音はほぼなく、やかましいのは頭上のウミネコばかりだ。
いつの間にかスミちゃんはいなくなっていた。
私はケータイで時間を確かめ、砂浜を後にした。振り向きはしなかったが、ツノの群れがさらに育っていく気配を背中に感じた。繁殖、という言葉が頭に浮かぶ。
開廷の時間が迫っていた。
鬼化、もっと鬼化しなくちゃ。
巻き起こる砂埃に目をこすったら、かえってあたらしい涙があふれた。
つの 堀内テヅカミ @horiuchi_tezukami
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